2011年4月25日月曜日

ショック・ドクトリン ~日本への警告 1~

*この記事は、元々もう一つのブログ『アメリカ教育最前線!!』に載せたものです。一人でも多くの日本人にこの事実を知ってほしいと願い、この場でシェアさせてもらっています。


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【主張】教育政策担当: 鈴木


まえがき

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナをあなたは覚えているだろうか。被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。

 カトリーナ以降、「改革」という名目でニューオーリンズにてどのような恐ろしい政策が施行されてきたか、それが今日のアメリカ全体にどれだけ影響を及ぼしているかを知っている日本人はどれだけいるだろうか。約一ヵ月半前、カトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本。多くの市町村が壊滅的な被害を受け、学校システムも一から造り直す必要がある所も少なくないだろう。ポスト・カトリーナのニューオーリンズが発するメッセージ…。それは復興の険しい道を歩み始める日本にとって、警告に他ならない。



ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine) 

 カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クライン(Naomi Kleinの世界的ベストセラー『ショック・ドクトリン』(2007)が今、アメリカで再び注目を集めている。




ショック・ドクトリンとはいったい何のことか。一言でいえば、ショック療法の経済的適用だ。ショック療法とは精神病患者に電気ショックを与え、まずは患者を子どものようなまっさらな状態に戻してから好ましい状態へと導いていくことを目的とする「療法」で、1950年代にはアメリカの秘密諜報機関であるCIAが目をつけ、拷問や洗脳などにも使われてきた。




では、ショック療法の経済的適用とは、何を意味するのか。それは、上のビデオでもあるように、自然災害あるいはクーデターなどで社会全体が麻痺に陥った時、人々がショック状態から立ち直る前に、過激で後戻りの効かないシステムを一気に構築することだ。具体的に言えば、市場原理主義に基づいた自由市場の構築で、教育、医療、郵政、電気やガス等のエネルギー資源、警察や地方自治体の行政に至るまで、政府が担ってきたあらゆる機能が民営化されることを意味している。もちろん、このような極端な政策は、社会が正常な状態であれば猛烈な反対に会う。だからこそ自然災害等の社会危機が必要なのだ。

社会危機の利用価値に目をつけ、ショック・ドクトリンを最初に提唱したのは、「新自由主義の父」とも称されるノーベル賞エコノミスト、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)だ。

フリードマンは言う。
“only a crisis—actual or perceived—produces real change”
「現実の、あるいは仮想の危機だけが真の変化を生む

驚くことに、このショック・ドクトリン、実はハリケーン・カトリーナの30年以上も前から存在していたという。最初の「実験舞台」となったのが1970年代のチリのクーデターで、フリードマンが社会危機の利用価値に最初に気付いたのも、クーデターによりチリの独裁者となったアウグスト・ピノチェトのアドバイザーとして彼がチリの経済改革に関与した時だったとクラインは指摘する。(ちなみに、チリではフリードマン及びシカゴ・スクールで彼のもとで学んだ数多くの教え子たちによる経済改革により、政府のあらゆる機関の民営化が行われ、瞬く間にフリードマンが夢見た自由市場を作り上げたのだ。教育に関しても、国全体でバウチャーを導入し、世界を驚かせた。)そして、その後もイラク、スマトラ沖地震などで磨きあげられ、30年もの間ずっとフリードマンと彼の崇拝者たちが待っていたアメリカ本土における危機こそがハリケーン・カトリーナだったのだ。

 カトリーナがニューオーリンズを水没させた3ヶ月後、93歳で衰弱していたフリードマンは、最後の力を振り絞ってウォールストリートジャーナルに寄稿したそうだ。その中で彼はこう言っている。

“This is a tragedy. It is also an opportunity to radically reform the educational system.”
「これは悲劇だ。しかし教育システムを劇的に改革する機会でもある。」

このフリードマンの言葉通り、ニューオーリンズはその後、アメリカにおける新自由主義的市場型教育改革の実験場としての道をまっしぐらに突き進むのであった。

(続く…)
*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年4月20日水曜日

再投稿: 校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空

「今日初めて授業をサボってしまいました…」と罪悪感に苦しむ友達からメールをもらった。そりゃ良かったね~。I've been there, done that ♪  なんくるないさ~。ハクナマタタさ~、と心から言いたい。エールっ!!






