2010年3月16日火曜日

「消費資本主義と教育の商品化」Part II

自由主義と民主主義の緊張、そして教育


 実はこの 「消費資本主義と教育の商品化」 というテーマは、自分がマスターで追求したテーマの延長線上にあると自分では思っている。マスターで扱ったのは、 『アメリカの自由民主主義と道徳教育』というテーマで、公立学校での道徳教育の可能性を追求する時に浮き彫りになる自由主義と民主主義の対立を、Yoder v. Wisconsin (1972)とMozert v. Hawkins County (1987)という二つの裁判に焦点を当て、哲学とpolitical theoryの観点から考えた。




  日本もアメリカと同様、自由民主主義国家という分類に入るが、この国家体制の根本となっている自由民主主義は、自由主義と民主主義という二つの全く異なる社会理念の融合から成り立っている。そして、この融合は決して平穏なものではないのだ。




 自由の国アメリカが誇る自由主義とは、簡単に言えば、ありとあらゆる言語、文化、人種、政治理念、信仰などの個人の自由を受け入れ包み込もうとする、外へ外へと肥大化する力。



 それに対して民主主義は、自由主義によって多様化された人々を集めて一つの社会を運営していこうとする、内へ内へと向かう力だ。



 表面的に教育を考える時はさほど気にならない内外へ引っ張り合う緊張だが、これが公立学校での道徳教育の設定を考えると、もろに表面化する。



 道徳教育が他の教科と大きく違うのは、その内容が必然的に 「何が良い、何が悪い、何が正しい、何が間違っている」 の定義を迫り、価値観を序列化するところだ。(ここでは深く言及しないが、他の教科も本来は道徳の要素を排除できるわけはなく、奥深い所ではその内容選考に当然権力の問題がつきまとう。歴史教育が良い例だ。)



 例えば、誰がどのアイスクリームのフレーバーを好きであっても問題にはならないし、バニラよりチョコレート味の方が正しいなんてことにはならないだろう。ただそれが、中絶などのcontroversialなテーマになるとそうはいかない。同じ 「自由」 であっても、女性の産む自由なのか、子どもの生きる自由なのかを考えるだけで、意見は真っ二つに分かれてしまう。更に、多くの人にとっては、反対側の意見はただ自分の意見と 「異なる」 だけでなく、明らかに 「間違っている」 のだ。



 もっと言えば、自由、正義、誠実さなど、人間の最もベーシックな理念でさえ、人それぞれの道徳的、倫理的、宗教的視点によっては全く異なった解釈をもたらすため、学校で扱うのは決して容易なことではないのだ。ただ、容易でないから教えなくて良いのかと言えば、それ自体がまた新たな議論を呼ぶのだ。



 ちなみに、驚く人も多いかもしれないが、アメリカの最高裁で、公立学校にて進化論を教えてはいけないという州の法律が違憲と判定されたのは1968年、つい最近の話である。こうして教育法の歴史を振り返ると、アメリカがいかに法廷において個人の自由を尊重しながら国の将来を担う市民としての一般教育を追求してきたかが分かる。このことからも分かるように、アメリカの教育史は、個人の自由と国の教育義務のバランス維持追及の歴史でもある。そしてそれは、自由主義と民主主義のバランス維持に他ならないのだ。


  ただ、社会の多様化、そしてそれに伴う自由個人主義 (liberal individualism) に歯止めがかからないアメリカでは、このバランスは壊れつつある。もはやアメリカでは、バラバラになった、価値観を一つにまとめる市民教育を放棄しているように思えてならない。道徳教育のようなホットなトピックには触れない方が、政治的にスマートであるため、あからさまな道徳教育は回避されるのだ。




 ただ、容易でないから教えなくて良いのかと言えば、それ自体がまた新たな議論を呼ぶのだ。いや、少なくとも一昔前までは大いに議論を呼んでいた。1983年のアメリカ政府による教育レポート、A Nation at Riskとそれに伴った標準学力をベースにした教育改革 (standards-based reforms) の到来までは…。



 2002年のNo Child Left Behind Act施行後は、学力統一試験を主軸にした 「改革」 に拍車がかかり、 「学力」 の名の下に議論を呼ばない当たり障りのない内容での教育が今日の教育現場を支配している。



 ふと考える。これは日本でも同じことなのではないだろうか。

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