先日、こんなニュースがあった。
記事によれば、
「静岡県清水町教育委員会は18日夜、町立小学校の6年生の担任の男性教諭(30)が年間に決められた69回のテストのうち、29回を実施せずに成績を付けていたと発表した」とのこと。
発覚のきっかけは、テストをやっていないページがあることを子どもから聞いた保護者からの問い合わせだったそうだ。
採用3年目のこの男性教諭は初担任。学校側には、「他のクラスに遅れないよう授業に力を入れてテストをする時間がなかった」と説明したとのこと。
テスト29回未実施…。
「だからどうした?」
というのが、このニュースを見た私の第一印象。私にしてみれば、こんなことがニュースになること自体がニュースだった。
いろいろな問いが頭に浮かんだ。
どうして校長は、授業に力を入れようとしたその担任を守ってあげられなかったのだろう?
どうして教育委員会はわざわざそんなことを大々的に発表しなくてはならなかったのだろう?
「なぜ未実施のテストがあるんだ!」という苦情のポイントもズレていると感じるのは私だけだろうか。
私なら、「貴重な授業時間を削って69回もテストするな!」
「いったいテストにどれだけの金を使ってんだ!」
「学校は塾ではない!」
と言うところだろう。
また、テストを決められた回数実施したかどうかなどという、形だけのくだらないポイントで教師らが評価されるのなら、教育の中身はもはや関係なくなってしまう。教員はテストの回数だけこなすようになるだろう。
「いや、そうではない。回数だけじゃなくてテストを頻繁にすることで生徒の学力の成長や教師の指導力をモニターしているのだ」という反論もあるかもしれない。
でも、もし私がそんな環境で教えているとするならば、私はもはやテスト対策しかしなくなるだろう。私自身、中学校の英語教諭になる前に留学予備校でさんざんTOEFLやらTOEICやらを教えていたので、テストの攻略テクニックを教えるのは得意だ。
しかし、それでは何のためのテストなのかわからなくなってしまう。テストは、現時点での生徒の理解度を確認し、より充実した学びのためにそれを授業に反映させるものであるはずで、テストありきの授業や、テストが多すぎて授業時間が十分取れなかったら、それは本末転倒と言わざるを得ない。
それは、このニュースを読んで私が意見交換した一人の女性教諭の言葉にも顕著に表れている。
「実際うちの学校では、(成績通知表の)評価は、定期テストの点数と比例していないと校長に差し戻されました。非常に違和感と危機感を感じた1年でした。」
また、もし教員が生徒のテストの点数だけで評価されるのなら、生徒指導もやらないし、部活指導もやらないし、学校行事や委員会活動なども最低限のエネルギーでやるという教員が増えてもおかしくないだろう。 もし、全ての教員がそのようなサラリーマンメンタリティになってしまったら、それはもはや学校と呼べるのだろうか? 塾と何の違いがあるのだろうか。
残念ながら、実際に日本の教育政策もアメリカ同様、公立学校の「塾」化という方向に進んでいる。教員研修の塾への委託と公教育の民営化、部活動切り捨ての危機、ゼロトレランス導入による生徒指導の事務処理化などについては他でも書いた通りだ。
しかし、教員の不祥事がある度に国民が驚きを隠せないのは、我々が彼らに教育者としての自覚を持ち続けて欲しいという願いを持っている証拠ではないだろうか。だとしたら、教師のサラリーマン化や学校の「塾」化を助長させるような教育政策の数々に対して、私たち国民が「待った!」の声をかけなければいけないはず。しかし、今回の事件は、私たちがその役割を果たせているかどうかを問うているように思う。
税金を通して、あるいは直接学校にテスト代を払っているのだから、購入したテストを実施しないともったいないという親の気持ちもわからないでもない。だが、そんな親の消費者メンタリティが教職をサービス業に成り下げるように思う。
教員が保護者の言いなりの環境で、はたして教育は成り立つのだろうか。