2010年5月23日日曜日

人生の勝者となること

NY、5月の空。


 先生というのは常に教え子を頑張らせてくれる。

今回もそうだ。期末試験が終わり、今週は家族サービス週間として毎日、一日中家族と過ごしている。ブログの方もどこから始めようかと考えていたさなかに、一通のコメント。小関先生の新しい赴任先の教え子からだった。

ここから始めようと思う。





 その子は中学生とは思えないしっかりとした文章で、自分の葛藤をストレートに綴ってくれた。小関先生に出会い、毎日が驚きの連続であること、彼女がどんどん剣道にのめり込んでいること、そんな彼女に対して親が心配していること、それでも「勉強ができるだけの寂しい人間」にはなりたくないという彼女の想い…。



 親が心配するのも無理はない。自分の子どもが朝から晩まで、ほとんど休みもなく剣道に明け暮れていたら、あなたはどう思うだろうか。それで心配しないのはよっぽど変った親なのかもしれない。勉強ができなければ良い高校に行けないし、良い高校に行けなければその先の大学、就職にも影響するだろう。



 こう考えてみると、成功への道のりはたった一本しかないようにさえ思われる。でも、はたしてそうなのだろうか?



 振り返ってみると、自分自身が日本を飛び出したのもそんな社会の窮屈さに嫌気がさしたからだ。高一の冬、このままでは自分がつまらない人間になると僕は確信した。一生懸命勉強して入った高校で楽しい高校生活を送っていたが、心の奥底で虚無感を感じていた。その時感じていた楽しさは持続するものではなく、いつも新しい楽しさを探し求めていた。そしてある時自分の将来がくっきりと目に浮かんだのだ。このままあと2年遊び、受験の時期になったらまた死ぬほど勉強し、そこそこの大学に入り、どこかの会社に就職する…。はっきりとした将来の目的も見えず、なんてつまらない人生なのだろうと愕然とした。



 あの時の自分の決断は間違っていなかった。成功への道のりは一本しか無いだけではなく、成功の形も一つではない。幸せの形が人の数だけあるならば、成功の形も幸せの数だけあっておかしくない。もし幸福と成功が関係のないものならば、そんな成功など必要ない。



 今回コメントしてくれた彼女が、小関先生に習っているのは剣道というよりも人生だ、と言っていた。その通りなのだと思う。



一つ頭に浮かぶ中国のことわざがある。



“Give a man a fish and you feed him for a day.

Teach a man to fish and you feed him for a lifetime.”



(人に魚を与えれば、その人は一日生き延びることができる。

人に魚の釣り方を教えれば、その人は一生生きていくことができる。)



 小関先生が教えているのは剣道ではない。剣道を通して人生を教えているのだ。それを証拠に、彼の教え子は剣道とはおよそ関係のない様々な方面で活躍している。僕が知っているだけでも、少なくともこれだけいるのだ。



 船橋市教員時代の教え子の中では、中学生で船橋チャンピオンになって、船高、千葉大理学部へと進み、トヨタの燃料電池の研究をしている生徒。同じく船橋チャンピオンになり、当時トップの習志野高校に進学、千葉商大を経てアニエスベーのトップセールスマンとなり、今では親の仕事を継いで社長をしている生徒。千葉市の教え子では千葉市チャンピオンとなり習志野高校に進学、現在はピタッとハウスで重職についている生徒。市立船橋高校から赤坂プリンスに就職、プリンスホテルのベルガール全国ナンバー1になり、現在は本部で地区のプリンスホテルをプロデュースする立場になっている生徒。現在安房高の進学クラスにいながら、国体候補選手に選ばれている生徒。有名大学大学院に通っている生徒も多い。



 世間的な価値観からしてもこれだけ優秀な人材が小関道場から輩出されているのだ。でもこれは決して不思議なことではないように思う。



小関先生の下で剣道を学ぶ中学生たちを見ていれば分かることだ。彼らは部活中だけでなく、授業中、休み時間、食事の時間、自由時間、就寝時間など、自分の全生活を剣道に結び付けて生きることを訓練されている。そんな彼らが、剣道の枠を超えて受験や就職などの新たな関門に遭遇した時、どのように対処をし、乗り越えていくのかは十分に想像のつくところなのではないだろうか。



