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2015年2月25日水曜日

Zygmunt Bauman on questions


“Not asking certain questions is pregnant with more dangers than failing to answer the questions already on the official agenda; while asking the wrong kind of questions all too often helps to avert eyes from the truly important issues. The price of silence is paid in the hard currency of human suffering. Asking the right question makes, after all, all the difference between fate and destination, drifting and travelling. Questioning the ostensibly unquestionable premises of our way of life is arguably the most urgent of the services we owe our fellow humans and ourselves.” - Zygmunt Bauman

2014年5月9日金曜日

橋下大阪市長と学校選択制 〜「選択肢」ではなく「権利」としての教育を〜


大阪市の橋下市長がこだわっている学校選択制のニュースを読んでいて思い出した言葉がある。

“For every complex problem
there is an answer that is
clear, simple, and wrong.”

20世紀前半のアメリカ史にその名を刻んだジャーナリスト、H. L. Menckenの言葉だ。簡単に訳せばこうなる。

「どんな複雑な問題にも、わかり易く、単純で、間違った答えがある。」

読売オンラインの『大阪市の学校来年度23区浪速区除き』という記事よれば、「大阪市全24区のうち半数の12区で今年4月に始まった「学校選択制」について、市教委は2015年度、浪速区を除く23区に拡大する方針を固めた」という。そして、今年は結局、小中計20校で受け入れ定員を超え、抽選を実施」したそうだ。

橋下氏の学校選択制のビジョンは、言葉を変えれば公教育の市場化であり、それは保護者や生徒らに通う学校の「選択肢」を与えることで学校間の競争を生み、教育を改善しようという試みだ。まず言えるのは、これは教育原理ではなく、市場原理に基づいた考え方だということ。教育を良くしようというのに、教育に関する知識を無視してビジネスに答えを求めるところに、既に大きな矛盾を感じる。

このように、社会のあらゆる活動を経済的に分析する新自由主義的な価値観は、大阪だけでなく日本全体、更に言えばグローバルな規模で主流になりつつあり、その価値観は、教育までをも個人に対する付加価値的な投資と再定義することで商品化し、公教育システムを教育「市場」へと変えてしまう。そして、学校選択制をいち早く取り入れたイギリスやアメリカの事例を見れば、学校を選べるようにするという規制緩和の次に来るのは、公教育の民営化だ。実際にアメリカでは、州によっては、「公教育」の枠組みで税金を使って、株式会社が営利目的の学校を運営することさえ可能になり、公教育がビジネスの豊かな土壌となってしまった。そのようなことを考慮すると、水道事業までも民営化しようとしている橋下氏の狙いは、学校選択制の先に見えて来る公教育民営化の可能性なのかもしれない。

次に、このような市場型学校選択制は、子どもを使った「実験」以外のなにものでもない。イギリスやアメリカでは、公立学校にもかかわらず、人気校はマクドナルドのように「店舗」を増やし、「客」を集められない学校は容赦なく閉鎖されていく。いいじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、閉鎖となった学校の子どもたちはいったいどうなるのか?

また、このような市場型学校選択制は、「平等な競争」という前提の下に為されるが、それは幻想にしか過ぎない。廃校のリスクを課される学校側に、少しでも良い生徒を集めようとする力が働くのは当然のこと。アメリカで、入学希望者の抽選における不正が数多く報道されていること、言語的な問題を抱える移民や、障がいをもつ子どもたちがたらい回しにされていることは、不思議でも何でもない。

そもそも、市場型学校選択制には、公教育における学校の序列化を正当化してしまうという哲学的な問題がある。同じ公立学校なのに「当たり」もあれば「はずれ」もある状況を許すことになるからだ。もちろん、選択制導入以前に、学校間で既に格差がないとは言わない。ただ、その格差を解消することに我々は力を注がないといけないのではないだろうか。それとも、「ダメ」な学校を排除することによって格差を解消しようとでもいうのだろうか。だとしたら、競争を通して平等を目指そうという考えには根本的な矛盾を感じざるを得ない。

はたして、橋下氏の公教育のビジョンには、「平等」という概念は存在するのだろうか?しないのなら、そのパブリックのビジョン自体に危機感を感じる。それとも、当たるかどうかはわからないが、誰にでも良い学校に入学するチャンスはある、という「機会の平等」を主張するのだろうか。だとしたら、それは先にも述べたように、「幻想」に過ぎない。これは拙著、『学校選択制と失われゆく「公」教育』(鈴木大裕、2014、季刊人間と教育 81号)で事例を幾つか挙げて書いたので、そちらを参考にして頂きたい。

