2015年2月25日水曜日

Zygmunt Bauman on questions


“Not asking certain questions is pregnant with more dangers than failing to answer the questions already on the official agenda; while asking the wrong kind of questions all too often helps to avert eyes from the truly important issues. The price of silence is paid in the hard currency of human suffering. Asking the right question makes, after all, all the difference between fate and destination, drifting and travelling. Questioning the ostensibly unquestionable premises of our way of life is arguably the most urgent of the services we owe our fellow humans and ourselves.” - Zygmunt Bauman

2015年2月23日月曜日

小学生らが残酷画像を盗み見したことで問われる教員の管理責任!?



先日、Facebookでこんな記事を目にした。


三重桑名市教育委会は18日市立小学校の授中に激派組織イスラム国関連の画像をパソコンでた5年生11人が分がくなり保健室で休憩したと表した担任教が教室をれた索したとい市教委は子どもが心を持つことは十分に考えるべきだったとしており学校が全校童の保者に罪文を配った
               
生徒たちが別れて学習していた二つの教室を教諭が行き来していた際に、イスラム国に殺害された後藤健二さんの名前をコンピューターで検索したのだという。その記事は、こう締めくくっている。

学校は今後クラスの全を教らが家庭訪問して罪と明をする当面のスクルカンセラに心のケアをしてもらとい

元教員として、この学校で働く教員を気の毒に思う。この対処の方向性を決めたのが市教委なのか校長なのか知らないが、私だったらそんな器の小さいリーダーシップの下で教えたいとは思わない。きっと、学校自体が地域との信頼関係を築けていないんだろう。

もし、私がその子達の担任だったらどのように対処していただろう。

間違いなく学級会を開いてその子たちを叱っていたと思う。

もし私が学年主任だったら、学年集会を開き、生徒指導主任だったら校長に頼んで全校集会を開いて、一大事として取り上げていたと思う。いっそのこと親たちも招いた方がいい。

でも、私にとっての問題は、教員の管理責任や、時と場所をわきまえろなどということなんかじゃない。子ども達が観たか観なかったかを問題にしたいし、「命」について語りたい。

興味本位やその場のノリで人の死を、しかも同じ国で生まれ育った人間の死を、鑑賞対象として客観視できてしまうところに、子ども達のイマジネーションの無さと危機感を感じる。

殺された後藤さんの母親はどんな気持ちなのか

奥さんはどのような想いで彼を送り出し、彼の帰りを待っていたのだろうか

後藤さんの子ども達は、今後どんな想いで育っていくのだろうか。

こういうことは、我々大人が、子ども達に考える機会を与えていかなくてはいけないと思う。

この件では、しきりと教員の管理責任が問われているが、今のようにネットでありとあらゆる情報や画像が閲覧できる時代に、いくら管理しようとしたところで限界がある。もし、本当に子ども達をネットから守りたいのであれば、彼らを育てることだ。

私が、恩師である小関康先生の子どもたちとの係わりを見て学んだこと...それは 、究極の「管理」は「信頼」なのだということだ。随分前にも、こんなことを書いたことがある。

人を管理して、人は育つのか。

教育の場において、真の管理とは委ねることであり、育てること。

一番良いのは、あえて見られる状態にしておいて、「見ようと思えばいつでも見られる。でも考えろ。」という先生の一言を子ども達が真剣に考えることだ。



話を戻そう。もし、私が書いたように、今回のような事件への対処として学級会や全校集会などを開いて一大問題として扱うことにしたら、おそらく他の教員や管理職や保護者たちに反対されることもあるだろう。でも、そうしたら、信念もってぶつかればいい。子ども達のために、自分が信じていることを一生懸命やればいい。仮にその過程で、自分が子どものように他の大人に叱られて、へこんでも、それをしっかりと生徒たちに見せればいい。

小関先生が、初任校の最初の卒業生たちに言われたという言葉を思い出す。

「先生は、私たちのためにたくさん叱られてくれましたね。」

子ども達はちゃんと見てる。

「最後は子どもの心を掴んでる奴が勝つんだ」という小関先生の言葉通りだ。下手クソでも下手クソなりに一生懸命やる。そうしたら、いつの日か必ず返ってくる。

今、子や親の前で萎縮して、勝負できない教員や管理職が増えている。

新自由主義が入り込んで、親や子が教育の「消費者」となり、教員や学校が「サービス提供者」となってしまう中、「人を育てる場所」としての学校の第一の使命が機能しなくなってきている。私は、何よりもそのことに最大の危機感を感じている。

国の首相が戦争をしたがっているこんな時にこそ、今回の人質殺害事件のような事柄を、教員が、大人の代表として、大事に拾い上げて、子ども達に考えさせる機会を作ることが必要なのだと思う。教員時代、新聞もニュースもろくに見てなかった自分のことが悔やまれるが、こんな時だからこそ、大人の代表として子ども達と毎日接する教員が、教養ある人間として、社会の問題に関心を持って語って、自分自身の頭で臨機応変に考えることのできる子どもを育てていかなければならないと思う。


2015年2月2日月曜日

Kenji's prayer: The words that the beheaded Japanese journalist left behind.



"Close your eyes, and stay patient.

It's over once you get angry, and lose it.

It is close to a prayer.

Hatred is not our karma;

Judgment belongs to the realm of the gods.

They were my Arab brothers who taught me that."


So read a past tweet by the beheaded Japanese journalist, Kenji Goto. 
I am sending my love to Kenji's loved ones, my foreign friends, and especially our Muslim brothers and sisters around the world who send their prayers to his family and people in Japan. 


「イスラム国」に殺害された後藤さんの過去のツイートが注目を集めている。


「目を閉じて、じっと我慢。

怒ったら、怒鳴ったら、終わり。

それは祈りに近い。

憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。

そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」