2015年1月31日土曜日

日本は9.11の悲劇を利用したアメリカの後追いをしてはいけない




「安全と引き換えに、私たちはどのくらい自由を諦める覚悟があるのだろうか。社会の安全を保障することと社会における自由を保障することの間にはどんな関係があるのだろうか。」[1]

アメリカは、「テロとの戦争」を口実に、憲法で保障されている筈の報道の自由、国民のプライバシー、法に基づく適正手続き等を、「社会保障」の名の下に積極的に侵害してきた。冒頭の言葉は、アメリカによるテロとの戦争の取材を続けるJeremy  Scahillの言葉だ。今回の「イスラム国」による邦人人質殺害事件をきっかけに、日本がアメリカ率いる「テロとの戦争」に参戦し、最終的に、日本国家による国民の自由の侵害が強まるのではないかと私は危惧している。

私は、16歳で初めてアメリカに留学して以来、間はあいたものの、アメリカでの滞在期間はかれこれ15年ほどになる。その間、富と貧困、寛大さと厳しさ、自由と迫害、保守と革新、そして他文化に対する寛容と差別など、若く、巨大で、多様なこの国が抱える矛盾に戸惑い、また魅了されてきた。また、アメリカでエリート教育の恩恵を受け、その懐の深さに感銘を受けると同時に、社会のエスニックマイノリティーとして、世界のリーダー的存在であるアメリカの栄光の裏にある暗闇にも、いつも意識のどこかで気づいていた気がする。現在は、教育学の研究に携わる中、社会やグローバルの大きな流れがいかにアメリカの教育情勢に影響を与えているかを検証している。これまでも、福祉国家から新自由主義国家への移行がどのようにアメリカの教育政策に表れてきたか、新自由主義の台頭により拡大する経済格差がいかに公教育の「公」、つまりパブリックの概念に影響を与えてきたかを検証してきた。今回は、そんな立場から、邦人人質事件を契機に本質的に変わってしまう可能性のある日本社会に対し、警告のメッセージを届けたい。


9.11同時多発テロの悲劇を利用したブッシュ政権

「二度と戦争はしない」という強い覚悟のもと、世界での特別な位置を日本に保障してきた平和憲法を改め、日本を戦争ができる「普通の国」にしようとしている安倍首相にとっては、今回の事件はもってもないチャンスだったのではないだろうか。

「テロに屈しない。」

響きの良い、安倍首相のこの言葉は、9.11直後のブッシュ大統領の姿を彷彿させる。

米国のブッシュ政権は、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダが起こした9.11テロの悲劇を利用することで、国際法を無視したテロ根絶作戦を展開する大義を主張し、実行に移した。「テロの被害者として、テロを根絶する」という反対のしようがないレトリックを使って、正義の旗手に名乗りを上げたのだ。同時に、国ではなく、「テロ」という見えない脅威を標的にしたことで、アメリカはどこの国でも構わず乗り込んで行けるパスポートをも手に入れた。イラク、アフガニスタン、パキスタン、イエメン、ソマリア、インドネシア。そして、米国愛国者法(Patriot Act)なるものを制定し、テロ関与の疑いがある者を、法的手続きを踏まずに無期限に拘束できる収容所さえ、キューバのグアンタナモにつくった。世界のリーダーを自負するアメリカが国際法を無視して、テロに関与した証拠も裁判もないまま、様々な国々出身の人々を無期限で拘束し、彼らに拷問を与えている事実を、私たちはどう理解したら良いのだろうか。実際に、無実のジャーナリストや、友人の結婚式に出るためにパキスタンを訪れていた3人のパキスタン系イギリス人青年が不当に拘束され、繰り返し拷問を受けていたことも判明している。

