部活での勝負は、単に勝ち負けがわかり易いというだけで、部活動の外で勝負がないわけじゃない。教科指導、学級指導、生徒指導、どこでも勝負はある。ただ、勝負をするかしないか、勝負と見るか見ないかは、教員しだいだ。授業の中に勝負があることに気付かない教員もたくさんいる。
思い返せば、小関先生は授業が始まる前から勝負を仕掛けていた。授業前、生徒たちが席について先生を待つ。次の授業が数学だと気付き、一人の男子生徒が、慌てて机の横に置いてあった鞄をロッカーに入れに行くと、他の生徒数人がそれに続く。チャイムが鳴り、ドアが開くと、クラスに緊張が走る。小関先生が生徒たちを見渡しながら教壇につくと、日直が号令をかける。
「きをつけー」
「やり直し。」
「はい。きをつけー」
「やり直し。」
困ったように、日直がクラスメイト達を見渡す。
「きをつけー」
「...」
「礼!」
「よろしくお願いしまーす!!」
生徒たちが一斉に礼をし、顔を上げる。
「...」
小関先生は何も言わない。ただじっと生徒たちの方を見ているだけだ。気まずい沈黙が続く。
ハッとして、最後の一人が先生の方を向いたところで、初めて先生は沈黙を破る。
「はい、よろしくお願いします。」
生徒たちの姿勢はできた。勝負ありだ。
その後の授業も驚きだった。生徒たちは先生の言うことを黙って聞くだけかと思えば、そんなことはなく、今まで見たこともないような活発な数学の授業だった。生徒たちは先生を恐れる様子もなく、先生に自由に質問をしたり、発表をしたりしていた。何と言ったらいいか、生徒たちが、先生の引いたラインをよくわかっていて、その中で安心して飛び跳ねているような、そんな不思議な雰囲気だった。
前回の、『負けから学ぶこと』にコメントをくれたのは、全て小関先生の門下生達だが、皆、それぞれの形で勝負に挑み、負け、学んでいる。
勝負をしなければ、負けを突きつけられることはない。
だが、そのかわりに、勝利の味を経験することも、誰かの「教師」になることもないだろう。
だが、もっと言えば、何十年勝負しても、きっと負け続けるのだろう。
それはきっと、「守・破・離」という技を極めるプロセスのほとんどが、最初の「守」であることと、似ているのかもしれない。
俺なんか、ずっと守ってばかりだ。
いつもそう語っていた小関先生の顔は、どこか有り難そうだった。