一つ強調したいのは、大人になった時の不自由ない社会参加を保障する教育を受けることは、我々人間としての「権利」であり、「選択肢」ではないこと。憲法と教育基本法で教育を受ける権利を基本的人権として立派に保障する日本が、それを保障せず、「子どもの権利条約」にも批准してないアメリカの真似をしてどうするのか(詳しくは上記論稿参照)。

学校選択制は、私たち教員や市民のアイデンティティーにも大きな影響をもたらす。学校や教員は「教育市場」における「サービス提供者」となり、私たち市民は、既存の選択肢から選ぶだけの教育「消費者」と位置づけられる。それは、裏を返せば、その選択肢自体を問う権利を奪われることを意味している。つまり、教育の目的や教科書の内容など、教育の根本的な事柄について政府に介入できなくなるのだ。

学校選択制は大阪市だけの問題ではない。民主党政権下で抽出式へと変更された全国学力調査が、第二次安倍政権により再び悉皆式調査に戻され、世論に押された形で、文科省が全国学力調査の学校別の成績開示を市町村の判断に委ねるとの決断を下した。懸念されるのは、地域及び学校間の序列化と競争の激化による公教育の市場化だ。学校選択制も拡大されるかもしれない。その時、競争の中で人々は繋がりと教育における民主的参加の手段を失い、国家の教育ビジョンを受け入れる他なくなるのではないだろうか。

新自由主義の台頭により、社会のあらゆる側面がビジネスの支配下に置かれるこの時代、私たちは、「消費者である私」ではなく「市民である私たち」、「私の子ども」ではなく「私たちの子どもたち」というビジョンの下に民主的な政治参加をすることで、教育を通して民主主義の再生に取り組む必要があるのではないだろうか。




*学校選択制に関してのより包括的な批判は、鈴木大裕、『学校選択制と失われゆく「公」教育』(「季刊人間と教育」 81号、2014年)のこと。

2011年11月27日日曜日

Occupy Wall Street と Maxine Greene教授 Part 2

ティーチャーズカレッジの日本人の仲間と始めた『世界から日本へ1000のメッセージ』に寄せてくれたMaxineのメッセージ。




ある時、Maxineが僕にこう訊いた。(*ちなみに彼女はDr. Greeneと呼ばれるのを嫌い、多くの人々に親しみをもってファーストネームで呼ばれている。)

“What do you hope to do when you finish your dissertation?”

 「博士論文を終えた後あなたは何をやりたいの?」
“Well, I’m not sure, but I don’t want to be an academic. I want to be an activist.”
「ええ、まだはっきりとはしてないのですが、学者にはなりたくないと思っています。活動家になりたいですね」、と僕は正直に答えた。

すると、Maxineはこう応えた。

“I hope an academic can be an activist as well.”
「学者でも活動家になれると思いたいわ。」

 唸る想いがした。

確かにそうだ。それはMaxine自身が身をもって示している。学者である前に一人のアクティビスト(活動家)である彼女は、アメリカ社会を蝕む無関心を危惧し、既に1970年代から哲学を通して人々の麻痺した意識の改革に取り組んできた。

1973年出版の名著、Teacher as Stranger(日本語にしたら『よそ者としての教師』という訳が一番近いように思う)では、「哲学をすること」(“to do philosophy”)の重要性を次のように説いている。


“To do philosophy, then, is to become highly conscious of the phenomena and events in the world as it presents itself to consciousness. To do philosophy, as Jean-Paul Sartre says, is to develop a fundamental project, to go beyond the situations one confronts and refuse reality as given in the name of a reality to be produced.”


