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2016年7月8日金曜日

ある校長先生のお話。




家で古本を処理していたら、手をつけていなかった本を一冊読んでしまった。以下はその中の一節。


 ある高校で夏休みに水泳大会が開かれた。
 種目にクラス対抗リレーがあり、各クラスから選ばれた代表が出場した。その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。からかい半分で選ばれたのである。
 だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、野次った。
 その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。校長先生である。
 校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。
 その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。

藤尾秀昭 『小さな人生論』より


ある時、「学校は人を育てる所だから」という恩師の一言にハッとしたことがある。今では校長には教育者としての資質よりも、経営者としての手腕が求められる時代になってしまった。そんなんで人が育つわけがない。教育者が相手にするのは生身の子どもであって、商品ではない。売るのではなく、育てるのだ。もちろん、教育にたずさわる者が一流の経営者から学べることはたくさんある。ただ、それは彼らの多くが人を育てる一流の教育者でもあるというだけで、経営ノウハウを学ぶわけではない。
 先述のエピソードのように、校長には学校の教育活動をリードする教育者であって欲しい。校長が自らプールに飛び込んだことで、きっと多くの人が恥ずかしい想いをしたはずだ。からかい半分でA子さんを推薦した生徒。それに賛同したクラスメイトたち。生徒間のそのような人間関係を許してしまった担任の先生。一生懸命泳ぐA子さんに対して生徒たちが野次を飛ばせるような雰囲気を許してしまった他の先生たち…。A子さんはどのような想いでその推薦を受け入れ、どのような覚悟で、その水泳大会当日に臨んだのだろう。もし私がその場にいたら、その校長と一緒に飛び込めていただろうか。


「頑張れ」「頑張れ」


その校長先生の声が聞こえてくるようだ。

2012年9月11日火曜日

9.11 ―危機における教えと学び― (編)


セントラルパークから見えたグランドゼロの光線

 


今日、911日はMaxine Greene教授との今学期最初の授業だった。彼女のアシスタントとなって2年目の今年は、彼女の方から「一緒に教えよう」と声をかけてくれた。彼女が94歳という高齢なこともあり、やることは尽きない。今はほぼ2日に1度の頻度で彼女に会っている。

 

それにしても、最初の授業が911日とは、何という偶然だろう。

 

Maxineと話し合い、9.11にちなんで、今回のテーマを、 “Teaching and Learning on the Verge”(瀬戸際の教えと学び)と名付けた。

 

扱った題材は3つ。

 

Forever After: New York City Teachers on 9/11 (Preface by Maxine Greene, 2006, TC Press)

Dialectic of Freedom, Chapter 1 (Maxine Greene, 1988, TC Press)

“Teaching in a moment of crisis: The spaces of imagination” (Maxine Greene, 2005, The New Educator)

 

今学期は生徒が26人もいるので、ありきたりの自己紹介ではなく、「9.11と自分」というテーマで、あの日あの時の自分を話してもらうことにした。

 

年代も20代前半から50代、国籍もアメリカ人の他に日本、中国、エクアドル、コロンビア、イスラエル、バーレーンと実に多様なグループだ。

 

知人をなくした人もいれば、テスト中にそのニュースが教室に届けられたにもかかわらず、何事もなかったようにテストを続けるように指導されたアメリカ人学生、当時イスラム教原理主義の学校に通っていて、学校全体が祝福ムードとなったというバーレーン出身の女性もいた。

 

場所も年代も異なり、しばしばぶつかり合う世界中の様々な観点。それらを持ち寄り、9.11という悲劇を一つのモザイク画にする…。その絵が完成することはないが、新たな観点が寄せられる度に、空白が埋められていく。

 

Maxineのある言葉を思い出した。

 

 

 

“No one of us can see the whole or sing the whole. Since I was a little child, I have known that all perspectives are contingent, that no one’s picture is complete.”         Maxine Greene

Releasing the imagination: Essays on education, the arts, and social change.

 

「全てが見え、全てが歌える者は私達の中には一人もいない。全ての視点は環境次第であり、誰の絵も、完全なものはないということに、私は幼い頃から気付いていた。」 マキシーン・グリーン 

『イマジネーションを解き放つ ~教育、芸術、社会変革についてのエッセイ集~』

 

 

 

これは僕の博士論文とも深くかかわってくる。

 

9.11をとってもわかるように、僕らには一人ひとり違った物語がある。

 

でも、なぜ僕らは自分達が語る物語を語るのか。その物語が生まれる背景にはどんな力が働いていたのか。それを追求した時、どんな世界が見えてくるのか…。

 

 

 

 

幸い、リスクをとることを恐れない、勇気ある生徒達だ。

 

次はAlbert CamuThe Plagueという小説を皆で読む。

 

当たり前の日常が音を立てて崩れ去った時、人々はどうするか。

 

生きること、そして 「自由」 の意味を考えていく。

 


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2012年8月8日水曜日

ウルム大聖堂前で




昔のものは、贅沢につくられているものが多い。



そう感じるようになったのは、以前 『サンクチュアリー』 で紹介したコロンビア大学のUnion Theological Seminaryに行くようになってからだ。



古い建物で、柱はもちろんのこと、階段の裏側まで施される凝った細工からは、贅沢に使われた時間と資源、そして昔の建築家のプライドが感じられる。



そのSeminaryが建築されたのは1908年。今訪問しているウルムにある大聖堂の建築が始められたのは実に1377年(完成は1890年)だ。歴史の深さも違えば、贅沢さのスケールも違う。







今回改めて感じたのは、スペースの贅沢さだ。



ウルムの大聖堂の前には、半径100mくらいはあるかと思われる大広場があり、そこではコンサートなど様々なイベントが行われる。



そして毎週土曜日にはその大広場に市が立ち、ところ狭しと出店が並ぶ。僕らが行った時も大勢の人々で市場は賑わっていた。



生き生きとした、色とりどりの花、バター、牛乳、チーズなどの乳製品、実にバラエティーに富んだハムやソーセージ、そして新鮮なフルーツと野菜…。



実に活気がある。



昔の人はなんて先見性があったのだろうと思う。



このような大広場を、仮に今、街の中心につくろうとしても実現しないだろう。



効率性と利益ばかりを追求しがちなこの世の中では、そんなことをするくらいだったら、一大ショッピングモールをつくれ、いや高級住宅地にしよう、などと反対されるのは目に見えている。



