この夏、市内の教員のほぼ全員が集まる研修で、教育長が放った一言についてだった。
「大震災の教訓から、『自ら判断して行動できる生徒・児童』を育てなければ…。」
どうやら発信元は文科省かどこかわからないが、全国一斉の動きだったようだ。
小関先生はその時のことを次のように語った。
どの先生も頷きながら聞いていた姿は本当に滑稽だった。
そんな生徒が本当に育ったら、間違いなくごく一般の先生方には、やっかいな生徒だ。
僕は思った。そもそも、多くの先生はそのような生徒を育てられるわけがない。これについては以前にも 『叱るとは愛すること』 で書いたが、臨機応変に動ける生徒を育てることは、実は最高レベルの難易度にある教育目標だ。
そして、もし何かの間違いでそのような子たちが育ったとしたら、その時は間違いなく 「やっかいな生徒」 として扱われるだろう。
残念ながら、多くの先生たちは、子どもが子どもであり続けることを必要としている。いつまでも 「大人」 である自分の言うことをはいはいと聞き、どんな時も自分の指令を待つ優等生を作ることによって、「先生」 であろうとするからだ。
しかし、そのような教員はいつまで経っても 「先生」 になることはないのだと思う。そもそも、「先生」 なんて自分の意志でなれるものではない。決めるのは生徒だ。
Hannah Arendt が言うように、教師というものは全ての大人の代表だ。そして、教師の存在意義は、最終的に自分を必要としない生徒を育てることにある。
だから、教師の仕事にはビタースウィートな別れがつきものだ。
でも、それさえもが嘘だということを、Mr. Walker が身をもって教えてくれた。
別れなど、本当はない。
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