「哲学をすることとは、世界が自分の意識の前に姿を現す時、そこで起こる現象や出来事に対して高い意識をもつことだ。哲学をすることとは、ジャン=ポール・サルトルが言うように、根源的なプロジェクトをつくることであり、対峙する日常を超え、創られるべく現実の名の下にあたりまえの現実を拒むことだ。」*強調は僕のもの。)


『よそ者としての教師』とは何とも妙なタイトルだと思うかもしれないが、「よそ者」というのは意識の状態を指している。

「よそ者」には変化の無い日常にどっぷりとつかった地元の人間には無い意識の高さがある。我々は、新しい土地に行く時、馴染みのない文化や制度、新しい人々や生活スタイル、見慣れない地形や物事に触れ、何もかもが新鮮に見える。その土地の良い所もたくさん見つかれば、気に入らないことも見つかるかもしれない。そして必然的にたくさんの「なぜ?」という疑問が生まれる。よそ者にとって、目の前の現実とは、地元の人にとってそうであるように、あたりまえなものとは程遠い。
きっとMaxineはこう言いたいのだと思う。

もし我々が、大人には予想もできない子どもの無限の可能性を本当に信じるならば、彼らと接する教師がそのような高い意識で日々の生活を送らねばならない。目の前の現実を、ただ当たり前と受け入れるのではなく、一時的な、これから創られるべく現実としての未知なる可能性を信じ、生徒に教えなくてはならない。

僕が今、Occupy Wall Street (OWS) に参加しているのは、Maxineの影響が強い。
残念ながら今学期初めに肺炎を患い、今でも外部から鼻に入る管によって酸素を摂取している状態のため、彼女は自宅から出ることができない。でも、OWSのような運動を前にして、Maxineの活動家の血が騒がないはずがない。

 もし彼女が元気だったら、すぐにでもLiberty Plazaに駆け付けているだろう。彼女の視点に立って「現実」を見てみたい…。そんな想いが僕の背中を押した。





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Occupy Wall Street と Maxine Greene教授

“Do not wish to be a student in contrast to being a man. Do not study as a student, but as a man who is alive and who cares.”



「生徒であろうとする前に、人間であろう。一人の生徒としてではなく、命の通った、愛情深い一人の人間として勉強しよう。」



これは、Thomas Hayden(トーマス・ハイデン)という一人の学生の言葉だ。彼は、1960年代にアメリカの公民権運動で活躍したStudents for a Democratic Society(民主的社会を目指す学生の会)の創始者で、これは1962年のミシガン大学でのスピーチからの抜粋だ。



この言葉を教えてくれたのはこのブログに何度か登場しているMaxine Greene(マキシン・グリーン)だ。一か月以内に94歳になる彼女は、今いるコロンビア大学ティーチャーズカレッジの名誉教授(教育哲学)で、現役の教授の中ではダントツの最年長だ。実に1917年生まれだ。今を生きる我々の多くにとっては歴史上の人物であるJohn Dewey(ジョン・デューイ)の元隣人であったり、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)の誕生パーティーを2回ほど家でやってあげたりしたと言うから驚くばかりだ。



ただ長生きしているだけではない。American Educational Research Association (AREA), Philosophy of Education Society, American Educational Studies Association (AESA), and the Middle Atlantic States Philosophy of Education Societyという4つの学会の会長を歴任、現在11の名誉学位を持つスーパーウーマンだ。(詳しくは彼女財団のHPから)



彼女との最初の出会いは15年前、僕がまだ学部生の時に読んだ彼女のThe Dialectic of Freedomという本だった。様々な文学やアートを織り込んで描き出す独特な哲学観は僕に大きな衝撃を与えた。



2008年にティーチャーズカレッジに入学した時、僕が真っ先に取ったのは言うまでもなく彼女の授業だった。週一回、5th Avenueのセントラルパークが一望できる彼女のマンションで行われる授業では、幅広い年齢層で実に多様な歴を持つ人々がそれぞれの肩書を捨てて集まり、文学やアートが創りだす創造的な空間の中で、人間の根源的な問題を語り合った。



それ以降、何か機会がある度に彼女とダイアローグを続けてきた。






そして今、僕は彼女の助手をしている。

2011年春。卒業式の前に。

(続く…)

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2011年11月23日水曜日

Occupy Wall Street 予想される今後の展開

NY市警よ、ウォール街の傭兵になるな」
というメッセージを掲げる元警察署長(DailyMail)

Occupy Wall Street運動は今後どのような方向に向かっていくのか。次のステップを大胆に予想してみたい。

今、一番必要とされているのは、政府に都合の良いように使われている警察の ‘non-cooperation’ (非協力)だと思う。

1920年、ガンジーは、3億1500万人のインド人がほんの10万人以下の白人に支配されていることに注目して、‘non-cooperation’ の重要性とその可能性を語った。白人はインド人が提供する金と労働なしには何もできないのだ、と。

後に彼は次のように言っている。

“All exploitation is based on the cooperation, willing or forced, of the exploited…”


