2016年10月26日水曜日

「好きなことを見つけなさい。そして、好きなことをやりなさい。」



一昨日はとても特別な一日だった。

僕が大変お世話になった故大場正幸さんのお葬式で初めてお会いした、大場さんのご長男の大西香次郎さん。大場さんから話には伺っていたが、表参道のPENDULEKOJIRO ONISHIを経営されるすごい空間設計アーティストだった。アーティストの直感だろうか、ご挨拶してすぐに、「是非紹介したい人がいる」といって紹介されたのが精密板金職人の菅野敬一さんだった。元々職人文化に興味があり、職人の知恵を自分の教育論の一つの道しるべとして来たこともあり、僕は様々なことをお訊きし、短い時間だったが非常に有意義な会話に恵まれた。そして、大西さんが「親方」と慕うその菅野さんの工場を、一昨日二人で訪ねたのだ。一緒に写真に写ってる女性は、後から合流した高綱草子さん。ライターとしてHIGHFLYERSに菅野さんの記事を連載している。彼女の記事からも言葉を借りながら、ちょっと菅野敬一さんをご紹介したい。

http://www.highflyers.nu/hf/keiichisugano1/#startcontents

「なんてシワの似合う人だろう。」それが僕の第一印象だった。

菅野さんのライフストーリーは聞けば聞くほど面白く、それが一本一本のシワとなって刻み込まれているようだ。お爺さんの代から三代続き、飛行機の精密部品等を作っていた工場は、バブルの崩壊と共に自分の代で倒産。大事な工場も家も貯金も全て失い、死を考えた果てにたどり着いたのは、「死ぬのは自分の欲しいものを作ってからにしよう」、「お客さんに頼まれたものじゃなくて自分のために自分のものを作ってみよう」という、下請けから創造への進化を遂げた全く新しい境地だった。

その後、飛行機用の精密板金技術を生かし、自分のために一年かけて作った鞄は口コミで評判を呼び、「エアロコンセプト」としてブランド化。外国からも注文が入るようになり、今では、ロバート・デニーロジョージ・クルーニーラッセル・クロウなどに代表される海外のセレブも彼の作品を愛用し、車のポルシェ社やカメラのライカ社ともコラボしているというのだから半端じゃない。

ビジネスの人はしょっちゅう来るけど教育関係の人間が会いに来るとは珍しいと、菅野さんは僕を歓迎してくれた。話題は実に多岐に渡るものだったが、その中でも特に僕の心に響いたことを紹介したい。

-       本当にいいものをつくったら、人は必ず欲しがる。だから大事なのは、ただひたすら最高のものをつくることだけに没頭すること。
-       自分で宣伝するのは粋じゃない。本当にいいものってのは口コミで広がっていく。どんな大々的な宣伝よりも、口コミがいい。 
-       宣伝しないから自分がやりたいことだけをやり続けられるし、どんなでかい話が来ても、やりたくない仕事は断る。
-       目立たないように一流のものを作り、それに気づかなかった周りの人たちが後になって恥ずかしくなるくらいがちょうどいい。

このような心意気あってこそのエアロコンセプトなのだ。
僕が新天地に旅立とうとしている今このタイミングで菅野さんに出会えたことを、本当にありがたいと思う。「グローバルスタンダードに合わせるのではなく、それに対抗し得る新しい価値観を教育を通して日本から発信する!」というのが僕の持論だが、菅野さんの言葉は、自分が世界に伝えたいのは日本のモノや技術、そして人でもなく、それらを通して滲み出る日本の心なのだということに気づかせてくれた。

僕の船出にと、エアロコンセプトの名刺入れをプレゼントして下さった菅野さん。それにふさわしい名刺を入れられるよう、自分自身を磨かなければと心引き締まる想いだ。


http://www.seimitu.com/main/products/emijah_summertime.html


人生に迷っている人がいたらなんて声をかけるか、という質問に彼はこう答えている。

「好きなことを見つけなさい。そして、好きなことをやりなさい。」

そんな教育ができないだろうか。
子どもたちが好きなことを見つけ、それにひたすらな心で取り組める。教師は彼らの心に寄り添い、一人一人の個性を見極め、伸ばし、一生を懸けてやりたいものを見つける手伝いと、それを遂行し得る力を引き出す。

僕が土佐町でやりたい教育とは、まさにこのようなことだ。菅野さんの考えは、僕の好きな西岡常一氏の、木も人間も、命あるものの「癖」とはそのものの生命力であり、大事なのはそれを生かし、組み合わせることで唯一無二のものを創造するのだという考えや、大村はまさんの、「優劣を忘れて、ひたすらな心で、ひたすらに励む」という教育観と深く通ずるものがある。

夕焼けをこよなく愛する菅野さん。

土佐町で最高の夕焼けスポットを用意してお待ちしています!