でも昔のヨーロッパの人々は、街の中心には当然のように人々が集まれる広場をつくってきた。これはイタリアに行った時にも感じたことだ。Platz(プラザ)と呼ばれる広場がなんと多いことか。そして、それらは今でも多くの人々の憩いの場となっている。



本を読んだり、アイスクリームを食べたり、恋人と寝そべったり、大道芸人の技に見入ったり…。実に時間がゆっくりと流れ、平和を実感させてくれる。







以前、小関先生の恩師である奥村先生が仰っていたことを思い出した。



これからの日本は、人間関係が築けなくなった人々を、学校が地域の核となって結び付けていくしかない。



むろんそれは、教育力の低迷する日本の学校と教員たちへの叱咤激励を込めてのことだ。



でも言えるのは、日本に地域の核となり得るものが消えてきているということだろう。



もっと言えば、社会が社会として機能していないということだと思う。



核のない社会。



必要性に基づき集まったわけではなく、どうして一緒に暮らしているのかもわからない。



一緒に暮らしているという実感すらないかもしれない。



人々が集まり、共にコミュニティーのことを考える、そんなパブリックスペースの構築が今、必要とされている。



そんなことを、ウルム大聖堂前の広場に思った。




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2012年8月5日日曜日

旅人と教会

今、ドイツのウルム(Ulm)という所に来ている。高さ世界一を誇るウルム大聖堂で知られる都市だ。




ウルムでは、ドイツ人研究者と結婚した妻の姉の家でお世話になっている。




昨日の朝、どこに行く当てもなく、一人で走りに行った。




家を出て、しばらく坂を下るとドナウ川に出る。




ドナウを上り、ウルムの町まで走るか、反対にドナウを下るか。




僕はまだ行ったことのない道を走るのが好きだ。ドナウが次にどんな景色を見せてくれるのか知りたくて、下ってみることにした。




しばらく走ると、道はドナウを逸れ、目の前に広大な農地が現れた。





トウモロコシと小麦畑が広がる、ドイツらしい景色だ。




どこへ向かうのかさっぱりわからないまま、ほとんど車も通らない田舎道を走る。




遠くに教会らしいものが見えてきたので、僕はその方角に走った。



写真中央より少し左側に、教会と思われる建築物のてっぺんが見えるのがわかるだろうか。

教会は町で最も高い建築物であることが多い。人々がお金を出し合い、町の威厳をかけて、立派なものを作ろうとするからだろう。




そしてきっと、ヨーロッパでは、何百年にも渡り、教会は旅人を町へと誘導する役割を果たしてきたのだろう。岬にある灯台が方角を知らせ、船を安全に誘導するように。




そんなことを考えるうちに、僕は自分が中世の旅人であるような錯覚におそわれた。




教会のふもとにある町は、どんな所なのだろう。




人々はどんな暮らしをしているのだろう。




日本人はいるのだろうか。




僕は受け入れてもらえるのだろうか。










辿り着いたのは、Neu Ulmという都市の離れ町だった。




こぢんまりとした、かわいい町だった。




アジア人どころか、黒人も一人もいない。




それでも、通りすがった人たちは僕に挨拶を返してくれた。




商店街と思われる所に、一軒の可愛らしいパン屋さんを見つけた。







おいしそうなパンばかりだ。




その中から、焼き立てと思われる小さな丸いパンを選んで買った。




プレッツェルのような、シンプルでも味わい深いパンだった。




その町に暮らす人々のことを、ほんのちょっとだけ、知ることができた気がした。

2011年8月13日土曜日

8年の歳月を越えて ~ 丸 1 ~

 思い返せば、去年の夏もかつての教え子から大きな学びの機会をもらった。2008年に教員を辞めて早3年の月日が経過したが、今になってようやくわかること、今だからできることがたくさんある。教えにも学びにも完璧はない。



 前回再投稿した 『不登校から日本一』 に出てくる卓球の福原愛ちゃんの話、読んで頂けただろうか。



 あれを書いた僕の理解は不完全だった。小関先生が若手にあの話をする度に、僕はわかったつもりでいた。若手があきらかに間違った答えを返すと、小関先生は決まって僕に模範解答を求めた。僕はいつも、先輩らしく若手に正解を提示した。でも、今考えると、先生に振られる度に、模範解答と理由を記憶の中から掘り起こしている頼りない自分にどこかで気付いていた。



 おそらく、僕にとってこの夏最大の気付きは、「福原愛ちゃん」が実は自分のクラスにいたということだった。それは「丸」という8年前、僕のクラスにいた一人の女の子だった。









 8年…。この時間をどう理解したらよいのだろうか。



 僕にとってそれは、丸に会いたいと思えるようになるのに要した時間だった。今だったら、自分の至らなさを心から謝れる、今だったら「大人」の余計な見栄を張らずに素直に彼女から学べる…。初めてそう思えたのだった。



 今年の夏、丸と何年かぶりに再会し、飲みに行った。僕の方から連絡を取り、実現したものだった。丸と会った夜、小関先生から一通のメールを頂いた。



   「心洗われたか? -^_^-」



いろいろ考えたあげく、一行の短い返事を出すことにした。



   「今日、初めて丸と会話をしました。」


(続く…)

2011年4月20日水曜日

再投稿: 校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空

「今日初めて授業をサボってしまいました…」と罪悪感に苦しむ友達からメールをもらった。そりゃ良かったね~。I've been there, done that ♪  なんくるないさ~。ハクナマタタさ~、と心から言いたい。エールっ!!






