2014年5月20日火曜日

教育の民営化、教育の「貧弱化」



タイトルからして非常に気になる記事があった。


教員研修の映像を見ながらテキストに学んだことを書き込む土屋智恵美教諭=東京都足立区で
毎日新聞(2014年5月19日)


「東京都足立区教育委会が4月から子供の学力向上を目指して小中学校の新人教研修に大手学塾田アカデミ京都豊島のeラニング教材を入した塾が自治体まるごとの教研修に参画するのは例だ補習や教員養験対策まで塾と学校の携がんでいる。」

公教育の民営化が歯止めのかからない状況になってきているアメリカの教育を間近で見ているせいで、このような取り組みには強い危機感を持っている。

「これくらいだったらいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれないが、日本の公教育の民営化は、このように外郭からジワジワと広がり、私たちの価値観を少しずつ麻痺させていく可能性がある。

フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、新自由主義がいかに人々の物事の見方を根本から変えてきたかを指摘している。長い年月を経た価値観の変容の中、我々は社会のあらゆる活動を経済的に分析するようになった。私たちは、市場化により民間のインプットを入れることがより「民主的で」、それをしないことは政府による公共事業の「独占」と捉えるようになった。それは、民主的に選ばれた政府より、政府の介入から「開放」された市場を民主主義とする、非常に皮肉な構図だ。この点は、コロンビア大学のジェフリー・ヘニッグ教授も指摘している (Henig, 1994)

アメリカでは、テストや教材だけでなく、教員評価、教員養成、教員配置など、教育のありとあらゆる分野で貴重な予算が公教育から民間へと流れてしまっている。ただでも厳しい教育予算の中、ベテラン教員は即席教員に入れ換えられ、学級生徒数もどんどん拡大しているのに、もっと他に有意義な税金の使い方があるではないか、と腹が立つ。

日本ではどうなのだろうか。足立区では、新人教員の研修を塾に任せる程、予算にゆとりがあるのだろうか。だいたい、このe-ラーニングにどれ程の予算を費やしているのだろうか。

この記事では、足立区教委がこの取り組みに踏み切った理由をこう書いている。

「区教委をませたのが定年を迎えた世代の教の大量退それに伴若手教の大量用だった(中略)区教委の木一夫次ベテラン教を各校に配置しきれずに立った経験が教育実習だけとい新人教の指に手が回らない子供の学力を上げるため学校外の力を借りてでも今までにない策をじなければと考えた。」

 ベテランの教員不足はリアルな問題である反面、そんなのは最初からわかっていたことで、今更慌てふためいて塾を頼りにするのはあまりにもお粗末で、教育リーダー達の先見性のなさを露呈している。

 ただ、これはお金の問題だけではなく、人間の教育の貧弱化という、教育の根幹にかかわる根の深い問題だと思う。

「研修象は足立区の全小中学校107校の初任から3年目までの新人教員約600人教材成塾 1回5分ほどの映像全36本で成されておりは各自インタネットでマはする空づくり童生徒のやるを引き出す授を目指して声量や目立ち位置し方など教科とわりなく必要な基本作を事例映像と解で学ぶ。」

このように、教えるという行為を幾つもの「すぐに使える」テクニックに分解し、それをパッケージ化して販売する手法は、アメリカではすっかり定着してしまった。Teach Like a Champion: 49 Techniques that Put Students on the Path to College という本がベストセラーになったことがそれをよく物語っている。



「教育の貧弱化」は、教えるという非常に人間的で複雑な行為を幾つかのテクニックに簡素化するだけでなく、授業を受ける子どもを無視するという根本的な問題を抱えている。記事の中で、足立区にe-ラーニングを提供する田アカデミーの進課長は、次のように言っている。

我々が提供できるのは意欲のある子もない子もひきつける授方法どこでも通用すると思ので各学校でアレンジして活用してほしい

教えを受ける子どもや、教えが行われる地域といった、様々な環境の違いに左右されることなく「通用する」教え...。これには強い違和感を覚えざるを得ない。以下は、僕が連載を担当する季刊『人間と教育』の次号(82号)に寄せた論稿からの抜粋だ。ちなみに今回は、『発展途上国からの「教員輸入」と使い捨て教員』というテーマで書いている。

【「己をもって和とする」】
これは、私が日本の公立中学校で教員をしていた時に出会った恩師、小関康先生が良く口にしていた言葉だ。子どもは一人ひとり皆違う。性格も違えば、持っている能力も、人から受けてきた愛情も違う。だから、「七」の力を持っている子には教師である自分が「三」だけ出し、「四」しか持っていない子には、反対にこっちが「六」を出す。中には「一」しか持っていない子も、既に「九」持っている子もいるだろう。だから、いっぱい褒めてあげたい子もいれば、あえて褒めるのを控えた方が伸びる子もいる。

僕が、中学校教員時代に出会った小関康先生から教わったことの一つは、一人ひとりの生徒を見る力、彼らの異なるニーズに応えることの大切さだ。だから、今日本でも流行りつつあるテクノロジーを用いたe-ラーニングには、僻地や特殊な環境にある人々への知識の伝達といった意義も認めつつ、強い危機感も持っている。