 そして、ブッシュが始め、オバマが引き継いだ「テロとの戦争」は、もはや世界全体を戦場へと変えてしまった。戦争をするかしないかという国家の一大事を、議会を通じた民主的な熟議によって決断するのではなく、「軍事機密」の名の下に政権独自の判断で他国に出向き、「テロリスト」を暗殺する。パキスタンやイエメンなど、現地での諜報活動が困難なこれらの国々では、ドローンを使ってテロリストである疑いのある人々をいきなり暗殺する。逮捕し、綿密な尋問や操作の末に立証したりする手間はかけない。しかも、現地に部隊や諜報機関を派遣していないため、地元の密告者の情報に頼るしかない。だが、密告者は情報提供の報酬を目当てにてきとうな情報を提供し、無垢な市民が殺されているとする報告もある。また、遠隔攻撃なわけだから、爆撃に巻き込まれる一般市民も勿論出てくる。これらの人々の人権はどうなってしまうのだろう。ホワイトハウスは、標的に対する人物への爆撃に他の人々が巻き込まれた際、彼らがテロとは無関係であったことを証明できる場合のみ、一般市民の被害者と認める方針をとっている。証明できたところで、既に殺害されてしまっているため、後の祭りだ[2]



 更には、米国は自国民さえもドローンの標的にするようになった。冒頭に紹介したJeremy Scahillは、この行為により、米国は大事な一線を越えたことを強調する。いくら外国にいようとも、テロに関与したという何の証拠も裁判もないまま、ホワイトハウスが秘密裏に自国民を暗殺して良いのだろうか。しかも、ホワイトハウスは米国愛国者法の解釈を勝手に変え、今では、いつの日かテロを起こす可能性がある者をテロリストと認識し、ドローンの標的としている。イエメンで最初にドローンの犠牲になったAnwar al-Awlaki(イエメン系アメリカ人)の16歳の息子までもがドローンに殺されたことは、その最たる例ではないだろうか[iii]

 このような「テロリスト」の定義拡大の意味は、いつ誰がテロリストと認識されてもおかしくない不安定な状況を生み出していることにある。そして、注目すべきは、アメリカが、「テロとの戦争」を口実にした人々の人権侵害を国内でも既に行っていることだ。テロ根絶の一環として、アメリカは巨大な監視システムを構築した。そして、秘密裏に、アメリカ国家安全保障局(National Security Agency)が、アメリカ国民のあらゆる電話や電子メールの内容を監視していたのだ。勿論これは国民のプライバシーの侵害であり、憲法違反だ。ちなみに、その監視能力の凄まじさは、アメリカ国家安全保障局がドイツのメルケル大統領、ブラジルのルセフ大統領、そして国連総長パン・ギムンの個人的な会話やデータまでをも収集していたことにも象徴されている。言うまでもなく、これは明らかな国際法違反であり、ノーベル平和賞受賞者でもあるオバマ大統領が、アメリカの巨大な監視システムを、自分の都合の良いように利用してきた事実は、皮肉としか言いようがない。


「例外の空間」

 イタリアの哲学者、Giorgio Agambenは、第二次世界大戦下のユダヤ人強制収容所の分析を通して、強制収容所の存在こそがナチスの社会統治の中心的な役割を果たしていたと指摘する。ナチスは、通常の法律が適用されない「例外の空間」を社会の中に特別につくり、その中では地位も仕事も財産も基本的人権さえも剥奪されたユダヤ人に、「剥き出しの生」として、人間以外の動物と同じように生きることを余儀なくした。しかし、ナチスがユダヤ人に「例外の空間」の中でただ生き延びることを強いたことの真の意義は、それまでは普通であった社会参加権の保障された人々の暮らしを、一部の人間の特権へと変えたことにあったとAgambenは指摘する。ナチスは、ユダヤ人とその協力者への容赦ない暴力行為を示すことで自らの権威を強め、あらゆる人間が「剥き出しの生」となり得る不安定な状況を生み出し、社会全体の統治力を強めていったのだ。9.11後のアメリカを見て、この社会統治の構造と似ていると感じるのは私だけだろうか。



「テロに屈しない」というプロパガンダ

テロに屈しない…。これは巧妙に中性化されたプロパガンダと考えるのが正しいと思う。そこにあるのは行動のメッセージだけで、主体や理由等の大事な問いを考える余地は残されていない。そもそもなぜそのようなテロが乱発しているのだろうか。今回、なぜ日本までもがその標的になったのだろうか。そしてメッセージに暗示されている「私たち」とは誰のことで、その私たちは「テロ」という見えない脅威と闘うために、いかなる代償を払わなくてはならないのだろうか。