 今日、一つ授業をさぼってしまった。統計学の授業だ。

 担当の教授がモゴモゴ、しかも早口でしゃべる人で、正直僕にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。まるで教授の中にもう一人の存在がいるかのように、生徒たちにというよりも自分自身と会話している(映画『ロード・オブ・ザ・リングズ』に出てくるゴラムのようだ)。そんな彼のトークが僕にとっては面白く感じられて仕方がないのだが、授業の内容はちんぷんかんぷんになりつつあった。いろいろ考えたあげく、今日は授業に行かずにインターネットにアップされる彼の講義ノートをじっくり図書館で読み返すことにした(はっきり言ってそうした方が良く理解できる)。

 授業が始まる30分前まで授業に行こうか迷っていた僕は、同じ授業を取っている友達に電話をし、ノートを取ってくれるように頼んだ。



 ランチを買いに外に出た。空が急に広くなったように感じられた。11月中旬にしてはとても暖かく、とても気持ちのいい天気だ。心の中に新鮮な空気がいっきに入って、知らぬ間に僕の胸を縛っていたロープを解いてくれた気がした。

 自然と僕の足取りもゆっくりとなり、何か得した気分だ。大きくなった空を見上げながら、尾崎豊が校舎の影芝生の上で見上げた空もこんなんだったのかなぁと思いを馳せた。



 教室の窓から見える空と同じ空には到底思えない。



 ゆっくり歩いていると、いろいろな記憶が蘇ってきた。







 風邪をひき、初めて幼稚園を休んだ土曜の朝。僕の中に残っている、父親との最初の記憶の一つだ。家に父親がいるのをとても不思議に感じた。幼稚園でコマまわしが流行っていること、まだ僕がまわせなかったことを母親から聞き、父親が教えてくれることになった。

 僕が何回やってもまわせなかったコマを、いとも簡単にまわした父親を、僕は尊敬の眼差しで見上げたものだ。そして特訓した結果、昼ご飯前には僕もまわせるようになったのだ。

 その時父親が言った言葉、そして見せた優しい表情を今でもはっきりと覚えている。



   「どうだ。たまには幼稚園を休むのもいいだろう。」





 中学校で英語の教員をしていた時、ほぼ毎年、千葉市中学校英語発表会の指導、引率をさせてもらった。夏休み中、参加する生徒を部活の合間に学校に呼んで指導するのだが、9月初頭に稲毛海浜公園近くの会場で行われるその大会に行くことは、僕の楽しみでもあった。

 午前の部と午後の部の間に少しまとまった時間がある。僕はいつもその時間を大事にしていた。引率した生徒たちと近くの砂浜にエスケープするのだ。普段なら教室で他のクラスメートたちと勉強している時間、そんな時に見る海は格別にきれいだ。

 学校という枠組みから一歩出るだけで、景色は全く違って見える。ただの道路もいつもと同じように見えないし、体に入ってくる空気でさえ、どこかいつもと違う味がする。

 目の前に広がる砂浜、そして海。工業地帯に囲まれている海でさえ、どでかく見え、ゴミが点在する砂浜でさえ美しく見える。恥ずかしがりながらも、波打ち際まで走ってみたり、大声(本人いわく。実際はそうでもないが…)で海に向かって叫ぶ中学生の姿を見るのが大好きだった。







 学級に「T」といういわゆる「問題児」を抱えていた時にも同じような経験をしたことがある。実質、両親とも不在の状態で4人の兄弟だけで暮らすTは、学校に来たがらなかった。いつものように自分の空き時間に彼を家まで迎えに行った時のこと。



   「朝飯食ったか。」

   「いや。」

   「学校行く前に食ってけよ。」

   「食うもん何もねーし。」

   「そうか。…じゃあ吉野家でも行って朝飯食うか?」

   「え…?」


 驚いたことに、Tは席に着くと何も言わずに僕の箸とナプキンを取ってくれた。それに、店を出る前には頭を下げて「ごちそうさまでした」と言ったのだ。

 朝10:00、中学生などいるわけもない駅前の松屋で、二人で並んでかき込んだ牛丼はめちゃくちゃうまかった。


11/16/2009

2010年11月21日日曜日

「約束」の意味 ~Revisiting “Responsibility” 3~

 ここ3回に渡って "Responsibility" (責任) の意味を問い直している。
僕にとって興味深いのは、Arendt の子どもの捉え方だ。Arendt にとって、「子ども」 は一時的な状態に過ぎない。彼女は、子どもを

“human beings in process of becoming but not yet complete”

「形成途中で未だ不完全な人間」

と表現している。そして、彼らが 「新しい」 のは、彼らの目の前に広がる世界との関係の中だけでのことであり、いつかは彼らも大人として子どもの産み出す力を育み、彼らに自分たちの古くなった世界の行く末を委ねる時が来るのだ。


Arendt は言う。


“Our hope always hangs on the new
which every generation brings.”


「我々の希望は常に新しい世代がもたらす新しきに懸っている。」


 『最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~』 で書いたように、自分は今まで責任を与えられる側からしか考えて来なかった。自分が常に与えられていたのだから無理もなかったのかもしれない。結果、無意識に僕は与える側、与えられる側に生ずる責任の関係を一方的に理解していた。つまり、責任を「与えられる側」だけに課されるものとして、そして心のどこかで、恩返しは与えてくれた本人にすべきものだと考えていたのだ。Arendt の考えは、僕の理解が不完全であったことを教えてくれた。


 亮太君帰国の朝、僕らは出発の数時間前まで飲んでいた。いろいろ振り返りつつ、彼が僕に対する感謝の気持ちを伝えてくれた。そこで、僕は今回の亮太君の訪問を通して自分が学んだことを告げた。


   亮太君が僕を必要としていただけではない。
   僕自身も、自分の責任を果たすために、亮太君を必要としていたのだ。



「私にできることがあるわ」と言った、Naraian教授の顔が思い出される。きっと彼女の使命感も、同じような所から来ているのではないだろうか。きっと、彼女も、亮太君を必要としていたのではないだろうか。


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 最後に、今回これを書くにあたって、一つ気になって調べたことがある。


それは、responsibility の中心的な要素である 「約束」 の語源だ。


ご存じの通り、英語では約束という意味を指すのに promise という単語を使うが、このpromise、本来は、

pro(前に) mise(送る)

という意味を指している言葉だそうだ。



語源を追及して浮かび上がってくる “responsibility” という言葉の意味…。それは、与える者と与えられる者が 「約束」 というバトンを前へ前へと繋いでいく姿だった。



- 完 -

2010年11月20日土曜日

「二重」の責任 ~Revisiting “Responsibility” 2~

 先日、 “Arendt, Greene, and ‘shu-ha-ri’: the Dialectic of Freedom” というタイトルの論文を書いた。時間を十分かけ、格闘の中にも楽しみと情熱を忘れずに書き上げることができた。ここでは、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント)の responsibility の概念に焦点を絞って語ってみたい。


