2013年3月2日土曜日

なぜニューヨークで、なぜ今、東北を語るのか?

震災2周年を今年もニューヨークで迎える。

これまでも、ここで見つけた仲間達と様々な復興支援の取り組みをしてきたが、今回行うのは、今までやってきた中でも一番やりがいを感じている。自分の色を出せているからだと思う。

日本人として、教育を志す者として、アクティビストとして、そしてこっちで見つけた恩師、Maxine Greeneの自由とイマジネーションの哲学の影響を受けた者として挑んだビジョンが、数多くの仲間達のビジョンやエネルギーと融合し、3月10日、一つの形になる。

勉強をそっちのけにしてやっている部分も否めない。自問自答の連続だ。

でも、自分は要領が悪いから、「割り切る」ということができない。

今、その瞬間に自分に取って大事なこと、それしか考えていない。今までそうやって何とか生きてきたし、そんな瞬間瞬間の蓄積が今の自分をつくっている。

何とかなるだろう。そんな境地だ。



そんな今回のイベント、ちょっとここで宣伝しておこう。



なぜニューヨークで、

なぜ今、東北を語るのか?


今回の取り組みの根底にあるのは、そんな哲学的な問いであり、Chim↑Pomを始め、日本とアメリカから様々なアーティストや建築家、医者、その他アクティビスト達を招き、この問いと正面から向き合う。





今回の一つのポイントはアートだ。

イベントを訪れる多くの人々が、地理的な枠を越えた、もっと深い、人間的なレベルのダイアローグに参加できるようにとの願いを込めて、アートに力を入れたイベントとなっている。

だから、「東北のことはあまり知らないけれど」、という日本人以外のアーティストやその他ハートのある人達に多く来てもらいたいと思っている。

集まった人々が、一人一人の人間として 3.11 を語れたらと思う。


3月10日(日)、コロンビア大学
詳細はこちら→ http://nyjapan311.org/
予約はこちらから。 



 
 
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2013年2月14日木曜日

Maru 4 ~ What does it mean to have a teacher? ~


August 23, 2011 (Japanese) / February 13, 2013 (English)



Maru, whom I re-encountered last summer, had become the chief manager of a large franchise massage salon at the age of 22.

That night, as courtesy of Koseki-sensei, I was scheduled to get her massage before going out for drinks with her.

A few women were at the counter by the entrance. Among them was Maru.

One of the women politely approached me as I neared the counter. Looking into Maru’s direction, I said, “Hello. I have an appointment with the chief manager at seven.”

Blushed, Maru slightly bowed and greeted me, “It has been a long time.”

Gently, she introduced me to her staffs,



“This is my homeroom teacher.”



Those simple words carried the entire 8 years that have passed between us.

I now wonder why I remember that moment so clearly. Was that her way of distinguishing me from Koseki-sensei? Perhaps. He is her teacher. But she called me “my homeroom teacher” ... as if I were her only homeroom teacher.




I wasn’t sure if it was because of her profession, but Maru had become a tender young lady. Or, at least, she was behaving that way. It was far from the feisty image I had of her.

There might have been about five staffs in the salon. Many of them were clearly older than Maru.

I sat on the couch as directed. A few whispers were exchanged at the counter. I pretended not to notice. Soon, Maru came with the menu and knelt down by me. I knew well enough that she was simply being a professional and treating me like a regular customer, but I felt a bit embarrassed.

I couldn’t be a regular customer.

After she walked me through the system and various options, I told Maru that I would leave it all up to her.

When the massage began, perhaps a bit awkwardly, I began to ask numerous questions about her work.

She began to explain how she got there. She told me that it was not long ago that she began the job, that she began to receive countless requests for appointment and was given a shop manager’s position within half a year, and that now the number of her appointment request ranked 5th in the entire national franchise.

Nothing was surprising.

She was much loved by Koseki-sensei’s own mentor as well and was given the recognition of “master of conversation” by the old man. Perhaps, what attracted many people was not only her massage but her ability to have a pleasant conversation with any individual.



Maru then told me an interesting story.

Just the other day, a younger employee came to Maru crying. When Maru asked, she said she was shocked because a male customer asked her for her email address.

“I can’t believe he was seeing me like that. I didn’t become a masseuse for that!!” said the girl.

Maru replied,


“Wait a minute. Are you then good enough as a masseuse so that people pay to see you just for your massage? First of all, isn’t it an honor for a woman to be thought as someone worthy of paying to see?”


Hard to believe those are the words of a 22-year-old.

But, yes, Maru would say that. That’s Koseki-sensei’s beloved mentee.

Tough and driven.



I felt as though Maru had just demonstrated what Kosei-sensei would call, “the capacity to live.”


 (To be continued...)


