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2010年11月21日日曜日

「約束」の意味 ~Revisiting “Responsibility” 3~

 ここ3回に渡って "Responsibility" (責任) の意味を問い直している。
僕にとって興味深いのは、Arendt の子どもの捉え方だ。Arendt にとって、「子ども」 は一時的な状態に過ぎない。彼女は、子どもを

“human beings in process of becoming but not yet complete”

「形成途中で未だ不完全な人間」

と表現している。そして、彼らが 「新しい」 のは、彼らの目の前に広がる世界との関係の中だけでのことであり、いつかは彼らも大人として子どもの産み出す力を育み、彼らに自分たちの古くなった世界の行く末を委ねる時が来るのだ。


Arendt は言う。


“Our hope always hangs on the new
which every generation brings.”


「我々の希望は常に新しい世代がもたらす新しきに懸っている。」


 『最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~』 で書いたように、自分は今まで責任を与えられる側からしか考えて来なかった。自分が常に与えられていたのだから無理もなかったのかもしれない。結果、無意識に僕は与える側、与えられる側に生ずる責任の関係を一方的に理解していた。つまり、責任を「与えられる側」だけに課されるものとして、そして心のどこかで、恩返しは与えてくれた本人にすべきものだと考えていたのだ。Arendt の考えは、僕の理解が不完全であったことを教えてくれた。


 亮太君帰国の朝、僕らは出発の数時間前まで飲んでいた。いろいろ振り返りつつ、彼が僕に対する感謝の気持ちを伝えてくれた。そこで、僕は今回の亮太君の訪問を通して自分が学んだことを告げた。


   亮太君が僕を必要としていただけではない。
   僕自身も、自分の責任を果たすために、亮太君を必要としていたのだ。



「私にできることがあるわ」と言った、Naraian教授の顔が思い出される。きっと彼女の使命感も、同じような所から来ているのではないだろうか。きっと、彼女も、亮太君を必要としていたのではないだろうか。


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 最後に、今回これを書くにあたって、一つ気になって調べたことがある。


それは、responsibility の中心的な要素である 「約束」 の語源だ。


ご存じの通り、英語では約束という意味を指すのに promise という単語を使うが、このpromise、本来は、

pro(前に) mise(送る)

という意味を指している言葉だそうだ。



語源を追及して浮かび上がってくる “responsibility” という言葉の意味…。それは、与える者と与えられる者が 「約束」 というバトンを前へ前へと繋いでいく姿だった。



- 完 -

2010年11月20日土曜日

最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~

 「あなたにとっての最大のテーマは?」 と誰かに訊かれたら、僕は間違いなく 「責任」 と答えるだろう。


 16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。


 以前にもこのブログにて、日本語英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来


    re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)

    「返す」     「約束する」     「能力」


という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。


「約束をもってお返しをする、

その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。


 しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。


 以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。


 しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。


 亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。


 その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。


“I have something to offer.”

「私にできることがあるわ。」

 
(続く…)