2010年5月24日月曜日

教員を評価することの難しさ 1 ~目に見えない意志の疎通~

 前回の 『人生の勝者となること』 を書いていて頭をよぎった不安がある。




 小関先生を実際に知らない読者は、彼が学校で管理職や他の先生方にスパーヒーローのように崇(あが)められ、頼られている姿を想像しているかもしれない。



 もしそうだとしたら、本当のことを伝えなくてはならない。実際はそれとは程遠い状態なのだ。









    「評価がない」



 これは小関先生の口癖の一つだ。
 部活での実績にしても、教科指導や学級指導、それに生活指導にしても、卓越した指導をまともに評価できる人間がいないのだ。



 英語では、よく教える行為を芸術に例える。卓越した教えを “art of teaching” と呼ぶのだ。これは非常に的を射ている表現だと思う。教員を含め、多くの人にとっては、何がすごいのか理解できない部分があるのではないだろうか。



 その理由として、良い教員になればなるほど何もしていないように見えるからだ。



 学級指導を例にとってみよう。僕は小関先生と共に働かせてもらった7年間のうち、3度だけ彼の学級指導を見ることができた。 (他の年は小関先生が学校全体の生徒指導主任としてクラスを持っていなかったため。) 最後の年など、はたから見れば小関先生が手を抜いているようにしか見えなかったのではないだろうか。



 例えば、小関先生は朝最初の読書時間も、一日の締めの帰りの会も途中参加のことが多い。朝一番のチャイムが鳴っても小関先生はすぐには教室に向かわない。別に何か作業があるからではなく、意図して行かないのだ。職員室の自分の机でコンピューターに向かったり、ふらっと他のクラスを見て回ったりする。それでも、自分たちが試されていることを知っている小関学級の生徒たちは、互いに声を掛け合い、自分たちで読書を始めているのだ。こんな指導を見てしまうと、急いで教室に行って生徒たちを着席させようとする教員や、 「こらっ!何でお前ら席についてないんだっ!!」 と強面(こわもて)の教員が、大声を張り上げているのが滑稽に見えてしまう。



帰りの会も、小関先生が職員室で作業をしていると、全ての連絡事項 (係の生徒が自ら調べて全体に報告する) や一日の反省が終わった時点で学級委員が呼びに来るのだ。



    「全部終わりました。先生の話、お願いします。」



 そんな学級委員の姿に僕は感動してしまった。できることは徹底的に自分たちでやらせるというのが 小関先生の方針だ。こうして小関学級の子どもたちは自治することを身に付けていく。



 全体の足並みを乱すからといって小関先生を周りに合わせるように注意するのか、何故小関先生にはこのようなことが可能なのかを他の教員に考えさせるのか、管理職の器の大きさが問われるところだ。



 保護者会の資料づくりなども、小関先生は何千ページとある資料と大型ホッチキス数台をドサッと教室に置き、 「これやっとけよ~」 と言うだけだ。後は生徒たちが勝手に考えて大量の資料をきれいに完成させてしまう。 もちろん、これはどの教員でもなせるわざではない。現に、 「これはいい!」 と真似をした新任教員のクラスではしっちゃかめっちゃかになり、結局何時間もかけて作り直しになったという笑い話がある。



 掃除なども、小関先生はただ生徒とおしゃべりしているだけにしか見えないだろう。でも掃除はきちんと終わり、小関学級にはゴミ一つない。あっても生徒たちがすぐに拾うのだ。それを見ると、生徒にわき目も振れずに一生懸命掃除している教員は何なのだろうと考えさせられる。だが、そんな教員が 「素晴らしい!」 と褒められ、小関先生が 「良い子どもたちに恵まれてラッキーね」 と皮肉を言われるのだ。多くの教員は、落ち着いている小関先生のクラスを見て、元はいわゆる 「問題児」 が集められた学級であったことすら忘れてしまう。



 これは学年指導の話にもつながる。そんな子たちが揃った悪名高い学年に小関先生が学年主任として配置されたことを、皆、時と共に忘れていくのだ。一年も経たないうちに学年全体が落ち着き、2年も経てば最初の評判は忘れられ、 「良い子たちが揃った学年」 と言われるようになる。



 反対に、もともと大した問題もない学年と思われていた学年が3年になって大爆発することもある。大抵は学年の教員が子どもに愛情を注いでこなかった場合だ。既に時遅しであるにもかかわらず、3年になってからあたふたと生徒指導に取り組むだけで、今度はその学年担当の教員たちに同情が集まったりする。そしてやっとのことで卒業させると、 「あんな大変な学年をよく卒業させた」 と褒められるのだ。



 本来であれば、目に見える指導をするのは最初の段階にやっておくべきことだ。生徒が進級するにともなって、指導もより高度な、目に見えない繊細なものになっていかなければならない。



 考えてみれば皮肉なことなのかもしれない。教員の究極的な目標は、自分がいなくても良い状況を作ることだ。先生がいないにもかかわらず、先生の存在感が感じられる。そんな状態が理想なのだと思う。



 だとしたら、現場の管理職に求められるのは、そのような理想を追い求めて管理下の教員を鼓舞し、教師と生徒の目に見えない意志の疎通と信頼を読みとる度量なのではないだろうか。

2 件のコメント:

  1. いつも興味深く読ませてもらってます。ありがとうございます。

    小関先生のような方は、九州辺りへ行けば、だまっていてもカリスマと持ち上げられるような気がします。それが良いかどうかはまた別の話ですが。。。少なくとも小関先生のやり方に理解のある親は都市部より多いのではないかなあ。ノスタルジックな幻想なのかも知れませんが。

    返信削除
  2. mikiさん、

     こちらこそ読んで下さってありがとうございます。mikiさんのおっしゃる通りだと思いますよ。特に九州は剣道のメッカですから。小関先生の師匠の奥村先生も熊本出身なので、小関先生もレスペクトしていらっしゃいます。思い起こせば、小関先生は週末、県外への遠征に行くたびに、心洗われる想いをしたと言っていらっしゃいました。

       大裕

    返信削除