 Arendt は大人には二つの responsibility があるという。一つは自分たちの世界に対する責任、もう一つは子どもに対する責任だ。


世界に対する責任
 まず、自分たちの世界に対する責任とは、「世界を子どもから守ること」であり 「古きを新しきから守ること」 だ。子どもに自分たちが守ってきた伝統や価値観を好き放題に壊させてはいけない、自分たちが歩んできた道のりにプライドを持て、もしくは持てるような生き方をしろと言うArendt の叱咤激励が聞こえてくるようだ。


 と同時に、Arendt がイメージする 「世界」 とは、そんなきれいごとだけでは済まない。善いもの美しいものだけではなく、悪しきもの醜いものもそっくりそのまま子どもに教えなければいけない。子どもたちはそうすることによって初めて、自分たちが受け継ごうとしている世界が発展途上で不完全だということを知るのだ。


 Arendt は更に主張する。全ての人間がいつかは死すべき運命にあるように、この世界も進化を止めれば死にゆく運命にある。そして、その進化を為し得るのはいつの時代も子どもだけなのだ。皮肉にも、大人たちは自分たちが守ってきた世界を慈しむが故に、子どもたちにそれを創り変えさせるのだ。


 こうして、世界に対する責任は徐々に子どもに対する責任へと融合していく。


子どもに対する責任
 Arendt は、子どもは “natality” (産み出す力)というものを持って生まれ、一人ひとりが新しさと革新の要素を持っていると断言する。そして、大人の責任とは、「子どもを世界から守ること」、「新しきを古きから守ること」 であり、彼らが世界を創り変えるための準備をすることだ。


 これらの分析から導かれる一つの結論、それは、世界に対する責任を全うすること(古きを新しきから守ること)は逆に子どもに対する責任を全うすること(新しきを古きから守ること)をも要求するということだ。


 これは、大人に課される 「二重」 の責任は、実は古きと新しきの間に存在する一つの緊張の関係であり、我々大人はその両端を包含する教育によってのみ、世界の存続を可能にすること意味している。

(続く…。)

最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~

 「あなたにとっての最大のテーマは?」 と誰かに訊かれたら、僕は間違いなく 「責任」 と答えるだろう。


 16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。


 以前にもこのブログにて、日本語英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来


    re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)

    「返す」     「約束する」     「能力」


という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。


「約束をもってお返しをする、

その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。


 しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。


 以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。


 しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。


 亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。


 その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。


“I have something to offer.”

「私にできることがあるわ。」

 
(続く…)

2010年10月22日金曜日

(続)世界に一つ

 今日これを書いてることそのものに僕の性格が表れているのかもしれない。中間試験中だが、『世界に一つ』 を書き直してみようと思う。昨日書き終えた時点で、どこかしっくりこないところがあり、ずっと気になっていたのだ。



 昨日の記事で、勉強とは関係のないことに没頭しながら、そうすることが 「無駄だと思ったことはなかったし、自分の学びとどこかで繋がっていることにも気付いていた。でも、どこで繋がっているのかがわからなかったのだ」 と書いた。これは嘘だ。



 自分に正直に振り返ってみると、これら 「関係のないこと」 に没頭しながら、どこか焦りを感じている自分がいた気がする。そうだ。決して無駄ではない、きっと自分のためになっているのだと言い聞かせてきただけだ。これらのことに打ち込みながら、どこかで自分の学びとも繋がっているのではないかと思っていたが、それが本当なのか、だとしたらどう繋がっているのかは分からなかった。



 博士課程3年目に入り、博士論文のテーマがいよいよかたまりつつある。今度改めて書こうと思うが、テーマも、切り口も、手法も、人とは全く違うのだ。授業を受けていても、自分が発する問いや主張が他の人にとって極めて新鮮なものらしいということが最近よくわかる。



 この 「自分らしさ」 が何から生まれているのかと言えば、今まで自分が歩んできた人生としか言いようがない。今までめぐり会った素晴らしい書物の数々、一本一本真剣に向き合って書いてきた無数の論文、そのプロセスから得た技術や内在化してきた自分の価値観は、今の自分に大いに関係ある。ただ、自分の最大の強みはと訊かれれば、躊躇することなく、様々な経験や人との出会いだと答えるだろう。そして、それらの経験や出会いの多くは、「関係のないもの」 を通して得たものだ。



 もう迷いはない。無駄になったことは一つもなかった。全ては、世界中で自分だけにしかない感性の源だったのだ。







 意見を述べるにしても、主張を書くにしても、大事なのは自分を隠さないことだと思う。

 自分の感性に心を傾け、恐れずに自分にしかない主観性を表現するのだ。

 それが人生の恩恵に対する恩返しであり、そうしないことは自分の人生、そしてそこで出会った全ての優しさを否定することだ。





 『世界に一つ』 を読んで、同じTeachers Collegeで頑張っているさきちゃんがすてきなQuoteを紹介してくれた。



"The precious, intangible gems like happiness, satisfaction, self-respect,
and pride―they are the thanks to the people who come into your life.
Life is not what you alone make it. Life is the input of everyone
who touched your life and every experience that entered it.
We are all a part of one."

- Yuri Kochiyama -

2010年10月21日木曜日

世界に一つ




 先日、ある決意をした。

    僕は、人生を 「感性」 で生きていく。

 体を動かすのは好きだし、逆に動かしていないと気が済まない性格だが、自分の身体能力で生きていくことはまずないだろう。かといって、今は教育学の理解を深めるためにひたすら勉強しているが、知性のみで生きていくつもりもさらさらない。知性というのは、その人のある一つの側面に過ぎないと思う。







 当たり前のことなのだが、日々の勉強の中、人と同じ物を読んでも、同じ講義を聴いても、同じテーマについて書いても、話しても、自分がどう感じどう表現するかに 「自分」 というものが表れる。もし、純粋な 「知性」 というものが存在するのなら、自分がどう感じどう表現するかということに関しては、知性だけでは割り切れないものがある。自分の生い立ち、育った環境、自分の肌の色、性格、様々な経験や出会い、それら全てが影響してくる。






 
僕は昔から、「勉強」をしながら、一見勉強とは全く関係のないことに没頭することが日常茶飯事の生活を送ってきた。今でも Teachers College にいる日本人のネットワーク作りをしたり、イベントを企画したり、お父さんサークルを作ったり、このブログを書いたり、新たなブログを立ち上げたり…。でも、これらのことが無駄だと思ったことはなかったし、自分の学びとどこかで繋がっていることにも気付いていた。でも、どこで繋がっているのかがわからなかったのだ。



