2009年9月17日木曜日

トラウマ

昨日、トラウマになりそうな出来事が起きた。思い出すのも辛いが、何とか意味を見出さなくてはと思う。

コロンビアのLaw Schoolで受けている教育と法の授業中の事だった。突然教授が僕の名前を呼んだ。

 「この段落はいったい何を言っているのかね?」
 「え…?」

予想しない出来事に、気が動転した。

「君が今日のディスカッションリーダーをやってくれると前回言っていたから。」

どこだどこだと慌ててその箇所を探し、なんとか一言二言で曖昧な答えを返した。
答えた後も、今起こった出来事が頭を駆け巡り、異常に速い鼓動を感じていた。
確かに最初の授業で、ディスカッションリーダーをやることを自分で志願した。法学部の生徒たちに囲まれる中、ためらいも感じたがやりたい人が他にいなかったし、早い段階で教授に名前を覚えてもらうことは大事なことだと思った。だからこそ、今回の授業のために皆で議論するための質問を長時間かけて考えてきてあったのだ。きっと良いディスカッションができるという自信もあった。それがあんな風に質問されるなんて…。

その時だった。

「Daiyu、この文はどういう意味かね?」

もう完全にパニックである。

正しい答えを探そうとすればするほど焦りばかりが先走り、同じ活字の上を眼が行ったり来たり。まともに考えられるような状態ではなかった。

今までこれほど沈黙をうるさく感じたことはあっただろうか。講堂の最前席に座っていた僕は、40人近くの視線に背中を撃ち抜かれるかのような錯覚さえ覚えた。

同情した教授が、これはとても曖昧な文章だと言ったり、ヒントをくれようとしたりしたが、それが僕の惨めな気持ちに拍車をかけた。

完全な誤解だった。Law Schoolでは、ディスカッションリーダーとは、最初の質問を投げかける生徒のことを指すのではなく、教授の質問に答える生徒のことを指すらしい。この文は何を意味しているのか、このケースではどのような事柄が最終判決を左右したのか…。そのような教授との一対一のやり取り(Socratic dialogueと言われるらしい)をきっかけにして、他の生徒たちも次第に議論に参加していく。法学部では、勉強する内容も違えば、授業のスタイルも教育学部とは全く違うのだ。

今思うと、自分はなんて器が小さかったのだろうかと情けなくなる。分からないなら分からないなりに、自分が理解に苦しむ箇所を指摘すれば良かったわけだし、答えられないなら代わりにジョークの一つでも言えば良かった。結局周りに気を遣わせてしまうという最悪の結果となってしまった。

こうなってしまうと、レベルの低い不安が頭をよぎり始める。
自分は授業貢献度のポイントが1点ももらえなかったのだろうか。
今後どうやったらポイントを稼げるだろうか。
教授は自分のことを二度と指してくれないのではないだろうか。
クラスメート達は自分のことを軽蔑しているだろか。
それともかわいそうとおもっているのだろうか。
どうやったら自分の名誉を挽回できるだろうか…。
こんなことを考えていると、次に教室に入るのさえ恐ろしくなってくる。

さあ、この体験をどう生かすか。
まさかこの年齢にもなって、こんな中学生のような体験ができるとは思ってもいなかった。ある意味、非常に貴重だと思う。

自分が中学生に教えていた頃が思い出される。彼らはどういう気持ちで僕の英語の授業を受けていたのだろう。英語の授業があることが苦痛に思っていた生徒はいなかっただろうか。僕にいつ指名されるのかとビクビクしていた生徒はいなかっただろうか。成績ばかりに目を向けさせられ、テストで点を取ることだけに喜びを覚えるようになってしまった生徒はいなかっただろうか。

今回、改めて教員が生徒であり続けることの大切さを感じた。それは目の前の生徒たちから学び続けるというだけでなく、学校、教室、成績と無機質な枠にはめられた教育を体験し続けることも意味している。いろいろな意味で非常に不自然なこの学びの環境において、学ぶことについて学ぶだけでなく、生徒たちの気持ちを知ることも教員に求められている。生徒たちはどのように怯え、何に喜びを見つけるのか。

話を自分に戻そう。さんざん不安に浸かったあげく、教育と法の交差点における可能性を探るという最初の目的が、良い成績をとらなくては、というあまりにもちんけな目的にすり替わってしまっていることに気がついた。原点に戻ろうと思った。

学びたい。それでいいじゃないか。

良い経験をさせてもらった。
「失うものは何もない」 - そう言い切った自分の真価が問われている。
さあ、勝負はこれから!!

3 件のコメント:

  1. Daiyuさん

    ロースクールって本当に独特ですからね。
    いや、でもご心配なく。
    私も何度も、授業中80人くらいに背中を打ち抜かれ、射殺されています(笑)。

    私が、アメリカのロースクール(他の学部もそうかもしれませんが)が日本の学校の雰囲気と大きく違うなと感じた点は、加点式というか、second chanceがあるというか、失敗(今回のDaiyuさんはこれにすら当たらないと思いますが)にはとても寛容なことです。

    私もあるゼミの最初で大きな失敗をして、本当に落ち込みました。『これは卒業できないのではないか?』と本気で思いました(ロースクールの卒業要件はGPA基準なので、一つ大きく悪い成績をとってしまうと卒業ができなくなる場合があったりするのです)。

    けれどもその後何とかリカバリーする機会をもらえましたし、実際、その教授は最初の大失敗(Daiyuさんどころではないレベルの大失敗です。お恥ずかしながら)は殆ど気にしていなかったようです(むしろそれで自信を喪失して、その後の授業のParticipationが著しく乏しくなる学生がいるようで、そちらの方を気にしていました)。

    と、まあ、ダラダラと書きましたが、おかげで私も気が引き締まりました。私も頑張ります!!

    Masa

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  2. 励ましの言葉ありがとう。
    じゃぁ今度Masaさんにボディーガードお願いしようかなぁ。 -^o^-

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  3. いろいろな人たちが、ブログ・コメントで集っていますね。コメントを読みながら、とても刺激されています。

    教育を勉強する人も、法律を学ぶこと大切だと思うし、
    また逆に、法律を勉強する人も、教育を学ぶことも大切だと思うんです。

    例えば、日本でも教育裁判は、たくさん起こっているけれど、裁判官の判断によって、異なる判決が下されているしね。それはまた教育に関する事柄がもつ曖昧さてことですよね。さらに、それぞれの人の”思い”もそこについてくるからね。

    日本では、政治主導の教育政策が、始まりました。
    中教審にまで手が入るようで、政治家主導によって、
    どんな法律が誕生し、今までの法律がどう改正されるのか、何がどう変わろうとしているのか、
    新しい文教委員の人選にも一抹の不安が…。
    また現場の先生や子どもが振り回されなければと…。

    今日、学校現場の課題についての研究会で、
    大阪の事例で、”白い丸いテーブル”(比喩として)がある学校は、先生たちの同僚性がとても高く、学校風土が良好だと聞きました。
    教育改革の名のもとに進められた法律改正によって、
    がんじがらめにされる職員室からは、個別、孤立化していく先生たちの苦悩が、これから先も続くのかと思うと、ますます教員になりたくないでしょうね。
    (大阪の”お祭り知事が…”とも、自治体の政治家についても揶揄されてましたが・・・)

    東京都は、今年34年(32年かも)ぶりに、
    小学校教員採用試験の二次募集をかけました。
    信じられない状況だと思いませんか。
    先生のなり手がいなくなってるなんて…。

    AKI

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