最後に、僕は、日本という国レベルの教育改革というものを考える時、進学塾や私立の教員ではなく、公立学校の教員の社会的地位の向上無しにはあり得ないと思っている。数年前、自分が中学校で教えていた時に既にそうであったが、今の日本では親や子が、学校の先生ではなく塾の先生をより尊敬する傾向にあると感じる。「勉強は塾でしなさい」と平気で子どもに言う親御さん達も見てきた。だとしたら子どもたちは何のために学校に来るのだろう。学校の教員らの存在意義はどうなるのだろうか。

もちろん、進学塾の教員がより尊敬されるのは、「学力」がテストの点数や合格校で定義される教育システムでは仕方のないことだ。テストの点数を上げることに特化できる塾の教員と違い、学校の教員は家庭の教育力の低下とともに、社会の様々なニーズを請け負ってきた。

学校や教員が「抱え過ぎ」のこのままの状態で良いとは決して思わない。しかし、だからといって学校を塾化し、学校教育を簡素化するのが解決方法なのだろうか。

生徒を「将来の労働力」としか見ない新自由主義的教育「改革」は、教育に社会の経済的ニーズを満たすことしか求めない。

だとしたら、子どものニーズはどうなるのだろうか?

誰が子どもたちの声に耳を傾けるのだろうか。





2014年5月18日日曜日

Civil Disobedience and a Refusal to Become Neoliberal Agents

 Photo by Ava M. Capote


Many thoughts went through my mind as I prepared my speech at Taking Back Our Schools Rally on May 17, 2014. What is expected of me? What do I want to do? How best can I contribute? In the end, I decided to talk about what has been on my mind a lot lately: civil disobedience. This is largely due to my learning with Daniel Friedrich this spring and an introduction to the ideas developed by a French philosopher, Michel Foucault.

The real question for Foucault is not so much about what is wrong with the current neoliberal policies but how the influences of neoliberalism have come to dominate the ways we live and think

How have we come to allow such a significant change to take place? 

How is it that we have allowed corporate leaders to dictate our children’s education?

Foucault makes me realize how it was us, the constituents of the society, who have come to accept the terms and conditions of neoliberalism and govern our own activities accordingly. The “small government” of neoliberalism is made possible because we, who have unknowingly become the very agents of the neoliberal regime, actively sustain it by internalizing its values and demands.
 

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Civil Disobedience and a Refusal to Become Neoliberal Agents
by Daiyu Suzuki




Hello. One thing I want to tell you is that you guys look beautiful!!
You remind me of a beautiful quote from the Wisconsin Uprising in 2011:

What does democracy look like?
This is what democracy looks like!!

Politics belong to the streets, not the capitol.

Anyway, my name is Daiyu Suzuki, and I am many things.
Among them, I was born and grew up in Japan. I was a public junior high school teacher there as well, for six and half years. I am also a father of two daughters, who attend a NYC public school. At the same time, I am a doctoral student of education, and am a co-founder of an education activist network called Edu4.

Today, I would like to talk about the possibilities and meanings of civil disobedience. I think this is particularly pertinent to this rally because we have here with us various educational constituent groups who have engaged in different forms of civil disobedience such as opt out parents and teachers who have refused to administer testing. A favorite journalist of mine named Chris Hedges has once said that, unfortunately, there is no political mechanism left in the United States to combat the power elite, except for civil disobedience.

Now, many people may dismiss civil disobedience as something insignificant or something that is not powerful enough. Others may want to burn the buildings instead. However, civil disobedience may look very different if we see it as an active rejection of our own identities imposed by neoliberalism and our refusal to become the agents of neoliberalism.

What if we start questioning the identities imposed upon us and what we are expected to do?

Parents! I am a parent, too. As educational consumers, we are expected to “choose” the best schools for our children. But what if we question why we need to choose and refuse to do so?

As educational consumers, we are expected to compete with other families by supporting our children to do better on tests. What if we refuse to compete and tell our children not to take tests? What if we tell our children to care and collaborate with others so that no child would be left behind?

As tax-payers, we are expected to hold our schools and teachers “accountable” for what we pay. What if we refuse to be relegated to tax-payers but as citizens hold our political leaders accountable for supporting, not getting in the way of, teachers to teach as true professionals?

Teachers! I was a teacher, too. As educational service providers, we are expected to meet the needs of our customers and raise their test scores so that they will be college- and market-ready. What if we, as educators, refuse to test them but instead teach them, not so that our students will be college-ready or market-ready but democracy-ready to address the sufferings and injustices of this common world?

Students! I am a student, too. As the future work force of the United States, we are expected to compete with students from other countries and be successful entrepreneurs. But what if we, as the next generation and the learners of life, demand happiness and imaginative capacities as the goal of our education?

What if we refuse to become “self-responsible customers” in the education market and call it out loud that there is something terribly wrong when our federal government is making $41.3 billion profit off the student loan? That quality education should not be a choice but our fundamental human right?

What if we say “ENOUGH!” and refuse to become the agents of neoliberalism?

What if?