でも、この前気付いたのだ。自分の最大の強みは、今まで読んできた数々の本から得た知識でも、書いてきた無数の論文で練り上げた技術でもない。様々な経験や人との出会いこそが僕の最大の強みなのだと思う。たった37年の人生だが、本当に良い想いをたくさんさせてもらってきた。様々な物事や人からもらってきた優しさの数では誰にも負けない。(もしかしたらみんなそう思っているのかもしれない。だとしたら、そんないいことはないだろう。)そして、それらの優しさが一瞬一瞬自分にどう囁きかけているのかに耳を傾け、対話し、表現していくのだ。 「客観性」 の名の下に聞こえないフリをするのではなく。










 人の一挙一動を統合しているのが感性。






 そしてそれは間違いなく、世界に一つしかない。




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2010年10月15日金曜日

答えのない問い

 このブログにもう何度も登場しているマキシン・グリーン(Maxine Greene)という一人の女史がいる。現在93歳でありながら自宅で授業を教え続ける教育界の巨匠だ。93歳と聞いてピンとこない人も、昔彼女がジョン・デューイ(John Dewey)の隣人だったと聞けばセンスがつかめるかもしれない。



 コロンビア大学Teachers Collegeで彼女ほど重要な人物はいないのではないだろうか。1年に一度か二度、何かのスペシャルオケージョンの時のみ大学に姿を現すが、その時は必ずそのイベントの主催者から、「今日は我らがマキシン・グリーンも会場に来てくれている」 と紹介を受ける。



 その彼女の自宅で、先日ミニコンサートがあった。彼女の授業を受けたミュージシャンの学生が発起人となって、ある晴れた日曜日の午後に行われた。



 僕も娘二人を連れて参加させてもらった。マキシンは、自宅にやってきた子どもたちを見てことのほか嬉しそうだった。



 ミュージシャンたちをソファーやイスで大人たちが囲む中、うちの子たちは最前列の床に陣取り、踊ったり手を叩いたり。下の美風は途中から熱くなって上半身裸になる始末。そんな子どもたちにマキシンはずっと暖かい視線を送っていた。



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 2008年、僕が彼女の授業を受けていた際、彼女が繰り返し言っていた言葉がある。



“The most important questions are
those that are unanswerable.”


「最も大事な問いは答えのない問いだ。」



 教育政策、教育法と、様々な紆余曲折を経て哲学に戻ってきた今だから分かる気がする。マキシンは問いのない、一見安静な状態を恐れている。



 大切なのは答えを出すことではない。動き続けることだ。



 停滞の中から新しいものは生まれない。そして、進みゆく時代の中、止まることは死を意味している。


 人間は、時代から投げかけられる問いのみでなく、20世紀以上にも渡ってずっと格闘してきた問いと向かい合い、問い続けることによってのみ、人間であることを主張できる。


友人のSeungho、そしてMaxineと娘たち。



2010年9月21日火曜日

"Responsibility" and its etymology

     Here is an attempt to translate an essay I wrote a while back, in 1999. No translation is ever perfect, and this “translation” turned out to be a completely different essay which, at least, tried to preserve the original essence. For those who can read Japanese, the original version can be found here.




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     When I was teaching ESL in Japan, I came across the word origin of “responsibility.”

I learned that it consisted of three parts:

  “re” (return), “spondere” (promise), and “ability” (ability).

A strange sensation of comfort took over me. I couldn’t make sense of it then, but my heart somehow knew and accepted it.


      Later, I came to interpret the etymology in this way.

The components imply a relationship between the giver and the given, where there is a sense of obligation in the latter to give back for what has been given. In this sense, this relationship assumes continuity and growth of capacity over time.

It is also a relationship that is sustained by trust and a promise. On one hand, the giver waits, believing in the potentiality of the given. On the other hand, the given builds on what was entrusted to him and commits himself to a promise that one day he would return the gratitude in his own way.

Responsibility, then, is proactive in essence rather than reactive, internal instead of external.

It emerges out of one’s appreciation, resolution, and the ability to live it.

2010年9月13日月曜日

63歳で留学の夢を果たしたある社長の話

 2008年に再渡米してから、毎日のように僕が通って来た場所がある。コロンビア大学Teachers College(TC)の図書館だ。授業の有無にかかわらず、最初の2年間はたいていそこで勉強してきた。



 TCはアメリカで最古にして最大の教育大学院。1889年創立、100以上のプログラムがある。マンハッタンの120丁目、Amsterdam AvenueとBroadwayの間に位置するが、その中央部にそびえ立つ古いレンガ造りの建物が図書館だ。



 1階は本の貸し出しカウンターがある他、コンピューターが並んでいる。2階はディスカッションできるオープンスペースになっている。グループワークをしたりする時に便利だ。3階は静粛な雰囲気で勉強できるスペースとなっている。6人掛けの大きなテーブルが大部屋に左右均等に並べられ、両端の窓際には、より隔離された雰囲気で勉強したい人用に、サイドに仕切りのある勉強机が並べられている。日本の建築では優に2階分のスペースを取るほど天井が高くて気持ちがいい。



 2階と3階の間の踊り場の床石には小さな窪みがある。最初からそうだったのか、誰かがよほど重い物を落としたのか、それとも長年人々に踏まれ続けその重みに耐えかねたのかは分からないが、いつもその窪みを踏んで3階に登るのが僕の習慣になっている。きれいに統一された筈のデザインの中に存在するそんな一つの不規則が愛嬌となり、人に愛着を持たせる。



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 2010年2月、TCの図書館で威光を放つ白髪のアジア人男性がいた。少なくとも50歳後半はいっていると思われた。髪は短く、推定年齢の割にはがっちりしていて、背も高く、アジア人離れした体型をしている。今年に入ってから図書館でほぼ毎日見かけるようになった。



 時折席をはずすことはあったが、たいていは朝早くから夕方まで、常に3階の僕の定位置の後ろ斜め右の席で書物やパソコンと向き合っていた。



 何をしている人なのだろうか。きっと教授に違いない。でも何故毎日ここで勉強しているのだろう。教授だったら自分のオフィスがあるだろうに。まさか学生じゃないだろう…。



 いつからか僕はこの男性のことがとても気になり始めていた。相手も僕がいつもそこにいることを認識していたようだ。



 ある時から互いに会釈を交わすようになっていた。いかにもアジア人らしい、何とも言えない微妙な距離感。周りのアメリカ人にはどう映っていたのだろう。



 ある日、トイレに行く途中すれ違った。僕は思わず話しかけていた。



    “Hi, we have seen each other so many times. My name is Daiyu.”



