2009年8月31日月曜日

「自由」について




 Kaoruさんが『失うものは何もない』のコメントに書いてくれた、Maxine Greene(マキシン・グリーン)の言葉をピックアップしてみたいと思う。



「自由とはパンを選ばないこと」



 非常に彼女らしい言葉だと思う。Maxine Greeneは、日本ではあまり知られていないが、現在アメリカのアカデミアで活躍する教育者の多くに、今なお影響を与え続けている教育哲学者だ。今では一人で歩くこともできないほどのお婆さんで、90歳代だと思われるが、今でも僕とかおるさんが勉強するコロンビア大学のTeachers Collegeで授業を教え、TCの学生や教授たちの間では、Maxineとファーストネームで慕われている。そして今年の春、彼女の自宅で教えられる授業を二人で受け、大いに感動した。

 自分の中では、「自由」とは「失うものは何もない」という人生に対するメンタリティーであり、「変わることができる」人間の器だという、二つの考えがあったが、それらが今回のかおるさんのコメントでつながった思いがした。

 アメリカを代表する教育哲学者、John Dewey(ジョン・デューイ)は言う。 我々は自由だ。
ただそれは、生まれつきの自由なのではなく、「我々が変わることができるから」だと言うのだ。(We are free “not because of what we statically are, but insofar as we are becoming different from what we have been.” Philosophies of Freedom, 1928, p. 280.)では、この「変わる」というのはどのような変化を表しているのか。Maxineは、「解放されること」(breaking free)と「打ち破ること」(breaking through)を区別しつつ、次のように解釈する。人間は、個人では真に変わることはできない。何か変えなくてはならない関係、法律、体制、社会などが存在する時、本当の意味で変わるということは、それらから自分だけが逃れ解放されることではない。何にも左右されない自由な意志で動く人々が、人との絆(connectedness)やコミュニティーとしての結束(being together in the community)を通して、その好ましくない状況を打ち破ること、新しい何かを創造することこそが「自由」だ。それこそがPaulo Freire(パウロ・フレイレ)が言う、世界を名付ける(to name the world)ということであり、そのためには命までも懸けなければならない。

あなたは、どんなに新しく、素晴らしい世界が可能なのか考えもせず、他人が名付けた世界の奴隷となりつつも、今日自分が口に入れるパンを選べるということを「自由」と呼ぶのか。

Maxineが言いたいのはそんなことなのではないだろうか。


(Maxine Greeneに興味がある人には、彼女の著書、The Dialectic of Freedomをお勧めする。)


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