 今日、一つ授業をさぼってしまった。統計学の授業だ。

 担当の教授がモゴモゴ、しかも早口でしゃべる人で、正直僕にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。まるで教授の中にもう一人の存在がいるかのように、生徒たちにというよりも自分自身と会話している(映画『ロード・オブ・ザ・リングズ』に出てくるゴラムのようだ)。そんな彼のトークが僕にとっては面白く感じられて仕方がないのだが、授業の内容はちんぷんかんぷんになりつつあった。いろいろ考えたあげく、今日は授業に行かずにインターネットにアップされる彼の講義ノートをじっくり図書館で読み返すことにした(はっきり言ってそうした方が良く理解できる)。

 授業が始まる30分前まで授業に行こうか迷っていた僕は、同じ授業を取っている友達に電話をし、ノートを取ってくれるように頼んだ。



 ランチを買いに外に出た。空が急に広くなったように感じられた。11月中旬にしてはとても暖かく、とても気持ちのいい天気だ。心の中に新鮮な空気がいっきに入って、知らぬ間に僕の胸を縛っていたロープを解いてくれた気がした。

 自然と僕の足取りもゆっくりとなり、何か得した気分だ。大きくなった空を見上げながら、尾崎豊が校舎の影芝生の上で見上げた空もこんなんだったのかなぁと思いを馳せた。



 教室の窓から見える空と同じ空には到底思えない。



 ゆっくり歩いていると、いろいろな記憶が蘇ってきた。







 風邪をひき、初めて幼稚園を休んだ土曜の朝。僕の中に残っている、父親との最初の記憶の一つだ。家に父親がいるのをとても不思議に感じた。幼稚園でコマまわしが流行っていること、まだ僕がまわせなかったことを母親から聞き、父親が教えてくれることになった。

 僕が何回やってもまわせなかったコマを、いとも簡単にまわした父親を、僕は尊敬の眼差しで見上げたものだ。そして特訓した結果、昼ご飯前には僕もまわせるようになったのだ。

 その時父親が言った言葉、そして見せた優しい表情を今でもはっきりと覚えている。



   「どうだ。たまには幼稚園を休むのもいいだろう。」





 中学校で英語の教員をしていた時、ほぼ毎年、千葉市中学校英語発表会の指導、引率をさせてもらった。夏休み中、参加する生徒を部活の合間に学校に呼んで指導するのだが、9月初頭に稲毛海浜公園近くの会場で行われるその大会に行くことは、僕の楽しみでもあった。

 午前の部と午後の部の間に少しまとまった時間がある。僕はいつもその時間を大事にしていた。引率した生徒たちと近くの砂浜にエスケープするのだ。普段なら教室で他のクラスメートたちと勉強している時間、そんな時に見る海は格別にきれいだ。

 学校という枠組みから一歩出るだけで、景色は全く違って見える。ただの道路もいつもと同じように見えないし、体に入ってくる空気でさえ、どこかいつもと違う味がする。

 目の前に広がる砂浜、そして海。工業地帯に囲まれている海でさえ、どでかく見え、ゴミが点在する砂浜でさえ美しく見える。恥ずかしがりながらも、波打ち際まで走ってみたり、大声(本人いわく。実際はそうでもないが…)で海に向かって叫ぶ中学生の姿を見るのが大好きだった。







 学級に「T」といういわゆる「問題児」を抱えていた時にも同じような経験をしたことがある。実質、両親とも不在の状態で4人の兄弟だけで暮らすTは、学校に来たがらなかった。いつものように自分の空き時間に彼を家まで迎えに行った時のこと。