そう言って僕が握手を求めると、彼も嬉しそうに、 Nice to meet you, too. と握手してくれた。そして今度は Where are you from? と彼が訊いてきたので、Japan と僕は答えた。



 すると、その男性は笑顔で細めていた目を丸くさせて、Oh! と言い、今度は両手で握手を求めてきた。



 まさか、と僕は思ったが、そのまさかだった。



 日本人だったのだ。しかもコロンビアの国際公共政策大学院(School of International and Public Affairs)の修士課程所属の留学生だというではないか。



 がっちりした外見といい、行動といい、僕のデータに無いタイプの日本人だったので僕は仰天した。



 そこでは簡単な挨拶にとどめ、詳しくは後日ランチでもしながら、ということになった。貰ったコロンビア大学の名刺には佐々山泰弘と書かれてあった。





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 数日後、いつものように背中合わせの形で勉強していた僕らは、12時になると荷物をまとめてTCのカフェテリアに向かった。



 この日は終始日本語での会話だったが、まず驚かされたのは、佐々山さんの声の大きさだ。その大きな体から、少ししゃがれた重低音が響いてくる。毎日同じ席に着き、静かに勉強し、静かに帰る、そして顔を合わせた時は目を細めて会釈する…。そんな佐々山さんの姿しか知らなかった僕は、勝手にシャイな男性を想像していた。だが実際の佐々山さんは全く違っていて、いかにも体育会系でパワー溢れる人間だった。



 日本人にしては随分大柄でいらっしゃるけど何かスポーツをやっていらしたのですか、と僕が尋ねると、学生時代にウェイトリフティング部で鍛えたと教えてくれた。これは後で分かったことだが、佐々山さん、実は国体3位という実力の持ち主だ。



 留学する前は何をしていたのかという質問に対しても面白い答えが返ってきた。「Mac Fan」や「PCfan」などの出版でも知られる毎日コミュニケーションズの社長を長年務めた後、最高顧問などのポストに就きながら、最後はその子会社である毎日オークションの社長を務めていたそうだ。



 そんな輝かしい経歴を持つ佐々山さんだが、彼には大学生時代から持ち続けた一つの夢があった。



 それがアメリカ留学だったのだ。



 社会人になった佐々山さんはその夢を持ち続けた。英語の雑誌を購読したり、留学のことを調べたりしながら、しまいには自分の会社で留学ガイド作成の事業部を立ち上げてしまい、それにかこつけてアメリカ中の大学を取材して回った。そうしてできたのが『毎日留学年鑑』という、日本初の包括的留学ガイドだった。



 そして2008年、毎日オークションの社長を務めながら63歳でコロンビア大学School of International and Public Affairs (SIPA)に合格、その結果をもって定年退職を志願した。親会社である毎日コミュニケーションズで当時社長を務めていた元部下には、「コロンビアに受かったから辞めさせてくれ」と言ったそうだ。



 40年越しの夢を叶えた佐々山さんの専攻は、「ずっと知りたかった」 という近代アジア史。でもやはり英語がネックだと言う。



 授業の英語はリーディングをやっていれば何とかなるけど、日常会話がなかなかうまくならない。「若い人は羨ましいですよ。」 そう笑いながら年齢の不公平を訴える佐々山さんは、とても無邪気に見えた。





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 図書館での出会いから3ヶ月後、佐々山さんは晴れて修士号を取得した。卒業式には日本に残してきた奥様だけじゃなく、大学時代の友人3人も日本からツアーを組んで駆け付けた。



 コロンビア特有の卒業式用の水色ガウンに身を包み、卒業証書を受け取る彼の姿を見届けたご友人たちはさぞ誇らしかったことだろう。



 また、自分の夢を追いかけるために63歳で勇退し、実現した社長の後ろ姿を元部下たちはどんな想いで見つめているのだろう。佐々山さんの生き様からはこんなメッセージが見えてくる。



問題なのは、夢を叶えるか叶えないかではなく、いつ叶えるか。



先生なんだな、と僕は思った。



 くじけそうな時、満足してしまっている時、教え子は前を走る先生の背中を見て苦笑いするのだ。



    「まだまだ!!」





あとがき

 先日、佐々山さんから届いた一通のメールを見て僕は思わず吹き出してしまった。



 「メールありがとうございます。
小生の方は日本に帰ってはや2ヶ月がたちました。
怠惰な老年生活を送るつもりでありましたが、
早くも体の底から何かがうごめき始め、
昨日から上智大学の朝鮮語講座に通い始め、
日本のPHD過程で東アジアの勉強を続けてみようかと、
幾つかの大学のApplication書類を取り寄せ準備を
始めたところです。」

2010年7月30日金曜日

いつか必ず返ってくる ~ 翼7 (完) ~

 僕が後悔の念を口にする時、小関先生が必ず言って下さる言葉がある。



    「下手クソでも一生懸命やっていればいつか必ず返ってくる。」



新米教師として、いつもこの言葉を励みにやってきた。教員の仕事は知識ではなく、経験やセンスに頼るところが大きい。そして経験やセンスの無さは、もがいてもどうにもならない部分がある。失敗から学ぶ他ないのだ。失敗を重ねる中、受け持たせてもらった生徒たちに対しては、



    「下手くそだったけどあれが当時の自分の精一杯だった。申し訳ない!」



という開き直ることしかできない。内容はどうあれ、とにかく一生懸命やったと言える自負のみが最後の拠り所となる。









 今回、21歳になった翼が、冒頭で紹介した小関先生の言葉が本当であることを改めて教えてくれた。



 中学校生活最後の日、前日まで金髪だったのをなんで黒くしてきたかという僕の問いに対して、21歳の翼はこう答えた。



 「あれだけいろいろやってもらったのに、最後の最後まで俺が変わらなかったら(大裕が)やってきた意味ねーじゃん。だから髪とか制服とか俺がカッコいいと思ってたことを崩しても最後はちゃんとやろうと思ったんじゃないの。」



