今日、一つ授業をさぼってしまった。統計学の授業だ。
担当の教授がモゴモゴ、しかも早口でしゃべる人で、正直僕にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。まるで教授の中にもう一人の存在がいるかのように、生徒たちにというよりも自分自身と会話している(映画『ロード・オブ・ザ・リングズ』に出てくるゴラムのようだ)。そんな彼のトークが僕にとっては面白く感じられて仕方がないのだが、授業の内容はちんぷんかんぷんになりつつあった。いろいろ考えたあげく、今日は授業に行かずにインターネットにアップされる彼の講義ノートをじっくり図書館で読み返すことにした(はっきり言ってそうした方が良く理解できる)。
授業が始まる30分前まで授業に行こうか迷っていた僕は、同じ授業を取っている友達に電話をし、ノートを取ってくれるように頼んだ。
ランチを買いに外に出た。空が急に広くなったように感じられた。11月中旬にしてはとても暖かく、とても気持ちのいい天気だ。心の中に新鮮な空気がいっきに入って、知らぬ間に僕の胸を縛っていたロープを解いてくれた気がした。
自然と僕の足取りもゆっくりとなり、何か得した気分だ。大きくなった空を見上げながら、尾崎豊が校舎の影芝生の上で見上げた空もこんなんだったのかなぁと思いを馳せた。
教室の窓から見える空と同じ空には到底思えない。
ゆっくり歩いていると、いろいろな記憶が蘇ってきた。
風邪をひき、初めて幼稚園を休んだ土曜の朝。僕の中に残っている、父親との最初の記憶の一つだ。家に父親がいるのをとても不思議に感じた。幼稚園でコマまわしが流行っていること、まだ僕がまわせなかったことを母親から聞き、父親が教えてくれることになった。
僕が何回やってもまわせなかったコマを、いとも簡単にまわした父親を、僕は尊敬の眼差しで見上げたものだ。そして特訓した結果、昼ご飯前には僕もまわせるようになったのだ。
その時父親が言った言葉、そして見せた優しい表情を今でもはっきりと覚えている。
「どうだ。たまには幼稚園を休むのもいいだろう。」
中学校で英語の教員をしていた時、ほぼ毎年、千葉市中学校英語発表会の指導、引率をさせてもらった。夏休み中、参加する生徒を部活の合間に学校に呼んで指導するのだが、9月初頭に稲毛海浜公園近くの会場で行われるその大会に行くことは、僕の楽しみでもあった。
午前の部と午後の部の間に少しまとまった時間がある。僕はいつもその時間を大事にしていた。引率した生徒たちと近くの砂浜にエスケープするのだ。普段なら教室で他のクラスメートたちと勉強している時間、そんな時に見る海は格別にきれいだ。
学校という枠組みから一歩出るだけで、景色は全く違って見える。ただの道路もいつもと同じように見えないし、体に入ってくる空気でさえ、どこかいつもと違う味がする。
目の前に広がる砂浜、そして海。工業地帯に囲まれている海でさえ、どでかく見え、ゴミが点在する砂浜でさえ美しく見える。恥ずかしがりながらも、波打ち際まで走ってみたり、大声(本人いわく。実際はそうでもないが…)で海に向かって叫ぶ中学生の姿を見るのが大好きだった。
学級に「T」といういわゆる「問題児」を抱えていた時にも同じような経験をしたことがある。実質、両親とも不在の状態で4人の兄弟だけで暮らすTは、学校に来たがらなかった。いつものように自分の空き時間に彼を家まで迎えに行った時のこと。
「朝飯食ったか。」
「いや。」
「学校行く前に食ってけよ。」
「食うもん何もねーし。」
「そうか。…じゃあ吉野家でも行って朝飯食うか?」
「え…?」
驚いたことに、Tは席に着くと何も言わずに僕の箸とナプキンを取ってくれた。それに、店を出る前には頭を下げて「ごちそうさまでした」と言ったのだ。
朝10:00、中学生などいるわけもない駅前の松屋で、二人で並んでかき込んだ牛丼はめちゃくちゃうまかった。
11/16/2009
笑。ありがとうございますだいゆうさん。授業にまったく参加できていない自分にとって、とにかく教室に顔をだすことだけが命綱だとおもっていて、深く反省していたんです。「学校でうまくやる」ってことにとても苦手意識があって。でも元気でました。
返信削除うしろのポストをよんで、はじめて小学校の時授業をさぼったら、すべてだと思っていた学校の時間と別の時間が世の中には流れていることを知って、ある意味で世界が広がったのを思い出しました。
どうもありがとうございます。もうちょっとがんばります。
がんばれ~!たいしたことじゃないさ~!!
返信削除何を大切に思って過ごすか、自分や目の前にいる人にとって今すべきことは?と考えたら色々な縛りや恐れが消えていくような気がしました。
返信削除「私を束ねないで」という詩の学習中「束ねられている物はどんなもの?」と言う質問に対してYくんは「あって困らないけれど、なくても困らない物」と答えたそうです。人は決して束ねてはならない。大切に思ったら束ねるわけがないと思いました。時間の使い方も色々あって皆が良しとすることだけが正解ではない。そうでないことが山ほどある。大学時代の教授が授業に出ている学生に「今、この授業に出ていない人が別の場所でものすごくたくさんのことを学んでいるかもしれないんだよ。」と言っていたことを思い出しました。
「私を束ねないで」― 久しぶりにネットで探して読むと、急に四角い教室に並べられた木の机や黒板が懐かしく感じられました。美しい詩ですよね。ぼくら大人の生活がいかに不自然に束ねられているか、区切られているか…。それらの仕切りを全て取っ払った時空で一人の子どもを見つめること、それが親を含め、教育者に求められることなのかな、と思います。
返信削除『人生という長いスパンで』で書いたことを思い出しました。学校に来辛くなってしまった子どもの話をさんざん聴いたあげく、小関先生が放った一言。
「80年と言われている人生のたった一年だ。なんてことはない。」