「自主的にせよ、強制にせよ、全ての搾取は搾取される側の協力の上に成り立っている。」

今、ここまで広がっていてもまだ政府がこの運動をある程度牽制できているのは、警察による協力があるからだ。しかし、1%の声を優先的に反映する政府による統治は、警察の ‘non-cooperation’ と共に崩壊するだろう。

既に、少しずつではあるがその可能性が見え始めている。


この運動に参加したフィラデルフィア州の元警察署長。以下の番組では、彼をフィーチャーしている。



また、700人以上が逮捕されたブルックリン橋封鎖の際の警察による暴力行為を見て、プロテスター達を守りに来た退役軍人たちもいる。 



“2nd Time I’ve fought for my country. 1st time I’ve known my enemy.”

以下は、一人の海兵隊員が警官30人を相手に説教するシーン。You Tubeに掲載されて以降話題騒然となった。



また、イラク帰還兵が重傷を負ったカリフォルニア州オークランドの警察組合は、市長に対する公開状を発表している。その中で組合側は、この運動に賛同する市職員によるストライキを指示しておきながら、同じ市職員であるはずの警察だけにはその取り締まりを要求した市長のリーダーシップを疑問視し、このように言っている。

We, too, are the 99%...Is it the City’s intention to have City employees on both sides of a skirmish line?”

我々も99%の人間だ…。散兵線の両側に市の職員を置くことが市の意図するところなのか?」

もしかしたら、警察が政府の命令を無視して、市民を守るという本来の仕事に戻る日は、そう遠くないかもしれない。

2011年5月26日木曜日

愛おしきは 流れそのもの

 今日、すてきな言葉に出会った。


古代ギリシャの哲学者、Heraclitus(日本語ではヘラクレイトスと呼ばれているらしい)の言葉だ。

“You could not step twice into the same river; for other waters are ever flowing on to you.”

「人は同じ川に二度入ることはできない。他の水がとめどなく流れてくるのだから。」


この言葉を引用しているJeffrey Henigは、同じ本の中で次のようにも書いている。


“History can inform the present, but it does not dictate it.” [1]


「歴史は現在に光を与えることはできるが、それに指令を出したりはしない。」


愛おしきは、流れそのもの。




[1] (Henig, J. (1994). Rethinking school choice: Limits of the market metaphor. Princeton, NJ: Princeton University. p. 102).

2010年11月13日土曜日

宗教における守破離 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 6~

 前回再投稿した 『信仰と自由の関係』 に対して、マサさんがコメントを下さった。彼の真っ直ぐな人柄が伝わってくる、真摯で批判的なコメントだった。彼のコメントを読みつつ、自分が何故、「宗教」 を持ちだしたのかを思い返してみた。そして、そうすることが、小関先生との出会いが僕の宗教観を如何に変えたかということを確認する機会を与えてくれた。


 僕にとって、『信仰と自由の関係』 を書くこと、それは自分の過去の宗教観を問い正すことだった。


 僕の宗教に対する考えは小関先生に出会って完全に覆された。


 冒頭の、「神を信じる人間はきっと自由なのだと思う」 というあの言葉、小関先生に会う前の自分だったらきっとこう言っていただろう。


 「神を信じる人間はきっと心が弱く、不自由だと思う。」


 小関先生も僕と同じように、ある特定の宗教をいらっしゃるわけではない。ただ、宗教に対する深い理解を持っていらっしゃる。それはご自分が、自分自身の先生を信じる感覚と宗教家が神を信じる感覚は似ているのではないだろうかという推察からだ。


 ここで僕が取り上げているのは 「何を」 信じるかではなく、信仰される対象の説得力の問題でもない。僕の興味の中心にあるのは 「どのように」 信じるかということであり、「信じきる」 ことから生まれる精神の自立だ。


 そして、それは宗教にも守破離を見出すことができるのではないかという一つの可能性を示唆している。


 世界中に散らばる無数の宗教を、「宗教」 という名目の下ひとくくりにするのはある意味馬鹿げているし、だからこそ前回の投稿で誤解を生んでしまったのだと思う。


 なので、ここでは 「宗教」 という institution ではなく 「神」 として、神の側からではなく個人の側から、人が神を如何に信じるかという個人的な体験として考えていきたい。





