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2015年1月16日金曜日

発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員

 「教員派遣」というビジネス
 新自由主義の理想を追い求め、公教育に市場原理を徹底的に導入した場合、「教員」の存在とその仕事はどのように変化するだろうか。その行き着くところは、教員の非専門職化、更には「使い捨て人口化」ではないだろうか。教員養成、教員免許、教員配置等のあらゆる過程において規制緩和が行われるため、教員養成は、従来の四年制大学の教育学部や教育大学院によってのみ担われていたシステムが自由化され、民間非営利団体や営利目的の会社までもが参入する教員養成市場ができるだろう。同時に、教員免許制度も規制緩和され、教員と教育の多様化と市場活性化の名目で、仮免許制度が設けられ、地域や学校の種類によっては免許がなくても教えられるようになることもあり得る。
 実際に、アメリカでは既にこれらのことが現実になっている。まず、免許制度に関しては、州によって法規制は異なるものの、公設民営校であるチャータースクールでは、正規免許がなくても教壇に立つことができる。そのため、教員養成においては、従来の教育機関に加え、たった5週間の集中講座で仮免許を発行するTeach for Americaなどの「オルタナティブ」と呼ばれるプログラムが教員養成の市場を形成している。また、それらの仮免許保持者が正規免許取得のために、教員の仕事をしながらティーチングのテクニックや技術を学ぶオンライン大学院まで登場した。
 しかし、教育において市場原理を追求した結果、教員の存在とその職務の在り方を最も根本的に変えるのは、教員養成でも教員免許制度でもなく、教員配置の分野なのかもしれない。特に、教員派遣のビジネスは著しく活性化し、派遣会社は、教員養成や教員免許という「生産段階」を飛び越し、既に出来上がった教員を、少しでも安く、速く、大量に確保しようと競い合うだろう。そうなれば、衣料品や電化製品などと同様に、労働力の安い発展途上国からの「輸入」に目を向けるのは、極めて自然な流れなのかもしれない。
 このシリーズの第一弾では、世界最大の多国籍教育企業であるピアソンを例に、教育産業の利益に動かされるアメリカの教育改革を描いた。第二弾では、新自由主義教育改革の象徴でもある学校選択制を通して、市場化によるアメリカ公教育の解体とそれに伴う教育格差の拡大及び民主主義崩壊の危機を描くことにより、日本への警告とした。第三弾となる今回は、アメリカの発展途上国からの「教員輸入」という国境をまたいだ問題を通して、新自由主義政策の教員及び彼らの仕事に対する影響を考える素材を提供したい。

続きはこちらから。

2015年1月6日火曜日

「ゼロ・トレランス」とアメリカ公教育の崩壊(予告)



今、アメリカは人種問題で揺れている。

ニューヨークとミズーリで相次いで起こった白人警官による丸腰の黒人殺害、そして加害者である白人警官の不起訴処分という大陪審の結論は、人種差別撤廃を訴えるデモとなって瞬く間に全米へと広がって行った。僕も、アメリカを代表するアフリカ系アメリカ人文化の中心地であるハーレムに住む一人の「有色人種」として、様々な想いを抱えながら、ニューヨーク市で行われた大規模デモに参加してきた。

残念ながら自分のようなアジア人は少なかったが、黒人やヒスパニック系に加えて、白人が多く参加していたことには感銘を受けた。もしかしたら、新自由主義の負のインパクトを感じている労働階級の白人らが、この事件を通して、社会的弱者を排除しようとする今の社会のあり方を問い直し始めているのではないだろうか。



大陪審は一般には公開されない。よって、証拠を見ぬままその結論が正しかったかどうかに固執することは有意義ではなく、逆により大事なポイントを隠してしまう。

これらの事件は決して独立したものでも、今日に始まったものでもない。ノーム・チョムスキーはこう指摘する。アメリカに最初の奴隷が連れて来られたのは1619年。我々は、アメリカ500年の人種差別の歴史を再現しているだけに過ぎない[1]。2012年だけで、少なくとも313人のアフリカ系アメリカ人が、警官、警備員、自警団などに殺されており、彼らは実に28時間に一人の割合で殺されていることになる[2]。よって、民衆の、特に黒人に代表されるエスニックマイノリティーの怒りは、人種等に基づく差別撤廃の象徴となった公民権法の成立から半世紀経った今なお、黒人が公然と国家権力に殺され続けているアメリカ社会の構造的な人種差別に向けられたものだと考えるべきだろう。

ただ、脈々と流れてきたアメリカの人種差別の歴史は、いつしか新自由主義と合流し、更に激しい流れとなり、黒人に代表されるエスニックマイノリティーだけでなく、低所得者、年金に頼る高齢者、そして障がいを持つ人々など、社会的弱者の切り捨てを加速させた。大人だけではない。1980年代の「薬物との戦争」に始まった「ゼロ・トレランス」政策は、公教育にも進出し、凄まじい勢いで子ども達に犯罪者のレッテルを貼り、教育を受ける権利と選挙権を剥奪することで社会から抹殺してきた。