[1] “How far are we willing to go, in terms of giving up our basic liberties or freedoms in the name of our security? What are the relationships between keeping our societies safe and keeping our societies free?” http://youtu.be/vyTsaaDNUME
[2] これに関しては、Brave New Filmsが綿密な取材に基づいたドキュメンタリー映画を発表している。Unmanned: America’s Drone Wars http://unmanned.warcosts.com/ 
[iii] 詳しくはDemocracy Nowがフィーチャーした以下の興味深いインタビューを参考のこと。http://www.democracynow.org/2013/6/7/inside_the_us_dirty_war_in 

2015年1月22日木曜日

ゼロ・トレランスとアメリカ公教育の崩壊 No.2

 昨日、連載を担当させてもらっている『季刊 人間と教育』の次号をようやく書き終えた。前々回にも紹介したが、次号の特集は「ゼロ・トレランス」だ。いつもテーマは勝手に選ばせてもらっているものの、今回ばかりは、「アメリカのゼロ・トレランスの状況について書いて欲しい」と頼まれた。引き受けたはいいものの、テーマの複雑さに執筆は難航。最初は、新自由主義の流れにおける「使い捨て」の概念を用いてゼロ・トレランスを理解しようとしたが、新自由主義の枠組みだけでは理解しきれないと判断。昔から続く構造的人種差別に加え、最終的には、イタリア人哲学者、Giorgio Agamben第2次世界大戦中ドイツにおける、ユダヤ人強制収容所という、「例外の空間」の概念も取り入れた。

 僕は、社会の大きな流れが教育にどう影響しているか、それを検証せずに、教育情勢を理解することはできないと思っている。今回の特集のテーマであるゼロ・トレランスも同じで、「ゼロ・トレランス政策に教育的な効果はあるか否か」という教育学の中だけの狭い議論に執着することは、より根源的な問題や問いを隠してしまう危険があると思う。

 公共事業の規制緩和と民営化、年金や健康保険等の社会福祉事業の縮小、労働組合潰しなどの動きと平行して行われる、社会的弱者の積極的な排除と使い捨てを、民主主義の理想の中で私たちはどう理解すればよいのだろうか。経済や教育において勝ち組と負け組みの二極化が進み、社会的弱者が切り捨てられて行く中、ゼロ・トレランス政策は、基本的人権や公教育の理念にどう影響するのだろうか。そして、ゼロ・トレランスが生み出す「例外の空間」は、社会全体にいかなる影響をもたらすのだろうか。

 最後の一行を書き終えた後に選んだ題名、それは「アメリカのゼロ・トレランスと教育の特権化」だった。


(続く

2015年1月16日金曜日

発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員

 「教員派遣」というビジネス
 新自由主義の理想を追い求め、公教育に市場原理を徹底的に導入した場合、「教員」の存在とその仕事はどのように変化するだろうか。その行き着くところは、教員の非専門職化、更には「使い捨て人口化」ではないだろうか。教員養成、教員免許、教員配置等のあらゆる過程において規制緩和が行われるため、教員養成は、従来の四年制大学の教育学部や教育大学院によってのみ担われていたシステムが自由化され、民間非営利団体や営利目的の会社までもが参入する教員養成市場ができるだろう。同時に、教員免許制度も規制緩和され、教員と教育の多様化と市場活性化の名目で、仮免許制度が設けられ、地域や学校の種類によっては免許がなくても教えられるようになることもあり得る。
 実際に、アメリカでは既にこれらのことが現実になっている。まず、免許制度に関しては、州によって法規制は異なるものの、公設民営校であるチャータースクールでは、正規免許がなくても教壇に立つことができる。そのため、教員養成においては、従来の教育機関に加え、たった5週間の集中講座で仮免許を発行するTeach for Americaなどの「オルタナティブ」と呼ばれるプログラムが教員養成の市場を形成している。また、それらの仮免許保持者が正規免許取得のために、教員の仕事をしながらティーチングのテクニックや技術を学ぶオンライン大学院まで登場した。
 しかし、教育において市場原理を追求した結果、教員の存在とその職務の在り方を最も根本的に変えるのは、教員養成でも教員免許制度でもなく、教員配置の分野なのかもしれない。特に、教員派遣のビジネスは著しく活性化し、派遣会社は、教員養成や教員免許という「生産段階」を飛び越し、既に出来上がった教員を、少しでも安く、速く、大量に確保しようと競い合うだろう。そうなれば、衣料品や電化製品などと同様に、労働力の安い発展途上国からの「輸入」に目を向けるのは、極めて自然な流れなのかもしれない。
 このシリーズの第一弾では、世界最大の多国籍教育企業であるピアソンを例に、教育産業の利益に動かされるアメリカの教育改革を描いた。第二弾では、新自由主義教育改革の象徴でもある学校選択制を通して、市場化によるアメリカ公教育の解体とそれに伴う教育格差の拡大及び民主主義崩壊の危機を描くことにより、日本への警告とした。第三弾となる今回は、アメリカの発展途上国からの「教員輸入」という国境をまたいだ問題を通して、新自由主義政策の教員及び彼らの仕事に対する影響を考える素材を提供したい。