2016年9月27日火曜日

【シカゴで再び教員組合ストライキの可能性】

96 Percent of Chicago Teachers Vote to Strike, Union Says

2012年、教員一斉ストで全米を驚かしたシカゴ教組。
志高い教師らによる組合改革で「互助会型」から「社会運動型」組合へと生まれ変わったシカゴ教組が、再びストに踏み切る可能性が高まった。

先日の集会には全組合員の90.6%が参加、そのうちの95.6%がストを承認した。今後の団体交渉の行方次第では、早ければ10月11日にもストが決行。そうなれば2012年以来初のストとなる。


シカゴ教組は、教員の解雇等による緊縮政策で新たな予算を確保するのではなく、新たな財源を求めることを市に求めてきた。また、80年代からシカゴ学校区が負担してきた教員の年金の7%を自己負担にするという市の方針に反対してきた。


組合がうまく機能すると、こうやって行政の横暴に対して民主的チェックを入れることができるんだよな。富裕層からしっかりと税金を取って、大企業への寛大すぎる税控除を廃止すれば、教育のための予算なんていくらでも確保できるんだから。経済格差がどんどん広がるのは、民主主義が機能していない証拠。


行政が市民の「自己責任」を徹底追及するのはよくわかる。だってそうすればするほど、行政の責任が覆い隠されるのだから。


(シカゴ教員組合ストライキについて詳しく知りたい方は、『崩壊するアメリカの公教育 〜日本への警告〜』第8章をご参照のこと。)

2016年9月21日水曜日

それでいいんです



16歳で留学して感じたことの一つ。

アメリカのエリートたちは、「まんべんなくできる子」を育てようなんて

ハナから思っちゃいない。

一つできればいい。


そこをとことん伸ばしてあげたい。


そんなメッセージが伝わってきた。


「もっと勉強も」というこの担任の先生にとって、


さかなクンの探求は勉強のうちに入ってなかったんだな。

2016年7月15日金曜日

生命は

       

        生命(いのち)は
        自分自身だけでは完結できないように
        つくられているらしい
        花も
        めしべとおしべが揃っているだけでは
        不充分で
        虫や風が訪れて
        めしべとおしべを仲立ちする
        生命は
        その中に欠如を抱
        それを他者から満たしてもらうのだ

        世界は多分
        他者の総和
        しかし
        互いに
        欠如を満たすなどとは
        知りもせず
        知らされもせず
        ばらまかれている者同士
        無関心でいられる間柄
        ときに
        うとましく思うことさえも許されている間柄
        そのように
        世界がゆるやかに構成されているのは
        なぜ?

        花が咲いている
        すぐ近くまで
        虻(あぶ)の姿をした他者が
        光をまとって飛んできている

        私も あるとき
        誰かのための虻だったろう

        あなたも あるとき
        私のための風だったかもしれない


        吉野弘 『風が吹くと』(1977年)より 

2016年7月8日金曜日

ある校長先生のお話。




家で古本を処理していたら、手をつけていなかった本を一冊読んでしまった。以下はその中の一節。


 ある高校で夏休みに水泳大会が開かれた。
 種目にクラス対抗リレーがあり、各クラスから選ばれた代表が出場した。その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。からかい半分で選ばれたのである。
 だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、野次った。
 その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。校長先生である。
 校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。
 その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。

藤尾秀昭 『小さな人生論』より


ある時、「学校は人を育てる所だから」という恩師の一言にハッとしたことがある。今では校長には教育者としての資質よりも、経営者としての手腕が求められる時代になってしまった。そんなんで人が育つわけがない。教育者が相手にするのは生身の子どもであって、商品ではない。売るのではなく、育てるのだ。もちろん、教育にたずさわる者が一流の経営者から学べることはたくさんある。ただ、それは彼らの多くが人を育てる一流の教育者でもあるというだけで、経営ノウハウを学ぶわけではない。
 先述のエピソードのように、校長には学校の教育活動をリードする教育者であって欲しい。校長が自らプールに飛び込んだことで、きっと多くの人が恥ずかしい想いをしたはずだ。からかい半分でA子さんを推薦した生徒。それに賛同したクラスメイトたち。生徒間のそのような人間関係を許してしまった担任の先生。一生懸命泳ぐA子さんに対して生徒たちが野次を飛ばせるような雰囲気を許してしまった他の先生たち…。A子さんはどのような想いでその推薦を受け入れ、どのような覚悟で、その水泳大会当日に臨んだのだろう。もし私がその場にいたら、その校長と一緒に飛び込めていただろうか。


「頑張れ」「頑張れ」


その校長先生の声が聞こえてくるようだ。

2016年3月22日火曜日

『小学教諭、29回テスト未実施』…だからどうした?

