2009年8月26日水曜日

「管理」の再構築(Reconceptualizing “control”)

チェコ人のJana、カナダ人のJamieと


 せっかくコメントを頂いているので、一つピックアップしてみたいと思う。AKIさんのコメントでこんな文があった。

「免許更新講習より、十年に1度、1年間の休暇与えられた方が、よっぽど有意義な時間になるのでは。」

非常に面白いと思う。自分も、日本の公立教育における一年間のsabbaticalの導入を考えたことある。アメリカの公立学校では導入されているかどうか知らないが、少なくとも僕が通ったニューハンプシャーのHolderness Schoolでは、数年に一度、教員にはsabbaticalが与えられていた。教員が一年の有給休暇をとり、その間に自分自身の学びを深める。これはとても大事な視点だと思う。結局は、国が子どもの育成にどこまで本気になれるかだと思う。子どもの成長に何を期待するのか。そのための学校教育に何を求めるのか。どんな器を持った人物を教員に求めるのか。そのような教員を育てるために、国はどこまで力を入れる覚悟があるのかにかかってくると思う。それとも国は広がる格差の存在を知りつつ、次世代の教育を個人任せにするのだろうか。
 
 昨年出会った論文の一つにRichard ElmoreのComplexity and control(Elmore, R. F. (1983). Complexity and control: What legislators and administrators can do about implementing public policy. In L. Shulman & L. Sykes (Eds.), Handbook of teaching and policy (pp. 342-367). New York: Longman.)という大事な論文があった。その中で彼は、教育の存在意義は、個人の選択を取り締まることより教育というサービスを提供することにあり、教育に関する様々な公的機関を規則で管理することよりも、それらの機関のキャパシティーを改善しサポートすることが大事であると述べている。彼が提唱しているのは、hierarchical control(階層的、抑圧的管理)からdelegated control(委任的管理)という教育における「管理」の在り方の再構築だ。彼は言う。教育の質改善のためにどれだけ上が色々計画したところで、最終的には末端の教員がどのような働きをするかによって勝負が決まる教育において、全てを管理しようとするのはナンセンスだと。

その通りだと思う。どれだけ文科省から新しい政策が出されたところで、結局閉ざされた教室の中で何が行われるのかは、その教室を受け持つ教員しだいだし、それを無理やりこじ開けようとしても、教員の中に残されるのは、「信用されていない」という上に対する不信感と反発心だけだと思う。だったらどうして、信頼して、教育という聖なる営みを教員に委ねないのか。どうして、お役人たちが、親たちが、その他の国民が全てを委ねられるような、大きな器をもった人間を教員として育てないのか。

今でも小関先生が昔言っていたことを良く覚えている。校長が変わった時だった。間もなくすると、その校長が小関先生を管理し始めた。遠征ではどこにどうやって何人が行き、いくらかかるのか…。

「ばかだよねぇ。俺なんて単純だから、一つ信頼してもらえれば何だってやるのにな。」

Elmoreが言わんとしていることは、そういうことなのだと思う。人を管理して、人は育つのか。人を育てる教育の場で、どれだけ上からの管理が横行しているか。どれだけその「管理」を可能にするために教員の大事な時間が奪われているか。「こんなことに時間を割くくらいだったら、もっと生徒と一緒にいさせろ」と何度思ったことか。思い出すだけでも腹立たしい。政治家よ、教育の場において、真の管理とは委ねることであり、育てることである。

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