2016年3月8日火曜日

学校と教師、揺らぐ存在意義 〜部活顧問制度をめぐる署名運動を考える〜

 教育とは何か、教師の仕事とは何か、学校とは何のための場所なのか、それらの理想を実現するためにどれだけのお金とエネルギーを子どもたちの教育にかける覚悟が私たちにはあるのか。そんな根源的な問いに今、日本の教育は直面している。
 
 世界で最も忙しいと言われる日本の教員らが始めた「部活がブラックすぎて倒れそう… 教師に部活の顧問をする・しないの選択権を下さい!」と文科省に求める署名運動が、2016年3月8日現在、2万4千人を超える賛同者を集め、ネットを騒がしている。私は、拡大する経済格差の中で貧弱化する公教育と「塾」化するアメリカの公立学校の状況を研究する立場から、危機感をもってこの問題を見守っている。「教員を守れ!」と若手教員らが始めたこの署名運動は、学力テストの点数に縛られた偏狭な「学力」観に支えられた日本の教育を益々貧弱なものにし、教育機会の不平等を生み、逆に教員の首を絞めることになるのではないだろうか。

スポーツや音楽活動が恵まれた子の特権となる日

 まず、このまま署名運動が拡大すれば、部活動そのものが学校教育から切り離される可能性がある。少子化を少人数学級実現の機会ではなく予算削減のチャンスとしか見ない財務省は、公立小中学校の教職員定数3万7千人の削減や、国立大学の運営費交付金の毎年1%カットなどを提案し、教育予算を削減しようと躍起になっている。現在部活の顧問を務める教員に支払っている微々たる部活手当も、全国で廃止すれば相当な金額になるだろう。このまま教育予算の削減が続けば、部活等の課外活動は真っ先にカットされ、財務省が各国立大に求めているように、不足分の資金は地方自治体や各学校が保護者や地域の協力のもとに自己負担ともなりかねない。そこに「若手教師らの声に応えて」という大義が生まれれば、衆参ダブル選を控える現政権にとっても一石二鳥なのではないだろうか。
 
 しかし、教育予算の削減と各学校による自己負担増の組合わせは、地域の貧富の差による教育格差を生み、教育機会の不平等を引き起こすことになる。現に、私が在住しているニューヨークでは、この問題が驚くほど露骨に表れている。リーマンショック後の財政危機による教育予算の穴を、各学校は保護者会や地域の協力を借りながら自己負担で補ってきた。しかし、裕福な地域では保護者会年会費やチャリティーイベント等で年間1億円単位の資金を調達して有名私立顔負けの教育環境を整える学校が幾つもある[i]反面、貧しい地域にある学校では必要最低限の教育環境で我慢するしかない。ちなみに、私の娘達が通うハーレムの学校には、図書館もなければ、体育、美術、音楽の教員を雇うお金もない。保護者会で資金を調達しようにも、生徒の大半が低所得者用の公共住宅に住む地域では、保護者からの募金にも限界がある。同じ公立学校なのにそれだけの格差が存在する状況の中、私は考えさせられる。「公教育」とはそもそも何なのだろうか 。

 日本の部活動に関しては、教師の疲弊を考えて部活動を地域組織に委託するという主張もある。しかし、財務省が地域のスポーツクラブやその他の組織に予算をつける保障はどこにもない。もし学校教育から部活を切り離すようなことになれば、今まで部活動がカバーしていたスポーツや音楽、その他芸術などの課外活動は、お金を払える家庭の子息の特権、もしくは裕福な地域に住む子どもたちの特権となる日が日本でも来るかもしれない。

「塾」化する学校

 更には、公教育そのものが貧弱化しつつある今の社会の流れの中でこの署名運動をとらえると、もう一つの副作用の可能性が見えてくる。アメリカでは、学力基準に到達しない公立学校への制裁を義務づけた『落ちこぼれ防止法』(2002年)以来、テスト至上主義が教育を支配しており、都市部の貧困地域ほどその悪影響を受けている。学力テストの対象外である社会、体育、美術そして音楽などの教科がカットされる代わりに対象となる国数の時間が増え[ii]、教師は人間関係を無視した指導テクニックを必死になって学び[iii]、授業時間確保のために休み時間は短縮され[iv]、放課後に行われていたスポーツなどの課外活動はテストの補修に置き換えられ、「ゼロ・トレランス」の名目で生徒のちょっとした逸脱行為にも停・退学処分を下すことが可能となったことで、生徒指導は事務的手続きへと代わり、警察に委託されるケースも珍しくない[v]。その反対に、私立学校や元々点数の取れる郊外の裕福な地域の公立に通う子どもたちは、スポーツや芸術に力を入れた全人教育を受け、少人数学級制でリーダーシップや自分の頭で考える力、そして個性豊かな感性を育んでいるのだから皮肉としか言いようがない。
 
