2012年4月8日日曜日

再開の時 ~Time to begin again~

2009年、8月に始めてから、今までこんなにブログから遠ざかったことは一度もなかった。最後に更新したのが昨年1217日、あれから4ヶ月が経とうとしている。別に病気だったわけではない。あまりにも忙しすぎて気持ちがブログに向かなかったと言った方が正しい。



最近になり、自分より若い世代からあいついで熱いメッセージをもらった。それらがブログ再開のきっかけを僕にくれた。



一人は、NHK 『白熱教室』 に出ている僕の姿を見たという僕の中学校教員時代の生徒。「教室の一番前で熱心に講義に参加する先生に久しぶりに心を動かされました。そして、無性に先生に今の自分の話をきいてほしくなり、勝手ながらまたご連絡させていただきました」 と書いてくれた。そして、大学で毎日本当に充実した日々を送っているという彼は、メッセージの最後にこう書いている。



「高校でもまれて、大学でたくさんいろんなことを感じて、こうして成長できているのも中学の頃のバカな自分がいたからで、小関先生から言われた 「大裕ががっかりしてたよ」 があったからかなーとも思います・・・()



もう一人は、 「教師を目指し、子育てをしながら勉強している」 という小関先生の元教え子。当時は、「根性もなければ、意志も弱く、いつも泣いてばかりいる生徒」 だったという彼女。そんな彼女にとって、このブログで読む小関先生の姿は衝撃的だったそうだ。



「中学生の私には見えていなかった小関先生の教師としての姿を見たような気がした。」



大人になった彼女は、最後に力強い決意を綴っている。



「私は、小関先生に信念を持って目標に向かって努力すること、それは周りに支えられて初めてできることを学びました。その生き方を、小関先生が背中で教えてくださったように、私も私の一生懸命生きる背中で将来子どもに示せる教師になりたいと思っています。」



教師という仕事の面白さは、自分の努力の成果がいつになって表れるかわからないところだ。この生徒から、教師になりたいと思うと相談された小関先生は、「今になってかえってきた」 と、心から喜んでおられた。僕自身、先に紹介した生徒からメールがあった時は、嬉しくてすぐに小関先生にメールを打った。



「へたくそでも一生懸命やっていればいつか必ず返ってくる。」 小関先生の言葉通りです。



小関先生は、彼の生徒との係わりを通して、僕にこう教えてくれる。



先生というのは 巣立っていった生徒たちが 
いつでも帰れる心の家。



新たな道へ進もうとしている二人に、そして、どこでこれを読んでいるかもしれない教え子たちに、心からエールを送りたい。頑張れ。







思い返せば、このブログは小関先生の学びを振り返る場であるとともに、自分の中学校教員時代の生徒たちに対して、決して満足のいくことのなかった自分の教えを継続する唯一の場所でもあった。『白熱教室』 に出たのも、日本人留学生は外人に負けてなんかいないということを行動で見せるため、そして願わくば元教え子たちに自分がアメリカで頑張っている姿を見せたいという想いからだった。こちらでの僕の激しい日々を全て言葉として記録することには限界があるが、また少しずつ分かち合っていきたいと思う。



さて、今更という感じはするが、おかげさまで2011年も 「人生最良の年」 を更新することができた。「激動の年」 と呼ぶにふさわしい一年だった。



2010年の年末にチュニジアで端を発した 「アラブの春」 は瞬く間に近隣諸国に飛び火し、自らの命を顧みずに自由を求めるアラブの民の姿は、世界中に衝撃と勇気、そして革命の機運をもたらした。






アメリカで最初に立ち上がったのはウィスコンシン州の人々だった。2010年のアメリカ中間選挙で就任したばかりの新知事の過激な労働組合解体法案に対し、実に10万人以上の人々が州議事堂に詰め寄せ、デモ運動を繰り広げた。その光景に心動かされた僕自身、もう一つのブログ、 『アメリカ教育最前線』 を通してその模様を日本に必死に伝えた。労働組合が解体すれば、政治において年々力を増しているコーポレートマネーに対抗できる力が失われるの必然、そしてこれは日本にとって決して関係のない話ではないと感じたからだ。



そしてそんな最中に起きたのが東日本大震災だった。ウィスコンシンの人々の多くは、問題の労働組合解体法案が明るみに出たとき、「これこそが我々の瞬間」 と口々に言い、エジプトの人々に彼ら自身も立ち上がったというメッセージを伝えている。だから、3.11のニュースを聞いた時、「今度は自分の番だ」 と僕が感じたのは決して不思議なことではなかった。それから一年、実に様々なプロジェクトにかかわってきた。『世界から日本へ1000のメッセージ』