先日、こんなニュースがあった。


記事によれば、

「静岡県清水町教育委員会は18日夜、町立小学校の6年生の担任の男性教諭(30)が年間に決められた69回のテストのうち、29回を実施せずに成績を付けていたと発表した」とのこと。

発覚のきっかけは、テストをやっていないページがあることを子どもから聞いた保護者からの問い合わせだったそうだ。

採用3年目のこの男性教諭は初担任。学校側には、「他のクラスに遅れないよう授業に力を入れてテストをする時間がなかった」と説明したとのこと。

テスト29回未実施…。

「だからどうした?」

というのが、このニュースを見た私の第一印象。私にしてみれば、こんなことがニュースになること自体がニュースだった。

いろいろな問いが頭に浮かんだ。

どうして校長は、授業に力を入れようとしたその担任を守ってあげられなかったのだろう?

どうして教育委員会はわざわざそんなことを大々的に発表しなくてはならなかったのだろう?

「なぜ未実施のテストがあるんだ!」という苦情のポイントもズレていると感じるのは私だけだろうか。

私なら、「貴重な授業時間を削って69回もテストするな!」

「いったいテストにどれだけの金を使ってんだ!」

「学校は塾ではない!」

と言うところだろう。

また、テストを決められた回数実施したかどうかなどという、形だけのくだらないポイントで教師らが評価されるのなら、教育の中身はもはや関係なくなってしまう。教員はテストの回数だけこなすようになるだろう。

「いや、そうではない。回数だけじゃなくてテストを頻繁にすることで生徒の学力の成長や教師の指導力をモニターしているのだ」という反論もあるかもしれない。

でも、もし私がそんな環境で教えているとするならば、私はもはやテスト対策しかしなくなるだろう。私自身、中学校の英語教諭になる前に留学予備校でさんざんTOEFLやらTOEICやらを教えていたので、テストの攻略テクニックを教えるのは得意だ。

しかし、それでは何のためのテストなのかわからなくなってしまう。テストは、現時点での生徒の理解度を確認し、より充実した学びのためにそれを授業に反映させるものであるはずで、テストありきの授業や、テストが多すぎて授業時間が十分取れなかったら、それは本末転倒と言わざるを得ない。

それは、このニュースを読んで私が意見交換した一人の女性教諭の言葉にも顕著に表れている。

「実際うちの学校では、(成績通知表の)評価は、定期テストの点数と比例していないと校長に差し戻されました。非常に違和感と危機感を感じた1年でした。」

また、もし教員が生徒のテストの点数だけで評価されるのなら、生徒指導もやらないし、部活指導もやらないし、学校行事や委員会活動なども最低限のエネルギーでやるという教員が増えてもおかしくないだろう。 もし、全ての教員がそのようなサラリーマンメンタリティになってしまったら、それはもはや学校と呼べるのだろうか? 塾と何の違いがあるのだろうか。

残念ながら、実際に日本の教育政策もアメリカ同様、公立学校の「塾」化という方向に進んでいる。教員研修の塾への委託と公教育の民営化部活動切り捨ての危機ゼロトレランス導入による生徒指導の事務処理化などについては他でも書いた通りだ。

しかし、教員の不祥事がある度に国民が驚きを隠せないのは、我々が彼らに教育者としての自覚を持ち続けて欲しいという願いを持っている証拠ではないだろうか。だとしたら、教師のサラリーマン化や学校の「塾」化を助長させるような教育政策の数々に対して、私たち国民が「待った!」の声をかけなければいけないはず。しかし、今回の事件は、私たちがその役割を果たせているかどうかを問うているように思う。

税金を通して、あるいは直接学校にテスト代を払っているのだから、購入したテストを実施しないともったいないという親の気持ちもわからないでもない。だが、そんな親の消費者メンタリティが教職をサービス業に成り下げるように思う。

教員が保護者の言いなりの環境で、はたして教育は成り立つのだろうか。