 小関先生が教え子に求めること、それは人生の勝者となることなのではないだろうか。  



あとがき

 先日、日本屈指の法律事務所に勤め、僕と同時期にコロンビアのロースクールに留学した親しい友人とちょうど似たような話をした。彼は新人弁護士の人事採用にも関わったことが何度もあるそうだが、彼が新しい人材を選ぶ時には何か一つでもいいからその人の光る所を探すのだと言う。要は、その場に至るまでのプロセスを見るということなのではないかと思う。日本最大級の法律事務所を受けようなんていう人間は皆優秀に決まっている。だとしたらそこに至るまでの過程でいったい何をして来たのかということになるのではないだろうか。与えられた時間ずっと勉強してやっとそこに至った者と、全く別の世界で勝負した後に勉強を始めた者…、どちらが魅力的かと言えば後者に間違いない。

 もっともっと多くの企業が、会社の戸を叩く若者の、そこにたどり着くまでの過程を大事にしてくれればいいと思う。教育を変えるためには、企業の人事採用の在り方までも変えることが求められている。

7 件のコメント:

  1. いやいや・・・、久々の力作エントリーなので、しっかり読んで考えなければと思うのですが、大裕さんの発しているメッセージに答えることは凄まじい時間とエネルギーを要するので、コメントは手短に控えたいと思います。

    >もっともっと多くの企業が、会社の戸を叩く若者の、そこにたどり着くまでの過程を大事にしてくれればいいと思う。教育を変えるためには、企業の人事採用の在り方までも変えることが求められている。

    この言葉は僕自身のもっとも深い問題意識に関わってくるので、安易には答えられなのですが、現実的な政治手段としては、やはり法律を変えることを避けては通れないと思います。経済学者の中でも、同じ問題を論じている人は多いのですが、深さがまだ足りないとずっと思ってます。

    現代日本社会のもっとも良くない部分にストレートに大裕さんはアプローチしているので、本当に着眼点の良さを津関するのですが・・・。この後の話はまた飲みに言ったときにしたいですね。

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  2. 星野さん、
     「法律を変えること」- 面白いですね。是非今度ゆっくり話を聞かせて下さい。
     今、自分の中では制度や枠組み作りよりも、もっと抽象的な教育の価値観を変えるべくディスコースの転換に惹かれている所です。僕は最近は政策は単なるツールに過ぎないと考えています。だから目指す効果を現実化するには、それに命を与える哲学やイデオロギーが必要となる。でもきっと両方必要なのでしょうね。ただ、今の世の中、政策ばかりに注目が集まって核となる部分の議論が十分になされていないように感じています。
     続きはまた飲みに行った時に!!

    p.s. こうして違った分野の人たちが集まって一つの問題を議論すること、本当に大事だと思っています。もっともっと広げていきたいですね。

              大裕

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  3. 星野さん・大裕さんのコメント、いずれも大変興味深いです。

    法律による制度・枠組みの変化、という意味には大きく二つあると思っています。一つは法律制定、つまり立法による変化、もう一つは判決・裁判による変化、つまり司法による変化、です(日本では伝統的には官僚の役割が大きいので、行政・解釈による変化も無視できないのですがとりあえず無視することにします)。

    前者については、まさにツールであり、イデオロギーや経済学的分析等によって裏支えられていれば、国民の理解を得、政治過程の踏み方さえ間違えなければ、あとは立法技術の問題です。なので、なによりもイデオロギー・経済学等による根拠付けが重要です。また利点としては、仮に立法が間違っていた場合には、選挙等を通じて是正がしやすいという面があります。