*This is an elaboration of the speech I gave. 
You can watch the actual speech below (Courtesy of Mert Melfa).

2014年5月12日月曜日

Facebookを読めても、現実は理解できない人たち!?

ある方にこんな記事を紹介して頂いた。


皮肉にも、この記事を紹介して頂いた方とは、最近Facebookで知り合った。友人の友人で、僕がFacebookにてシェアしたアメリカの教育「改革」の現状に興味を持って下さったのがきっかけだった。
非識字者とは、自分の名前は書けるし、Facebookで近況をアップロードできるけれど、「社会の中で能動的に活動するため、自身の目的を達成するため、自身の知識や能力を発展させるために、文章を理解し、評価し、利用し、関与していく能力をもたない人」のことでもある。最近のOECD(経済協力開発機構)のPIAAC(国際成人力調査)の結果が教えてくれたことだが、2つの異なる非識字が存在するのだ。後者は「機能的非識字」とよばれ、イタリアにおいては10人のうちほぼ3人がこれにあたる。そしてこれは、ヨーロッパで最も高い数字だ。


この記事を読んで、個人的には「びみょう」としか言えないmixed feelingsを抱いた。決してFacebookを擁護するわけではないが、その使い方は一概には言えない。記事のように、日常の出来事や些細な幸せを友達や家族らとシェアする人もいれば、私や彼のように、社会情勢に興味を抱き、同志を見つけることによって情報の収集と発信の場にする人もいる。大学院の教授でも、あえてFacebookをプライベートな空間として使っている人もいるし、それらの人々が現実を理解できていないかと言えばそうでもない。いつの時代も自分が置かれる「現実」を理解できない人はいたと思うし、それは今日に始まったことではない。

学校組織は定着度テストロッパの能力のための手段のみにを取られ教育のもつべき野を業計画のチェックと学年末へとえてしまったしかし定着度テストに寄りかかった学校の外に取り残されるのは何だろ
(中略)OECDの警告に答えるためにこの国は能力の概念そのものを倒させなければならないイタリアに根く残る教条主的な教育が生むのは生徒の声をする学校であり教育しているよえて実際は何も教育しない学校だ能力を育て上げする教育は受容して世界を理解するための道具を教える学校へと結実する

教条主的な教育が批判的思考をダメにするといのもわかる。ただ、記事を紹介して下さった方が懸念されていたように、その答えとしてOECDの「PIAAC型」字率を上げよとするのには矛盾を感じざるを得ないPIAACは数多くある中の一つの学力しかもそれは新自由主による教育におけるグロバリゼションを推するOECD経済開発機構)が打ち出すものだその学力では地域的な特性を表面的にめるだけで文化も言語も考え方もう、ありとあらゆる国々の人々の学力やきの能力がある一定の基にてられ化されされるそしてその果が今度はそれぞれの国の教育政策を定していくのだ日本でも、「ピサ型学力」を考慮した教育政策の流れは顕著にある。月刊『ジャーナリズム』(朝日新聞出版)4月号に寄稿した論稿でも書いたように、安倍政権は、「グローバル人材の育成」の必要性を説き、公教育における英語、理数、ICT(情報通信技術)のエリート教育を正当化した。また、民主党政権下で抽出方式にされた全国学力テストを、「きめ細かい調査」の名の下に、13年度は国公立全ての学校が参加する「悉皆方式」に戻した。

このよな世界模のデタの集とによる操作又はによるOECDを始めWorld BankUNESCOが1960年代から行ってきたものでベルギーのマーテン・シモンズ、イギリスのマーク・オルセン、アメリカのマイケル・ピーターズという教育学者らによれば、「このデータ収集は、パフォーマンスとベスト・プラクティスの情報の収集と拡散にフォーカスを置く近年のグローバル政策の流れの一部」であり(Simons, M., Olssen, M., Peters, M. 2009.Eds. Re-Reading Education Policies: A Handbook Studying the Policy Agenda of the 21st Century. Rotterdam,: Sense Publishers. p. 40)、「評価による操作」という、テストの点数を上げるために教育がデザインされる本末転倒な教育統治の在り方を世界的な常識にしつつある。


そして、これらを支えているのは新自由主義により「弱化」した教育のビジョンだ。これは他でも書いたことだが、数値化できる教育なんて大した教育ではない。また、アメリカだけでなく世界的に広がりを見せている、生徒を無視した「ベスト・プラクティス」や「最高の授業」は、教育の奥深さと難しさを知らない素人の発想だ。だからテクノロジーや即席教員がプロの教員を置き換えるようなことが可能になってしまう。また、そもそもなぜ「経済開発機構」の学力に世界が翻弄されているのかといこと自体が新自由主による世界模の支配とその危性を物っているのではないだろうか


あいだは空いたものの、僕は今年で、アメリカでの滞在は計14年になる。日本で生まれ育ち、高等教育はアメリカで受けた。そんな中、一つ思うことがある。日本のすごさと特異性は、世界に出た者にしかわからないのではないだろうか。日本には、グローバルな基準に「合わせる」のではなく、それに対抗し得る、新たな幸せの形を打ち出すことによって、世界における頭角を表して欲しいと願うばかりだ。