コロンビア大学での様々な募金活動

日経新聞 3月27日





その中でも、震災直後からかかわってきた取り組みの一つにConsortiumfor Japan Relief (CJR) というものがある。最初は、単にコロンビア大学における様々な復興支援活動に取り組んでいる各団体のリーダーたちが集まって状況報告をする場所だった。それが時の経過とともに、一つの組織となっていった。様々なスクールの学生と教授らが分野や年齢の枠を超えて共に活動する、実にダイナミックな組織だ。



CJRの活動はまだまだ終わってはいない。昨年10月、震災から半年後を機に、政治、経済、災害対策、放射能、メンタルヘルスの5分野から多角的に東日本大震災を検証したシンポジウムに続き、つい今週、4月の4日には震災から一年を期して、東北や9.11後のニューヨークで活躍するの専門家を呼び、メンタルヘルスにフォーカスを置いたシンポジウム(ニュース報道映像)を行った。それと同時に、日本だけでなくタイ、ハイチ、インドネシアを中心とした、近年大災害に見舞われた国の学生を集め、UnitedStudents for Disaster Relief/Recovery という復興支援サイトを立ち上げた。自分たちが展開した復興支援活動を通してそれぞれが得た知識と経験を形として残そうじゃないかという呼びかけから始まった。まずは各国の学生たちがそれぞれの活動を振り返り、そのクロス分析から得られるレッスンと、次に大規模な自然災害が起きた時にすぐにでも使えるノウハウを提起した復興支援専門のウィキだ。



僕らは、このサイトを 「会話の始まり」 だと考えている。今回は、44日のシンポジウムにおけるプレゼンに合わせ、コロンビア大学内での義援金収集活動に焦点を絞ったが、今後、復興支援活動のその他の側面、そして他大学、他団体による活動にまで輪を広げていけたらと願っている。誰でもメンバーシップを申請できるので、一人でも多くの人に会話に参加して頂けたら幸いだ。このような形で、自然災害にまつわる活動のリーダーシップを取っていくのは、災害大国日本に与えられた使命なのではないだろうか。



今回のイベントを行うにあたり、僕はCJRの初代代表という大役を任せて頂いた。メンバー全員が学生や教授という立場から、このイベントは皆が各々の自由な意志に基づき、空き時間を無理やり作って初めて成し遂げられたイベントだった。多くの時間とエネルギーが費やされた。その甲斐あって、当日は日本総領事館の廣木大使を始めとする150名程が会場に訪れ、終了後には多くのポジティブなフィードバックを頂いた。CJRは、あの大震災に何か意味を見出そうとした人々が集まってできた組織だ。きっと、亡くなった方々や今も苦しむ被災者に想いを寄せ、こうして会話を続けていくことに最大の意味があるのではないかと思う。



今回のイベントは、僕に人と人との繋がりの大切さと喜びを再確認させてくれるものだった。実に多くの人が手を貸してくれた。中でも、ウィキの作成に当たり、同じTeachers Collegeの佐伯さんとSIPAの兼松さんが、授業や課題で詰まった過密スケジュールの合間を縫って力を貸してくれた。何度もミーティングを繰り返し、議論を重ねた。何よりもお二人の友情に感謝したい。



傍から見れば、このような活動は大学院生である僕にとって 「余計」 なことなのだろう。でも、もし大学院生の仕事が 「学び」 であれば、余計なことは一つもない。



実は、これら日本の復興支援活動とは別に、更に大きなプロジェクトに現在取り組んでいる。間違いなく、これまでで人生最大のプロジェクトだ。実際、どこから話し始めたら良いのかわからずに今まで書けずにきた部分が大きい。来週火曜日から一週間カナダに学会に行く。その前に少しでも書き始めればと思う。

1 件のコメント:

  1. 大裕先生!Kajiです!
    ご報告です!
    3月に国家試験受けて無事に合格して4月から看護師として働きはじめました。(まだ研修ですが)

    去年の夏に色々迷ってたときに看護師さんの記事紹介してもらって、読ませてもらってまた頑張ろうと思えました。

    相談にのっていただきありがとうございました!
    その方にもありがとうございましたとお伝えください!!

    Twitterにメッセージ送ろうとおもったんですけど送れなかったのでここに書かせてもらいました。

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