今日、小関先生の一言で、教員駆け出しだった頃の自分を振り返った。
希望いっぱい夢いっぱい、全ての子ども達の人生を変えられると信じていた、教えたがりの自分。
生徒を目の前にする度に、何か伝えなくちゃ、教えなくちゃという焦りがつきまとった。
頼まれてもいない説教や、いろいろな人のありがたい話。
口だけの、薄っぺらい話。
自分の言葉ではない。
子どもは、そういうこともちゃんと感じ取る。
言葉はどんどん軽くなり、話すことがなくなっていく。
3年ほどの月日が経ち、やっとわかったこと。
「教えられることなんか何もない。」
それに気付いた時、初めて自分の「教え」は始まった。
ある時、教えられずに悩む自分に小関先生が言った。
「悩みながら学んでいる自分の姿を生徒に見せればいいじゃないか。」
「教える」こと、それは自分が学ぶことだった。
小関先生は、僕によくこう訊いてきた。
「語ってるか?」
もし、今自分が教員に戻ったら、僕は子どもに耳を傾けることから始めたい。
小関先生の恩師、奥村先生が教えて下さった言葉。
「傾聴と会話」
僕は、生徒との会話の中で、大いにありのままの自分を語るだろう。
学校や、社会に対する憤り、未来への可能性、自分がやろうとしていること、自分がわからないこと、大人や一教員としての苦悩、そして希望…。
きっと口数は少ない代わりに、体で、行動で多くのことを語るだろう。