2009年8月27日木曜日

教員のモラル低下について

 現場のことを思い出していたら止まらなくなってしまった。ニューヨークにいても毎日のようにインターネットのニュースで教員の不祥事が報道されている。「またか」と思わされる。それは、そのような問題を起こした教員に対する同情であると同時に、それに何の疑問も持たずに書き立てるマスコミに対する憤りでもある。当事者である教員のことを思うと、心から哀れに思う。きっと彼(ほとんどのケースが男性だから)は、彼を人生の師と慕う生徒を持てなかったのだ。生徒の想いを背負って生きている教員にはそんな無責任なことはできないから。マスコミや、そのような報道を短絡的に受けて教員叩きをする政治家や役人には、疑問を持って欲しいと感じる。

 何故、多くの教員がそのような犯罪を起こすのか。生徒に対するわいせつ行為などの教員による不祥事が考えられなかった時代とは、いったい何が変わってきているのか。

 どうしてこのような疑問が生まれないのか、逆に不思議に思う。今の世の中、教員に対する不信感の高まりから教員の締め付けが強化される一方、良い学校、良い教員の目安は生徒の学力だけで判断され、学校の教員より塾の講師がレスペクトされる風潮がある。「勉強は塾でやりなさい」と平気で子どもに言う親もたくさんいる。そのような現状で、教員の自尊心やモラルが低下しないわけがない。精神病で学校に行けなくなる教員、1年も持たずに教員を辞めていく新任教員の数が増え続けるのも、決して不思議なことではないように感じる。

 教員の不祥事が今日のようにセンセーショナルに取り沙汰され、「教員なのに」と言われる裏には、ある前提があるように思う。
             
                       「教職」 = 「聖職」

 
 今においては、この方程式は幻想に過ぎない。自分が真に聖職に就いているという自覚を持つ人間が、教え子たちの信頼を裏切るような行為をするだろうか。聖職者としての扱いも受けていない者にその責任感を求めるのは空虚だ。後を絶たない教員の不祥事を止めたいのなら、教員を締め付けるのではなく、彼らに生徒を持たせることだ。

 98歳で亡くなった国語教育者、大村はまさんが亡くなる一週間前に残した最後の詩が思い出される。『優劣のかなたに』という詩だ。その最後をこう締めくくっている。

           学びひたり
           教えひたろう
           優劣のかなたで

 今、この歳になって学生に戻った者として痛感するが、生徒にとってこれ以上ない贅沢は学びひたることであるし、人間の教育を志し、教壇に上がった人間にとってこの上なく贅沢なこと、それは教えひたることだ。そして、そのような環境を設定することが、政治家や役人の本当の仕事なのではないだろうか。

1 件のコメント:

  1. 大村はまさん、とてもステキな先生ですよね。「優劣のかなたに」は、全部がすごく考えさせられる詩だよね。生涯現役の教員にこだわって一生を終えられて。日本でも一昨年、亡くなった時は、テレビでも特集が組まれるぐらいに大きな功績、影響を残したよね。大村はまさんは、一度使った教材は二度と同じ教材は使わないって信念ももっていたんだよね。1年1組で使ったものは、1年2組では使わない。もちろん翌年に使い回すなんてことは生涯しなかった。戦時中の大変な状況でも、教育に対して熱意は忘れず、子どものために。

     保護者の大学までの進学率が上がるなかで、以前にような立場では先生もいられないのでしょうね。カリキュラムの関係で、じっくり教えられないのかもしれないけれど、今の学校の現状で、学びひたる環境をつくるには、どう考えても無理だよね。学校の現場を経験した大裕さんにとっての、教師の専門性って何だと感じますか? 先生がもっと文科省の学習指導要領作成に関われるようになれないものかね?

     今日、日本では学力調査の結果が発表。世帯年収と学力、規則正しい生活と学力は、相関関係にあり、まさしく学校というより、家庭生活の在り方が学力と大いに関連がある結果。この現状から学力問題を考えるべきだよね。学力調査の結果ができると、学校での教え方、教員の問題ばかり指摘されがちだけど、家庭生活や社会で子どもをどう育てるかってことも考えないと、学校だけで子どもが育つわけではないものね。学校に過度の期待をかけすぎるし、幻想を持ちすぎるようにも思うけれど。今年もやはり上位県は秋田・福井。

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