2009年9月24日木曜日

科学、デューイ、照美



 僕はJohn Dewey(ジョン・デューイ)という教育哲学者が好きだ。教育学を勉強するものは必ずどこかでこの名前に出くわすという程有名な学者で、アメリカでは教育学の代名詞のような地位にある。そのために彼に対する批判も多いし、敬遠されがちな部分もあると思う。

 僕自身、何度もデューイから離れようとしたが、新しいことを勉強すればするほど彼の哲学に戻ってくる自分がいる。実際に、日本のマイノリティーと多文化教育を扱った大学の卒業論文(Japanese Minorities and Democratic Multicultural Education, 1997)、アメリカの公教育における道徳教育の可能性をテーマにしたマスター時代の修士論文(American Liberal Democracy and Moral Education: Finding a Way Out of the Conflict between Liberals and Communitarians, 1999)の両方でデューイを取り上げている。

 確かデューイは93歳まで生きたはずだ。その長い学者人生において、出版した本は40冊、雑誌などに発表した論文は実に700本を超えると言われている。取り上げるテーマが多岐にわたっているだけでなく、それらのテーマが彼の頭の中では見事なほど有機的に結びついているところが、彼の哲学をまた難しくする。ある部分だけを解剖しようとすると、それがまた別の部分の一部であり、その構造を理解しようとするとまた別の部分が見えてくる…。だから、博士課程に入った今でも論文でデューイを引用することがあるが、その度に後悔するのだ。ああ、また蟻地獄にはまってしまった…と。

 あまり話すと自分がどれだけデューイを理解していないかがバレてしまうので簡単にしておこう。僕が何故デューイの哲学を好むのか、理由は幾つかある。その一つとして彼の哲学には常に動きがあることだ。デューイはダーウィンの進化論の影響を強く受けたと言われている。以前『自由について』でも話した彼の「自由」の定義もそうだが、「民主主義」の定義、「知識」の定義など、彼が扱う概念の多くが、完成を目指し常に変化し続ける不完全なものと捉えられているように思う。自由は我々が変われることに、民主主義は政府形態などではなくコミュニティーの構成過程に(*彼はどこかで民主主義のことを“community in the making”と捉えている)、知識はその追求過程にそれぞれの本質を見出している。

 何故こんな話をするのかと言うと、デューイが考える「科学」も、常にon the move(動いている)だからだ。彼にとっては、「科学」は完成形ではなく、変わりゆく知識そのものなのだ。それは「科学」という定義や意義さえも、常に裁きを受け続けるべきであることを意味している。だから、前回の『科学の囚人』でも書いたように、どのような研究手段が科学的でどれがそうでないか、科学的とはそもそも何を意味しているのかなどということを、一つの決まった形に閉じ込めること自体がおかしいのだ。デューイがそんな口論の場にいたら、きっと笑うのではないだろうか。そもそも、科学が本当に良いものであるかどうか、子どものためになっているのかどうかも問うべきであるし、誰が正しい、誰が間違っているとか、答えにこだわることに何の意味があるのか。こうして議論していること自体に真の意味があるのではないかね?

 1916年に出版されたDemocracy and Education(邦題:『民主主義と教育』)の中で彼はこう言っている。

"The undisciplined mind is averse to suspense and intellectual hesitation; it is prone to assertion. It likes things undisturbed, settled, and treats them as such without due warrant" (Dewey, J. 1916. Democracy and education. New York: Macmillan, p.188).

ざっと訳せばこんな感じだ。
「訓練されていない頭脳はあやふやなことや知的な迷いを嫌い、断言したがる。また、物事がかき乱されず、確定されている状態を好み、然るべき根拠もなしにそれらを正当化する。」


真実などは蜃気楼のように儚いもの。答えを出すことだけに囚われていても見つかるわけがない。なぜならば迷いの過程そのものが答えなのだから。

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