 テスト至上主義に蝕まれたアメリカ公教育のこの悪しき流れは、日本にも確実に来ている。第2次安倍政権下で全国学力テストが抽出式から全員参加形式に戻され、加えて学校別の成績開示が規制緩和によって可能になったことで、各都道府県は点数競争に躍起になっている。そして、「このような指導方法を取り入れたらこんなに生徒の点数が上がった」などの、あまりにも安易な「学力」論が今日本でもてはやされている。このままでは、日本の学校も塾と変わらなくなり、能力別に生徒を分け、テストや受験対策だけに集中できる塾に学校が教えを乞うような状況が生まれるだろう。いや、足立区教育委員会が新人教員研修のために大手進学塾のeラーニング教材を導入するなど、既にそれは現実化しつつある[vi]

問題の本質

 これらの点を踏まえて今回の部活動顧問制度に関する署名運動を考えると、問題の本質は学校の教師が部活動の顧問をする・しないの選択権を彼らに保障するか否かという表面的な問題を遥かに超え、教育とは何か、教師の仕事とは何か、学校とは何のための場所なのかという教育に関する最も根源的なものであるように思う。この署名運動で浮き彫りとなったのは、多岐にわたる仕事と多忙により、教育の専門家としての存在意義をまっとうできず、もがき苦しむ教員達の姿だ。だからこそ、署名が「部活がブラックすぎて倒れそう教師に部活の顧問をする・しないの選択権を」という「労働者」としての要求となってしまったのは残念だ。教師が教える環境は生徒が学ぶ環境に他ならない。ならば、「教科指導であれ部活指導であれ、教師がそれぞれの専門性を生かせる教育環境の保障を」という、あくまでも「専門家」としての要求であって欲しいと私は思う。
 
 その意味で、部活動を完全外部指導者制にするという意見にも私は反対だ。学校や教師の存在意義の揺らぎは、学校教育に求められる多岐にわたる役割に見合う資源と人材を、行政が責任の所在を明確にせず、教師への搾取で賄ってきたことに原因がある。これまで、国が部活動に対して中途半端な姿勢をとってきたがために、教師らは都合のいいように搾取されてきた。だがもっと言えば、元中学校教師の私自身がそうであったように、部活動を通して人間の教育に携わりたいと願う教師は、それをわかった上であえて国に利用される道を選んできたのだ。だからこそ、部活動を中途半端にしないためには、それをしっかりと教育課程の中に位置づけることで、それらの教師に正当な評価を与えることこそが筋なのではと思う。そうすれば、もはや教員の善意に甘えることはできず、人件費も増えるだろう。だから問題は、どれだけのお金とエネルギーを子どもたちの教育にかける覚悟が、国とそれを支える私たちにあるのかということなのではないだろうか。




[i] 『100万ドルPTA: ベイクセールを遥かに上回る』(Spencer, K. New York Times, June 1, 2012.http://www.nytimes.com/2012/06/03/nyregion/at-wealthy-schools-ptas-help-fill-budget-holes.html?_r=0
[ii] テスト至上主義によって学校のカリキュラムが狭められている問題は、narrowing of the curriculumと呼ばれており、アリゾナ州立大学のDavid C. Berliner教授らが中心となって警鐘を鳴らしてきた。この現象は、テストの点数が全体的に悪く、学校閉鎖の危機に見舞われている都市部の貧困地区で顕著に見られる。
[iii] アメリカでは、『チャンピオンのように教えろ:生徒を大学への道に乗せる49のテクニック』という本が2010年に全米ベストセラーとなり、その後も同様の。
[iv] マイノリティの生徒が占める割合が大きい、あるいは貧困率の高い都市部の学校では、この現象が特に顕著に見られる(全米公教育センター)。 http://www.centerforpubliceducation.org/Main-Menu/Organizing-a-school/Time-out-Is-recess-in-danger
[v] 木大裕 アメリカのゼロトレランスと教育の特化」と教育2015年春85 
[vi] 『大手塾が担う新人教員研修 東京都足立区が教材導入』 毎日新聞 2014年5月19日。

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