タイトルからして非常に気になる記事があった。
「東京都足立区教育委員会が4月から、子供の学力向上を目指して小中学校の新人教員研修に大手進学塾「早稲田アカデミー」(東京都豊島区)のeラーニング教材を導入した。塾が、自治体まるごとの教員研修に参画するのは異例だ。補習授業や教員養成、受験対策まで、塾と学校の連携が進んでいる。」
公教育の民営化が歯止めのかからない状況になってきているアメリカの教育を間近で見ているせいで、このような取り組みには強い危機感を持っている。
「これくらいだったらいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれないが、日本の公教育の民営化は、このように外郭からジワジワと広がり、私たちの価値観を少しずつ麻痺させていく可能性がある。
フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、新自由主義がいかに人々の物事の見方を根本から変えてきたかを指摘している。長い年月を経た価値観の変容の中、我々は社会のあらゆる活動を経済的に分析するようになった。私たちは、市場化により民間のインプットを入れることがより「民主的で」、それをしないことは政府による公共事業の「独占」と捉えるようになった。それは、民主的に選ばれた政府より、政府の介入から「開放」された市場を民主主義とする、非常に皮肉な構図だ。この点は、コロンビア大学のジェフリー・ヘニッグ教授も指摘している
(Henig, 1994)。
アメリカでは、テストや教材だけでなく、教員評価、教員養成、教員配置など、教育のありとあらゆる分野で貴重な予算が公教育から民間へと流れてしまっている。ただでも厳しい教育予算の中、ベテラン教員は即席教員に入れ換えられ、学級生徒数もどんどん拡大しているのに、もっと他に有意義な税金の使い方があるではないか、と腹が立つ。
日本ではどうなのだろうか。足立区では、新人教員の研修を塾に任せる程、予算にゆとりがあるのだろうか。だいたい、このe-ラーニングにどれ程の予算を費やしているのだろうか。
この記事では、足立区教委がこの取り組みに踏み切った理由をこう書いている。
「区教委を悩ませたのが、定年を迎えた団塊世代の教員の大量退職と、それに伴う若手教員の大量採用だった。(中略)区教委の鈴木一夫次長は「ベテラン教員を各校に配置しきれず、教壇に立った経験が教育実習だけという新人教員の指導に手が回らない。子供の学力を上げるため、学校外の力を借りてでも今までにない策を講じなければと考えた」と話す。」
ベテランの教員不足はリアルな問題である反面、そんなのは最初からわかっていたことで、今更慌てふためいて塾を頼りにするのはあまりにもお粗末で、教育リーダー達の先見性のなさを露呈している。
ただ、これはお金の問題だけではなく、人間の教育の貧弱化という、教育の根幹にかかわる根の深い問題だと思う。
「研修対象は、足立区の全小中学校(107校)の初任から3年目までの新人教員約600人。教材「教師力養成塾 e−講座」は、1回5分ほどの映像全36本で構成されており、教員は各自インターネットで見る。テーマは「学習する空間づくり」。児童生徒のやる気を引き出す授業を目指して、声量や目線、立ち位置、話し方など教科と関わりなく必要な基本動作を、事例映像と解説で学ぶ。」
このように、教えるという行為を幾つもの「すぐに使える」テクニックに分解し、それをパッケージ化して販売する手法は、アメリカではすっかり定着してしまった。Teach Like a Champion: 49 Techniques that Put Students on the Path
to College という本がベストセラーになったことがそれをよく物語っている。
「教育の貧弱化」は、教えるという非常に人間的で複雑な行為を幾つかのテクニックに簡素化するだけでなく、授業を受ける子どもを無視するという根本的な問題を抱えている。記事の中で、足立区にe-ラーニングを提供する早稲田アカデミーの事業推進課長は、次のように言っている。
「我々が提供できるのは、学習意欲のある子もない子もひきつける授業方法。どこでも通用すると思うので各学校でアレンジして活用してほしい」
教えを受ける子どもや、教えが行われる地域といった、様々な環境の違いに左右されることなく「通用する」教え...。これには強い違和感を覚えざるを得ない。以下は、僕が連載を担当する季刊『人間と教育』の次号(82号)に寄せた論稿からの抜粋だ。ちなみに今回は、『発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員』というテーマで書いている。
【「己をもって和とする」】
これは、私が日本の公立中学校で教員をしていた時に出会った恩師、小関康先生が良く口にしていた言葉だ。子どもは一人ひとり皆違う。性格も違えば、持っている能力も、人から受けてきた愛情も違う。だから、「七」の力を持っている子には教師である自分が「三」だけ出し、「四」しか持っていない子には、反対にこっちが「六」を出す。中には「一」しか持っていない子も、既に「九」持っている子もいるだろう。だから、いっぱい褒めてあげたい子もいれば、あえて褒めるのを控えた方が伸びる子もいる。
僕が、中学校教員時代に出会った小関康先生から教わったことの一つは、一人ひとりの生徒を見る力、彼らの異なるニーズに応えることの大切さだ。だから、今日本でも流行りつつあるテクノロジーを用いたe-ラーニングには、僻地や特殊な環境にある人々への知識の伝達といった意義も認めつつ、強い危機感も持っている。
最後に、僕は、日本という国レベルの教育改革というものを考える時、進学塾や私立の教員ではなく、公立学校の教員の社会的地位の向上無しにはあり得ないと思っている。数年前、自分が中学校で教えていた時に既にそうであったが、今の日本では親や子が、学校の先生ではなく塾の先生をより尊敬する傾向にあると感じる。「勉強は塾でしなさい」と平気で子どもに言う親御さん達も見てきた。だとしたら子どもたちは何のために学校に来るのだろう。学校の教員らの存在意義はどうなるのだろうか。
もちろん、進学塾の教員がより尊敬されるのは、「学力」がテストの点数や合格校で定義される教育システムでは仕方のないことだ。テストの点数を上げることに特化できる塾の教員と違い、学校の教員は家庭の教育力の低下とともに、社会の様々なニーズを請け負ってきた。
学校や教員が「抱え過ぎ」のこのままの状態で良いとは決して思わない。しかし、だからといって学校を塾化し、学校教育を簡素化するのが解決方法なのだろうか。
生徒を「将来の労働力」としか見ない新自由主義的教育「改革」は、教育に社会の経済的ニーズを満たすことしか求めない。
だとしたら、子どものニーズはどうなるのだろうか?
誰が子どもたちの声に耳を傾けるのだろうか。