 翼は15歳だった自分の心をそう分析した。



ああ、そうだったのか。僕は衝撃を受け、眉間を竹刀で突かれたような目まいを感じた。



 翼は隣に座る嫁さんに語るように続けて言った。



 「だってあきらめなかったもんね。自然教室で俺が教頭殴った時も、(担任)は体調わりぃとか言ってバックレたけど、担任でも何でもなかった大裕が代わりにやってくれたもんね。その後も大裕だけは俺の話聴いてくれた。」



 僕は全身に鳥肌が立つのを感じつつ、そこまで感じていたか、そこまでわかっていたか、と心から感動した。と同時に、自分は何て愚かだったのだろうと思った。







 
 立派な姿で式に出るということは、翼自身にとって大いに意味のあることだった。それは、それまでの人生で何も背負うものを持っていなかった翼が、僕の想いを背負った瞬間だった。



    「偉かったな。」



6年の歳月が経ち、結婚し、子どもにも恵まれ、己の器の小ささも全部受け入れた僕の心からの言葉だった。

~ 完 ~

2010年7月29日木曜日

卒業式当日 ~ 翼6 ~

 いよいよ卒業式当日。

教室に現れた翼は、髪を黒くしてきちんと制服を身にまとっていた。これは、前夜の説得に失敗したと感じていた僕にとっては予想していないことだった。もう一つ、予期せぬ幸せが起こった。翼と同時進行で働きかけていた不登校だった女の子が意を決して登校したのだ。中学校生活最後となるこの日に、それまでほとんど揃うことがなかった我が3年B組は全員集合した。整列前からクラスの雰囲気は最高潮に盛り上がっていた。



 卒業式の練習の時から、自分の中で決めていたことがあった。一つは学級の生徒の名前を一人ずつ読み上げる時にマイクを使わないこと。もう一つは、呼名表を使わず、何も見ずに生徒の名前を呼ぶこと。簡単そうに聞こえるかもしれないが、これがそうでもない。便宜上ステージの両端に男女分かれて並ぶ生徒たちの名前を、卒業式という厳粛な場で出席番号順に正確に読み上げなければならない。男子が2人続くこともあれば、女子が4人続くこともある。生徒にとって一生に一度の中学校の卒業式において失敗は許されない。そんな不必要なことをやることが僕のクラスの子たちにとっての愛情表現だった。



 着々と式が進む中、翼はどんな気持ちでいるのだろう、と気になって翼を探した。



皆と変わらない服装で、小さくなって自分を押し殺している翼の横顔を見ると、僕の気持は晴れなかった。



 以前にも話したが、後で小関先生に、翼をちゃんとした格好で卒業式に参加させたのは偉かったと褒められたが、正直ピンとこなかった。きっとそれは、翼がきちんとケジメをつけてきたことに対して僕が感じたのは充実感よりも後ろめたさだったからだ。当時の自分にとって、翼をまともな格好で卒業式に出すということは、翼のためというよりも自分のためだったように思う。卒業式という披露の場において、自分のメンツを保ちたかったのだ。



 卒業式の翼は本当に偉かった。前日まで学校唯一の金髪であった翼は、完全に他の生徒に溶け込んでいた。皆と同じように座り、同じように礼をし、卒業証書を受け取った。あの空間に黒染めした翼がいたことに気付かなかった教員も少なくなかったのではないだろうか。



 僕自身のメンツを守るために犠牲になった翼に対して、僕は 「偉かったな」 というより 「悪かったな」 と感じていた。



 でもそれは間違っていた。そう教えてくれたのは21歳になった翼自身だった。

(続く…)

2010年7月26日月曜日

15歳の翼 ~ 翼5 ~

 翼。僕にとって最も印象深い生徒の一人だ。比較的裕福なうちの学区において、翼のような複雑な家庭環境で育った子は珍しい。祖父が近くに住んでいたものの、基本的には10代の兄貴2人が親代わりをしていた。



 4人兄弟の3番目で、兄貴たちはうちの学校が千葉市で一番荒れていた時代の中心的人物として地元では有名だった。今でこそ何人もの部下を使う立派な塗装職人をしているが、当時は高校に行かず、地域の不良たちを束ねるような存在だった。



 翼はと言えば、背は小さいがキレると何をするかわからない、学年の目玉的存在だった。上の兄貴たちが中学時代も卒業後もデタラメ放題にやっていたので、翼自身、学校に来ることに意味すら感じていなかった。部活もやらず、勉強や進学にも興味を示さない翼の意識を学校に繋いでおくのは至難の業だった。



 今考えればよくわかる。一番の問題は、翼が何も背負っていなかったことだった。以前から、 「背負うこと」 というテーマで何度か書いてきたが、翼も、 「これだけは何がなんでも失いたくない」 という 「何か」 を持っていなかったのだ。部活でも、勉強でも、人間関係でも何でもよかった。一つでも、翼を引っ張れるものが必要だった。そして、本来なら翼に背負うものを持たせてやることが担任としての自分の急務だったのだ。当時の自分にはそれがわからなかった。



 人に譲れない何かを持っている人間は頑張れるものだ。例えば、もし翼が本気で何かのスポーツに取り組んでいたなら、その練習や試合を常に観に行き、監督と連携を密にし、生活の全てのことをそれに繋げるようにサポートしていけばいい。それを中心に会話をし、褒め、叱り、鼓舞することができたはずだ。翼は、自分がそのスポーツに懸ければ懸けるほど、他のこともがんばれただろう。



 でも、不幸なことに、翼にはそういうものが何一つなかった。 (後に、 「美容の専門学校に行きたい」 と言い出したが、それは3年生も終わりに近づいた時のことだ。) だから授業を聴かなくても、成績が悪くても、学校に来なくても、彼にとっては痛くもかゆくもなかった。



 背負うものを持ってないということは、失うものが無いということでもある。だから、翼は他の生徒がやらないようなことも平気でやるような子だった。



 まずは、学校で唯一、髪を染めていた。時間通りに登校することはまずなく、登校しても携帯電話を持参し、学校の中で一人だけ白のキャップをずっとかぶっていた。泊りがけの自然教室では、禁止されていた携帯電話を堂々と首から下げて来て、しまいには宿泊先で教頭を殴ってしまった。