僕が連載を続けている季刊『人間と教育』の次号(2015年3月発売予定)の特集は、「ゼロ・トレランス」だ。ゼロ・トレランスは、人種、階級、教育、人権、新自由主義、そして民主主義等の交差点に股がり、国家権力の統治の道具としての教育の姿をあらわにする重要な問題だ。今回は、ゼロ・トレランスのアメリカ公教育への影響を検証し、日本でのゼロトレランス検証の素材を提供したいと思う。

2014年6月1日日曜日

そもそも何でOECDが国際的な学力到達度調査を行うのか

PISAとフーコー

前々回、そして前回の投稿で紹介した、PISAに懸念を示すオープンレター。私が署名した一番の理由は、

「そもそも何でOECD(経済協力開発機構)が
国際的な学力到達度調査を行うのか」

という根本的なところだ。1970年代から既に新自由主義の危険性に警鐘を鳴らしていたフランスの哲学者、ミシェル・フーコー[1]は、新自由主義は、社会のあらゆる活動を経済的に分析する全く新しい価値観を人々に提供したと捉えている。それは、人間を経済的合理性を行動の基準とする生き物として位置づけるため、人々のいかなる関係も、行動をも経済的に分析してしまうp. 243。そして、このような理解の原則を受け入れ続ける限り、私たちは新自由主義の呪縛から抜けられないと示唆している。

PISAを批判するオープンレターの中では、「新自由主義」(neoliberalism)という言葉は一度も使われていない。しかし、OECDが世界各国の公立学校を評価するということ以上に、新自由主義の世界的な影響力を象徴するものが他にあるだろうか。

オープンレターの執筆者の一人であるHeinz-Dieter Meyer博士は、Global Policyに寄せた手紙で、「経済市場とITのグローバリゼーションの結果、市場経済の成長に献身する機関であるOECDが、今では世界中の公立学校の標準を定め、パフォーマンスを評価し、公教育の世界的権威として振る舞っている」と指摘。

なぜ私たちはこの歪んだ状況を当たり前のように受け入れているのだろうか。


教育の世界的権威となったOECD

勿論、OECDが勝手に世界の公立学校を評価するのは構わない。ただ、その評価が教育における世界的な権威となって各国の教育政策を誘導することは危険極まりない。

PISAの結果をどう受け止めるかは各国の政府次第だ、という反論もあるかと思う。ただ、世界のニュースを見るだけで、多くの国々がPISAの結果に一喜一憂し、いいように振り回されているのが良くわかる。

世界中で拡大するPISAの公教育への影響力は必至で、「PISAショック」という言葉にも象徴されるように、PISAに合わせて国の教育政策が動いていると言っても過言ではない。

例えば安倍政権は、PISAを利用して「グローバル人材の育成」の必要性を説き、公教育における英語、数学、理科、ICTのエリート教育を正当化した。このように、

「各国政府が、自国の教育政策を再編成、正当化、展開することにより、グローバルな統治の場において頭角を現そうとする」[2]のは、もはや世界的な徴候だ。

OECDの学力観


PISAの土台をなすOECDが打ち出す学力観も同様に歪んでいる。それは、「学力」=「世界市場における競争力」といった、経済的競争力増強を目的とする、狭く、偏った学力観であり、人間の教育の経済的アジェンダへの服従といっても過言ではない。

PISAの対象となるのは、解力数学科学のみ。

社会、外国語、美術、音楽、体育などの他教科はPISAの眼中にすら入っていない。

社会の経済的なニーズは満たしているものの、民主主義社会のニーズは、子どものニーズはどうなってしまうのだろうか。

私たちは、なぜこのように偏狭な学力観を、当たり前のように受け入れているのだろうか。これこそ、新自由主義が私たちの心の奥底まで浸透している証拠なのではないだろうか。

フーコーの理論は、30年の時を超え、今でも警鐘を鳴らし続けている。

私たち自身が知らず知らずのうちに、新自由主義的な世界観を内在化していること。

私たちが、それに従って自らの行動を制御し、競い合うことによって新自由主義の歯車となっていること。

そして「小さな政府」による支配を支えているのは、実は私たち自身なのだということ。[3]






[1] Foucault, M. (2008). The Birth of Biopolitics: Lectures at the College De France, 1978-79. Basingstoke, England: Palgrave Macmillan.
[2] Simons, M, Olssen, M, & Peters, M (Eds.). (2009). Re-reading education policies: A handbook studying the policy agenda of the 21st century. Boston: Sense Publisher. p. 44.
[3] 鈴木大裕 「教育を市場化した新自由主義改革 〜崩壊するアメリカ公教育の現場から〜」(『ジャーナリズム』2014年4月号)