 先ほども述べたように、僕は、神を信じるという行為にも守破離という道筋があるように思う。


 意味も分からずにただハイハイと教えを守るだけの 「守」 から始まり、自分の行動を制限するだけでしかなかった 「枠」 が、いつしか精神の 「芯」 として内在化されていく。初めは困った時だけ、注意した時だけ守っていた神の教えは、いつしか自分の生活における全ての軸をなすようになるだろう。


 自分の弱さとの葛藤が消えることはないが、もはや迷いは消え、目指すべき所、今なすべきことが自ずと見えるようになる。教えには書かれていないことにも神の意志を問うようになり、神との対話から自分の行動を決定するようになるだろう。

 そしていつの日か、神の教えに挑む時が来るのではないだろうか。「挑む」 と言うと傲慢で挑戦的に聞こえるかもしれないが、根本にあるのは謙虚さと共に、我々人間にどれだけ神の言葉や行いを理解することができるのかという問題意識でもある。よって、挑むということは神の意志を真に理解しようとする、譲れない信仰心を持つ者にしか為せないことだ。


 僕の大好きな作家の一人に、パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいる。『アルケミスト』、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』、『星の巡礼』など、数多くの素晴らしい作品を世に送り出してきた作家だ。彼の作品の中に、『第五の山』 という宗教と深く関わる本がある。最後に、その中の一節を紹介して終わりにしたい。そこに描かれているのは宗教における守破離のプロセス、そして信仰と自由の関係であるように思えてならない。



 時には、神と争うことも必要なのだ。
人間は誰でも、その人生で悲劇に見舞われることがある。
住む町の崩壊、息子の死、誤った告発、病気による体の障害などだ。
その時神は、自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。


「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生に
しがみついているのだ?お前の苦闘の意味は何なのだ?」

 この質問にどう答えるかわからない者は諦めてしまう。
一方、神は公正でないと感じて、存在の意味を求める者は、
自分の運命に挑戦する。天から火が降りてくるのは、その時である。
それは、人を殺す火ではなく、古い壁をひき倒して真の可能性を
それぞれの人に知らせる火なのだ。臆病者は絶対に、
この火が自分の胸を焼くのを許そうとはしない。彼らが望むのは、
変わってしまった状況がすぐにまた、元通りになって、
それまで通りの考え方や生き方で生きていくことだけなのだ。
しかし、勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、
どんなにつらくとも、神をも含めてすべてを捨てて、前進し続けるのだ。


 「勇敢な者は常に頑固である。」


 天界では神が満足の笑みを浮かべている。
なぜならば、神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、
自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。
それは、自らの行動を選択し、決定する能力である。


 心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を
持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、
彼らは理解しているからである。 pp. 219-220




2010年10月25日月曜日

「愛というか。」

 次々と出されるペーパーが首まで詰まっていると言うのに、また苦笑いをしながらこれを書いてしまっている。昨夜初めて電話でお会いしたマサさん、そして古い付き合いのかおるさんから、 『世界に一つ』 『(続)世界に一つ』 に書いた自分だけの感性について共感の言葉をもらった。かおるさんはコメントの中で、パウロ・フレイレに言及しながらこんなことを言っている。



 「自分の思っていることを勇気を出して言うことは、人とつながることなんだと思う。愛というか。」



 実は、自分だけの感性や主観性を大事にすることについて書きながら、僕自身の脳裏にもパウロ・フレイレの言葉がちらついていた。



 かおるさんからコメントをもらい、久し振りに自分のquote bookを読み返してみた。そしてこんな言葉を見つけたので、ここでシェアしたいと思う。



 これを読んでくれているあなたへのプレゼントのような気持ちでタイプしました。



“To deny the importance of subjectivity in the process of transforming the world and history is naïve and simplistic. It is to admit the impossible: a world without people. This objectivistic position is as ingenuous as that of subjectivism, which postulates people without a world. World and human beings do not exist apart from each other, they exist in constant interaction” (Freire, P. 1970. Pedagogy of the Oppressed. p. 32).



“Human existence cannot be silent, nor can it be nourished by false words, but only by true words, with which men and women transform the world” (p. 69).



“Dialogue cannot exist, however, in the absence of a profound love for the world and for people. The naming of the world, which is an act of creation and re-creation, is not possible if it is not infused with love. Love is at the same time the foundation of dialogue and dialogue itself” (p. 71).


Paulo Freire

 2009年8月9日に始めたこのブログ、今回の投稿でちょうど200本となった。読んで下さっている皆様から勇気をもらい、続けられています。ありがとう。

                              With love,



                                                                 Daiyu