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2013年2月3日日曜日

今だからわかる 〜 ヨネ5 〜



車を運転する米倉が、途中までは先生についてったんすよ、と付け加えた。

「マジで?そりゃたいしたもんだ」と俺は驚いた。

「おまえ冬休み中走ってたのか」と訊くと、「いや、まったく走ってなかったっすね。」とヨネ。ここら辺の正直さが米倉らしくていい。

笑う俺を見て米倉が追い討ちをかけた。

 「努力はいっさいしませんでした。」

こんにゃろう...。

途中、あいつがあまりにもスピードを出すので、おまえどうせスピード違反でしょっちゅう捕まってんだろ、と訊くと、

「え、俺免許とってからまだ一回も捕まったことないっすよ。...まぁ、最初から持ち点は1点しかなかったっすけどね」と返ってきた。

俺はまた笑った。

「持ち点?なんだそれ?おまえな、わりぃけど俺今まで一度も持ち点を気にしたことねぇぞ。俺はゴールド(免許)だしな。」

そう言った後、あれ、反応がないなと思って 運転席の米倉の方を向くと、あいつが今までなかったような尊敬の眼差しで俺を見つめていた。

おいおい...。

米倉のツボはそこだったか...。

そんなことに今まで気付かなかった自分に反省した。

気を取り直して話を聞いてみると、免許を取る以前に既に無免許運転で捕まったことがあったため、最初から1点だっとのこと。

なんだかいろんな意味で米倉らしくて、また大笑いした。





久しぶりに会った米倉は激太りしていた。会った瞬間から太ったなと思ってはいたが、車を出て並んだ瞬間、思わず米倉のおなかを電話帳づかみしてしまった。

聞いたら92kgだという。

そうして体は中学生時代の何倍かに大きくなっていた米倉だったが、人柄は全く変わっていなかった。

人好きで、動物的な嗅覚で相手に合わせ、かといって引けを取ることもなく、どこかユーモラスで、あどけなさまで感じさせる。目上の人に可愛がられるタイプだ。

もちろん、これは目の前の相手次第、というところも大きい。米倉は、相手によっては、全く別人…というか悪人に変身する。

中学生時代、口うるさい中年の女性教員や威圧的な態度で生徒を支配しようとする体育会系の男性教員達にはよく噛み付いていた。その点で、人を見る目にはなかなかたいしたものを持っていると感心する。また、と同じで失うものがなかったため、小さい頃から友人がやらないようなバカなことをたくさんしてきた。自分よりも少し力の強いズル賢いがき大将には、いいように使われ、常に一番とばっちりを食らう損な生き方をしてきた。

「米倉は人で生きていくんだ。」

そう俺に言い続けたのは小関先生だ。今回の帰国中も、飲んだ席で先生は米倉についてこんなことを語っていた。

「ちんぴらでもいい。可愛がられるちんぴらになればいいんだ。」

米倉が、人にはない自分の良さを知り、逞しく生きていく術を身につけること...。

今思えば、小関先生との二人三脚で指導に当たった米倉の中学三年間は、全てこの一つの目標に向かって突き進んだ日々だった。

ただ、米倉は人で生きていく、愛嬌で生きていく、というのはわかっていたし、小関先生の言うことを信じて言われる通りにやってはいたが、実際に米倉がどういう大人になるのか、当時の自分には想像もつかなかった。

「ああ、こうなるのか。」

今回米倉と再会し、小関先生が言っていたことが初めて自分の中でつながった。


米倉は、今になってあの時の先生の言葉がわかるようになった、と僕に言っていた。

それは自分にとっても同じだった。

(続く...)


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2013年1月31日木曜日

主演男優賞 〜 ヨネ4 〜


車は海浜幕張から海に向かい、検見川の浜沿いを走った。そこは中学校時代、野球部でさんざん走った道だった。よくここ走ったよな、と言うと、あいつが、

先生、俺が新年のマラソン大会で6位入賞したこと覚えてますか?と訊いてきた。

そういやそんなこともあったな、と忘れていた昔の記憶が蘇ってきた。

「学年で一位っすよ」と米倉。

そんなことはないだろう、と思ったが、どうやらその年は学年一位、二位の 原田と中田が駅伝部の方に駆り出されていたらしい。

振り返れば、あの頃は秋から冬にかけて本当によく野球部で走っていた。まあ年がら年中走ってはいたが、秋の新人戦と区大会が終わり、寒くなると、ランニングの量は数倍に増えた。

学校の周りを走るのはもちろんのこと、学区をぐるっと3周する シティーバスコース(10km)。学校からマリンスタジアムまで走るマリンコース(7km)。安全上の問題ということで、数回で校長に却下されたが、朝練で隣町の学校まで走るおはようコース(?)、週末雨天の日に校舎の中をぐるぐる10周する校内マラソンコース、そして極めつけは年初めに行う新年マラソン大会だった。

自分が初めてフルマラソンを走った時の経験から、未知の距離を走り切る経験を子どもたちにも経験させたいと思い、マリンスタジアムから稲毛の突堤までを往復する 15kmのコースに設定した。そして、せっかくだからと思い、翌年からは他校の野球部にも声をかけ、3校合同の新年マラソン大会が冬の恒例となったのだ。

そんな調子だから、冬恒例の駅伝大会に野球部から選手が駆り出されなかった年はない。





これを卒部生に言うとみんなとひっくり返るのだが、

はっきり言って、あれは、毎年1月の最終日曜日に小関先生及びその門下生で走っていたフルマラソンのための、俺自身のためのトレーニングだった。

「エーっ!!そうだったんすか〜?
ひでぇー。

と驚く生徒に

「なんだおまえ、知らなかったのか?
かわいそーに…。

ときり返すのが、実は結構な楽しみでもある。




今だから正直に言うが、はっきり言ってあれは、一石二鳥というか三鳥くらいだった。

自分のトレーニングになり、生徒も足腰が強くなり、生徒は先頭を走る俺を見て、「先生が僕らのためにあんなに頑張ってくれている」と考えるのだ。

「教師は主演男優賞を取れるようじゃなくちゃいけない。」

小関先生の教え通りだ。

(続く…)