2014年5月21日水曜日

失態だらけの校長公募制度について一言



昨日、Facebookでこんなニュースを目にした。

(毎日新聞 2014年5月21日)

「全国公募で民間から採用された大阪市立小学校の男性校長(51)がPTA会費を持ち出すなど、ずさんな現金管理をしたとして内部調査を受けていた問題で、市教委は20日、この校長を更迭する方針を固めた。山本晋次教育長はこの日の市議会で「校長が長期間、休んでいて、著しく校務に支障が出ている」と説明した。大阪市の民間人公募校長の更迭は2人目。」

民間からの公募校長...。

企業で実績を残した民間人を校長として迎え入れれば学校が良くなるだろうといった、いかにも新自由主義的な、シンプルで、短絡的な考えだ。

そんなんで教育が良くなると人々が思っているうちは、教育が良くなることはまずない。

これは、先日の投稿で書いた学校選択制の導入と同じで、教育原理を無視し、子どもを使った社会実験と言っていい。運悪くこのような校長の学校に入ってしまった子どもたちは、いったいどうなるのだろう。誰が後始末をするんだ?

私たちの子どもたちが日々学ぶ機関のトップに、なぜ子どもと教育のプロである「教育者」ではなく、「マネージャー」を入れたがるのか、理解に苦しむ。でもきっとそれは、教育を知らなくても、また子どものことを理解できなくても学校を運営できてしまう程、今の教育が貧弱化していることの裏返しなのだろう。

プロにしか務まらない学校を創ることに没頭することこそが、今の我々に求められていることなのではないのか。

いずれにせよ、民間人校長の公募は既に珍しくもなくなってきている。前回書いた、新人教員研修の塾へのアウトソーシングと同様、日本の公教育における新自由主義拡大が見て取れる。このような些細なところから、我々の感覚は徐々に麻痺して行くのだ。




記事には、以下のように、大阪市でこれまで起こった公募校長による不祥事の表が掲載されていた。



この件に関してはあまりフォローしていなかったので、こんな大問題になっていたとは知らなかった。この記事に関するツイッターを見たら、「またか」という感想が非常に多かったのが印象的だった。

同時に、一つ気になったことがある。

それは、人々のつぶやきの中に、校長公募制にこだわってきた橋下市長の責任を問う意見があまり見られなかったことだ。

冒頭に紹介した記事にはこう書いてある。

「大阪市の公募校長は、昨年春以降、セクハラや職場離脱、教職員とのトラブルで市教委に処分などを受けたケースや、着任から間がないのに自主退職をしたケースなど問題が相次いでいる。 (中略) 校長公募は元々、橋下徹市長(大阪維新の会代表)の公約でもあり、市は来年度に採用する公募校長の研修関連経費約2800万円を開会中の市議会に提案した補正予算案に計上。しかし野党会派の反発は強く、今回の更迭は議会審議に影響を与えそうだ。」

思えば、教育委員会制度改革を主張する中、教育委員会の「無責任体質」を批判し、責任の所在を明らかにすることを訴えた橋下氏。我々はもっと、教育を間違った方向に導いている政治家に対して責任を追求するべきではないのか。

ルクセンブルク大学のGert Biesta(2009)Education between Accountability and Responsibilityという論稿で、非常に興味深いことを言っている。

新自由主義教育改革において繁栄するアカウンタビリティーの文化は、「学校」と「市民」の関係を非政治的にし、「教育サービス提供者」と「教育消費者」の経済的な関係へと変えてしまうと言うのだ。

この新たな経済的な関係では、消費者となった我々は、支払う税金に見合う教育が提供されているかに関してしか口を出せず、「何を子どもたちに教えるべきか」とか「何を教育の目標とするのか」などという、教育の根幹に関わる政治的なことには口を出せなくなる。そうなれば、声を失った我々は、国家の描く教育のビジョンを受け入れざるを得なくなる。

これは先日、NY市の新自由主義教育改革に反対する集会で行ったスピーチでも言ったことだが、我々はまず、「教育市場」における「教育消費者」に格下げされることを拒むことからはじめなくてはいけない。

「市民」にこだわることだ。

新自由主義の期待に沿って、税金に見合う教育「成果」を教員や学校に求めるのではなく、民主主義社会を形成する「市民」として、より核心的なことを政治家たちに求めなくてはならないのだと思う。

教育の複雑さとしっかりと向き合うこと

社会のニーズだけでなく、子どものニーズにしっかりと耳を傾けること

子どもと教育のプロを各学校、各教室に配属できるよう努めること

そのために、資源を惜しまず、教員を魅力ある仕事にすること

彼らが教育の専門家として能力を発揮できるよう、できる限りのサポートを提供すること...。