   「朝飯食ったか。」

   「いや。」

   「学校行く前に食ってけよ。」

   「食うもん何もねーし。」

   「そうか。…じゃあ吉野家でも行って朝飯食うか?」

   「え…?」


 驚いたことに、Tは席に着くと何も言わずに僕の箸とナプキンを取ってくれた。それに、店を出る前には頭を下げて「ごちそうさまでした」と言ったのだ。

 朝10:00、中学生などいるわけもない駅前の松屋で、二人で並んでかき込んだ牛丼はめちゃくちゃうまかった。


11/16/2009

2011年4月17日日曜日

ニューオーリンズからの祈り ~ 今しかできない教えと学び 2~

 

 ニューオーリンズから帰って来て、ちょうど今日で一週間が経った。学会に参加するための一週間ほどの小旅行だったが、とても刺激的な時間を過ごしてきた。学会発表の他に、1000のメッセージのチラシを配ったり、スケッチブックにメッセージを書いてもらったり、ローカルの教員組合の会合に参加して、2005年のハリケーン・カトリーナによる被害に便乗して進められた公教育の民営化及び教員の集団解雇の悲惨な実情を聴いたり…。また、希望者のために、ハリケーン・カトリーナの爪跡が未だに残る廃墟化した町並みや復興の最前線を周るバスツアーも企画されており、自分にできることのヒントを求めて僕も参加してきた。


 ハリケーン・カトリーナによって、市内の80%が水没するという未曽有の被害を受けたその地で、強く感じたこと…。それはニューオーリンズの人々が、日本の苦しみを心の底から分かち合っているということだ。


 旅行3日目の朝、印象的な出来事があった。同じく学会に参加していたかおるさん、シンガポールから来たシュリーンとフレンチ・クウォーターを歩いていた時のこと。反対側の歩道で、70代くらいのシスターが立っているのが見えた。車が通るのを待って道路を渡ろうとしているのだろうか。僕らが道路を横断して、彼女の横を通り過ぎようとすると、ふと彼女が話しかけてきた。
 
    あなたたちは日本から来たのですか?


 不意を突かれ、一瞬言葉が出なかったが、慌てて、「そうです」と答えた。シンガポール出身のシュリーンのことを忘れて…。すると彼女は、


   “At our church, we are praying for your country every day.”


   「私たちの教会では、毎日あなたの国のために祈りを差し上げています。」


と、背後にある教会を指差して教えてくれた。ただそれだけを伝えるために僕たちのことを待っていてくれたんだ…。そう思うと、妙に心動かされるものがあった。


 あまりにも短かった会話の余韻に浸りながら、僕らはまた歩き始めた。ふと振り返ると、元気に走ってきた子どもたちを教会に入れてあげているシスターの後姿が見えた。

2011年4月12日火曜日

いつか東北で ~ 今しかできない教えと学び 1~

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナ。




 被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。



 そのような未曾有の被害を受け、未だに復興の途中にあるニューオーリンズを、一か月前にカトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本出身の自分が訪れることに、何か運命的なものを感じていた。



 カトリーナから約5年半後の2011年4月初旬、American Educational Research Association (AERA) による年一度の学会が開かれた。参加者は少なくとも13,000人。研究者、教員、大学院生等、世界中の教育関係者がニューオーリンズに集まった。ダウンタウンの各有名ホテルの会議場では一日中様々な会議が行われ、客室はどこも満室となり、フランス領だった時代の面影を300年以上もの間大切に守ってきたFrench Quarter(フレンチ・クウォーター)のレストランやギフトショップも、AERAのトートバッグを持った人々で賑わった。



 経済効果はいったいどれくらいになるのだろうか。意図的にニューオーリンズを選んだかどうかはわからない。でも、こんな形の災害支援もあるのかと非常に感銘を受けた。訪れた多くの店では、学会のために来たことを伝えると、“Thank you so much for coming!!” (来てくれてどうもありがとう!)などと歓迎され、普通の客と店員以上の絆を感じた。



 「同じようなことを東北でやりたい」と、ふと思った。未だに不安定な原発の恐れはある。だが、時期を見計らってこのような大きなイベントを東北でできないものだろうか?



 また、わくわくしてきた。