 そんな中、担任だった僕はと言えば、21歳の翼も認めたように、彼にとっては眼の上のたんこぶのような存在だった。いつも監視し、勝手なことをやろうとする彼のことを追いかけ回した。



 最初は朝電話をかけたりだとか呼んで話をしたりだとか、ありきたりのことしかしてなかった自分だったが、翼のことに対して本気になればなるほど、僕の行動はより過激に、よりパーソナルになっていったように思う。毎朝のように家まで迎えに行ったり、兄貴と会って話をしたり、おじいちゃんを学校に呼んで話をしたり、授業時間中に駅前の松屋に一緒に行って朝飯を食わせたり、東京の美容専門学校に見学に連れて行ったり…。



 1年間はすぐだった。翼は翌年度から通信制の美容専門学校に通うことになった。3月に入ると連日、卒業式の練習が行われるようになった。翼は相変わらずだった。髪は金髪、帽子もかぶったままで、学校に来ない日も増えていた。


(続く…)

2010年7月25日日曜日

卒業式前夜 ~ 翼4 ~

 酒をビールから日本酒へと移した頃、翼に6年間ずっと訊きたかった質問をぶつけてみた。



    「卒業式の時のこと覚えてるか?」



翼はふと考えてから言った。



    いや、あまり。



そうだろうな、と思った。続けて訊いた。



   「あの朝、なんで髪を黒くしてきたんだ?」



質問をしながら、頭の中では当時のことがフラッシュバックとして脳裏に蘇ってきた。







 卒業式前夜。僕は、駅構内の喫茶店に翼を呼び出した。ちゃんと翼が現れたことに僕は安堵を覚えた。そこでもし現われなかったらもはや打つ手がないという、ぎりぎりのラインだった。目的は一つ。ちゃんとした格好で卒業式に出るように説得すること。



 それまでの歩みを振り返りつつ、僕は懸命に話をした。いつものように、翼がへそを曲げそうになったら適当に話題を変えつつ、細心の注意を払いながら会話をリードした。既に夜10時をまわっていたので、他の保護者に見られたらやっかいだなという気持ちが時折頭をよぎった。



 2時間ほど話したのだろうか。確かな手応えも得られぬまま、翼の集中力が限界に達した。結局、テーブルの下に隠しておいた黒のヘアスプレーを渡して別れたものの、それさえも帰り道に捨てられる可能性があった。失敗した、と感じていた。


(続く…)

6年の歳月を経て ~ 翼3 ~

   「俺の奥さんも連れてっていいかな。」



電話越しの翼がそう訊いた。 「奥さん」 と言う口調に初々しさが見られた。あの大バカだった翼が嫁さん同伴で来るのかと思うと、妙に感慨深いものがあった。 



もちろんだと答え、翼にとって翌日仕事がない土曜日の夜に会うことになった。







 夜8時。JR稲毛駅の改札で会った。



一目でわかった。背が伸び、少し大人になった翼と力強い握手をした。とてもいい笑顔をしていた。



後ろには高校生くらいに見える元気の良さそうな女の子。一緒にいる二人からは仲の良さが伝わってきた。歩きながら、お腹に赤ちゃんがいると教えてくれた。翼は嬉しそうだった。



 行ったのは、JR稲毛駅近くにある 『くうひな』 という、僕が惚れ込み通い続けた店の大将が初めて自分で開いた飲み屋だった。あったのは3年ぶりくらいだが、しっかりと顔も名前も覚えてくれていた。予約した席に着くと自分の名前が筆で書かれた来店歓迎のカード。やはり心の通ずる店がいい。



    「プロだな。やっぱり最後は人だよな。」



 そんなところから会話は始まった。







 6年の歳月は翼を変えていた。
今は塗装会社に勤め、最近になって現場の頭を任されたそうだ。



積み荷の確認も、部下に渡すお金の手配も、他の業者との段取りも全て自分でやらなければいけないこと。わからないことだらけで、最初は鬱病になりそうだったこと。初めて自分の甘さに気付かされたこと。今は19歳の新妻と安アパートで暮らしていること。2月は仕事がなくて生活が大変だったこと。そして、仕事で文書を書く機会が多くなったが、漢字が書けなくて恥ずかしいから本気で習いたいということ。そう笑顔で話す翼は、社会人の顔をしていた。



(続く…)

2010年7月23日金曜日

ずっとわからなかったこと ~ 翼2 ~

 以前も書いたように、小関先生にまともに褒められたことはほとんどない。



その数少ない中に、最初に担任させてもらったクラスの卒業式のことがある。



 問題の多い学年で、3年生に進級するにあたってクラス替えを要した学年だった。特にやんちゃな生徒が何人かいたが、その多くを教員2年目の自分がまとめて受けもつことになった。



 卒業式当日、クラス36人全員が揃うのかという、極めて初歩的な心配があった。しかし、ふたを開けてみれば、我が3年B組としては立派すぎる程の卒業式だった。



髪を金髪にしてさんざん学校をさぼっていた生徒も、その日だけは黒髪で式に出席し、数週間にわたる卒業式の練習ではさんざん周りに迷惑をかけていた生徒も立派な態度を貫き、それまでずっと不登校だった子も当日になって登校し、全員が晴れて卒業することができた。



 小関先生に褒めて頂いたのはその時だった。



   「あれは偉かった。」



 前回の投稿で、失敗ばかりの教員生活だったと書いたが、特に最初に持たせてもらった生徒には申し訳ないという気持ちしかない。教員にとって、最初に送り出した生徒というのは特別な想いがあるものだ。だからこそ僕にとっては、気持ちに伴わない自分の未熟な指導に対する自己嫌悪感もひとしおだった。

 

 そんな僕には、小関先生の言葉の意味がわからなかった。その後も、教員としての経験を重ねるに連れ、 「今だったらわかるだろ」 と小関先生に言われるようになった。でも、ずっとわからないで来た。



 もちろん、全員が揃って立派に卒業できたのは嬉しかったし、何人もが先生のクラスで良かったと言ってくれたのも嬉しかった。ただ、そこに至るまでの過程に対して自分の至らなさを痛感していた自分としては、複雑な気持ちだった。正直、最後だけ良くても、という気持ちも強かった。



 その子たちが、今年21歳になった。



 翼に会いたい、と僕は思った。会ってあの時のことを訊いてみよう。そんな想いで僕は受話器を手にした…。



(続く…)