我が家の毎晩の風景。2歳3カ月になる愛音が寝る横で勉強する。
とりあえず8:30頃には子どもと寝てしまうことにしている。
そして、小一時間ほど寝ると、集中力も復活するので、
誰に邪魔されることもなく、自分の気が済むまで勉強ができる。
この頃、僕に二人の娘がいることを初めて知ったクラスメイトに、 「大変だねぇ」 と言われることがよくある。僕は決まって
「全然大変じゃないよ。」
と返すことにしている。そして、そう口にする度に、小関先生が同じ言葉を言っていたのを思い出す。
小関先生はいつも忙しい人だ。
たくさんの大事な仕事を請け負うために、それらが重なることも日常茶飯事だ。例えば、3学年の学年主任をすると同時に担任として受験生を受け持ち、全国クラスの剣道部顧問(男女)として朝練・午後練の他毎週末のように県外へ遠征、その上小中学校体育連盟の事務局を務めていたこともある。
大変だねえ、と他の教員や保護者から寄せられる同情に小関先生はケロッと答える。
全然大変じゃないっすよ。
一つには、相手に気を遣わせないという彼の器の大きさがある。
受験を控えた3年生の生徒たちにもいつも言っていた。
受験生だからと言って親や周りに気を遣わせてるようじゃ勝負には勝てない。
もう一つは、きっと小関先生にとっては、大変だけど大変じゃなかったのだ。小関先生を見ていて常に思っていたのは、彼にとっては教えるという仕事と人生の境が存在しないのだ。だから、体は大変だけど心は全然大変じゃない。
現に、小関先生はいつも言っていた。
子どもといる時が一番心が休まる。
そんな小関先生を見ていると、 「仕事」 というものについて考えさせられる。
仕事を生きていく上でのoccupationと考えるのか、missionと考えるのか…。
仕事は生きるための 「手段」 と受け入れるのか、
仕事こそ自らの生きる 「目的」 と信じるのか…。
教えることは、小関先生にとって生きることそのものなのだ。
僕が、 「大変だねぇ」 、と人に言われ、 「全然大変じゃないよ」 と返すのも、決して嘘ではない。同じ学生をやってても、成績のために勉強している人はいつも 「大変!」 と言っているように思う。でも、以前、 『こなすのではなく』 でも書いたように、学びたいから学生をやっている人間にとっては、全然大変なんかじゃない。子どもが寝ている夜中に勉強したり、勉強以外の自由な時間がないという点では、家族をもっていない学生よりは確かに大変かもしれない。でも、それが苦になったりはしない。自分に与えられた環境に感謝しつつ、自分にできる精いっぱいのことをやるだけだ。それに、子どもの存在こそが妻との絆を強め、僕の情熱と勉強の懸け橋となってくれているのだ。
このブログに関しても同じように思っている。大変だけど大変ではない。だからこうして続けられているのだと思う。いつも宿題や睡眠の時間に食い込んでくるが、こうして書くことそのものが自分の学びになっていると信じている。その意味ではこのブログと、目の前の勉強と、自分の人生の境目は感じない。小銭を稼ぐためや、何かその他の目的のためにやっている人はどれだけ大変かと同情してしまう。
どんな人生を送るためにどんな仕事をするのか。大事なのは目的と手段を一致させることなのではないだろうか。
もちろん、全ての人が自分のライフミッションを見つけられるわけではないし、見つけたとしてもそれに従事できない理由がある人もいるだろう。でも、もしそうすることが可能な環境に恵まれたなら、その人にできることは、自分の恵まれた環境に感謝しつつ、自分の目指すべき生き方を謳歌することなのではないだろうか。それが、自分の人生に責任をもつことであり、自分に与えられた命に対しての恩返しなのだと僕は思う。