続きはこちらから。

2015年1月6日火曜日

「ゼロ・トレランス」とアメリカ公教育の崩壊(予告)



今、アメリカは人種問題で揺れている。

ニューヨークとミズーリで相次いで起こった白人警官による丸腰の黒人殺害、そして加害者である白人警官の不起訴処分という大陪審の結論は、人種差別撤廃を訴えるデモとなって瞬く間に全米へと広がって行った。僕も、アメリカを代表するアフリカ系アメリカ人文化の中心地であるハーレムに住む一人の「有色人種」として、様々な想いを抱えながら、ニューヨーク市で行われた大規模デモに参加してきた。

残念ながら自分のようなアジア人は少なかったが、黒人やヒスパニック系に加えて、白人が多く参加していたことには感銘を受けた。もしかしたら、新自由主義の負のインパクトを感じている労働階級の白人らが、この事件を通して、社会的弱者を排除しようとする今の社会のあり方を問い直し始めているのではないだろうか。



大陪審は一般には公開されない。よって、証拠を見ぬままその結論が正しかったかどうかに固執することは有意義ではなく、逆により大事なポイントを隠してしまう。

これらの事件は決して独立したものでも、今日に始まったものでもない。ノーム・チョムスキーはこう指摘する。アメリカに最初の奴隷が連れて来られたのは1619年。我々は、アメリカ500年の人種差別の歴史を再現しているだけに過ぎない[1]。2012年だけで、少なくとも313人のアフリカ系アメリカ人が、警官、警備員、自警団などに殺されており、彼らは実に28時間に一人の割合で殺されていることになる[2]。よって、民衆の、特に黒人に代表されるエスニックマイノリティーの怒りは、人種等に基づく差別撤廃の象徴となった公民権法の成立から半世紀経った今なお、黒人が公然と国家権力に殺され続けているアメリカ社会の構造的な人種差別に向けられたものだと考えるべきだろう。

ただ、脈々と流れてきたアメリカの人種差別の歴史は、いつしか新自由主義と合流し、更に激しい流れとなり、黒人に代表されるエスニックマイノリティーだけでなく、低所得者、年金に頼る高齢者、そして障がいを持つ人々など、社会的弱者の切り捨てを加速させた。大人だけではない。1980年代の「薬物との戦争」に始まった「ゼロ・トレランス」政策は、公教育にも進出し、凄まじい勢いで子ども達に犯罪者のレッテルを貼り、教育を受ける権利と選挙権を剥奪することで社会から抹殺してきた。


僕が連載を続けている季刊『人間と教育』の次号(2015年3月発売予定)の特集は、「ゼロ・トレランス」だ。ゼロ・トレランスは、人種、階級、教育、人権、新自由主義、そして民主主義等の交差点に股がり、国家権力の統治の道具としての教育の姿をあらわにする重要な問題だ。今回は、ゼロ・トレランスのアメリカ公教育への影響を検証し、日本でのゼロトレランス検証の素材を提供したいと思う。