    他方、後者の裁判・判決による変化は、選挙による洗礼がなく、少数の裁判官によって実現可能という意味では、ある意味ではコストが低く実現可能です。その割にブラウン判決等でも分かるように、場合によっては極めて大きなインパクトを持ちえます(以前大裕さんともお話しましたよね)。
    例えば今回の例でも、採用段階に関する大きな判例が出ると、それに伴って一気に枠組みが変わることもありえます(そして立法もそれに後追いする形でついてくる)。

    但し、逆に考えると、一部の少数の裁判官・司法関係者の哲学・イデオロギーによって判決が下され、社会を変えられてもいいのか、という疑問もあり得ます。特に日本の司法制度は、アメリカの制度と比べて民主的コントロールが及びにくいこともありますし、裁判・判決による変化は、その使い方によっては危険な面があります。

    それでも、大きな裁判が提起され、それに伴って哲学・イデオロギーについての国民的議論が巻き起こるという形になれば、意味はあるかと思います。特に『教育』のような極めて重要であるが抽象度が高いテーマについては、何かしらのきっかけがなければ中々かみ合った議論は起きにくいですし。
    そして仮にこのような裁判を通じて、充実した国民的議論が行われ、また判決後にその意味を国民・市民の側でしっかりと検証するためにも、日頃から市民の側でしっかりとした研究・議論等がなされ、力を蓄えておくことが必要かと思います。(ブラウン判決も、ある意味ではプレッシー対ファーガソン判決への反省・検証、NAACPの精力的な活動、ブラウン判決後の公民権運動等、市民側での大いなる努力があって初めて成果を得た、という面もありますし)

    と、まとまりがないですが、司法という観点から少し書いてみました(もっぱら自分の備忘録だったりしますが(笑))。

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  4. masaさん、
     ダイアローグへの参加、ありがとうございます。
    いいですねぇ。教育経済学者に弁護士まで加わって。政治家や官僚、大学教授が加わってくれたらもっと広がりますね~。(欲張りすぎ?)

     masaさんのコメント、興味深く読ませてもらいました。立法による変化と司法による変化、大事な区別だと思います。おそらく星野さんが言われていたのは前者ですよね?僕はどちらかというと後者の司法による変化に興味を持っています。ただ、このトピックではちょっと想像しにくいのではと思います。星野さんが実際にどのような意味で「法律を変えることを避けては通れない」と言われたのか気になるところです。今度3人で飲みに行きましょう。他にこのようなマニアックなことに興味ありそうな人も誘って。


    p.s. 「(日本では伝統的には官僚の役割が大きいので、行政・解釈による変化も無視できない…)」という注意書きに特に興味惹かれました。教育政策の方面でも似たようなcaveatが大事だと思います。政策が施行されたところで、それを自分なりに理解し、実践へとtranslateしていくのは現場の教員や管理職。だからこそ現場の理解度の補強や、現場へのイデオロギーの浸透を無視して教育政策を語ることは空虚になってしまうのです。後は飲みに行った時に!!


             大裕

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  5. 大裕さん

    すてきな空の写真、
    どうもありがとうございます。

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  6. 美帆さん、
     いえいえ。こちらこそ。
    本当はもっときれいだったんだよ。

          大裕

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  7. 司法と立法の双方が実際の法の運用に影響を与えるというご指摘はその通りで、その判例を修正するためには当然法律の改正以外にはありません。具体的に労働法学者の若手の中では新しい労働法成立に向けての動きがなされているそうです(専門家じゃないのでこれ以上はコメントを慎みたいですが)。

    あと、僕は法の執行者たる弁護士、検察官、裁判官は社会的便益を無視した行動をとりがちなので、その点に関しては法曹関係者と経済学者の交流が絶望的に欠けている点に危惧を覚えています。法の経済学は学問分野として確立されていますが、正直日本での教育はひどいものですし、経済学者と法曹関係者では同じ事象についての見方が職務的な理由により全く異なるので、両者の絶え間ない協力関係を築かなければなりません。

    現今の教育が虚しくなっている理由には、急速に硬直化する国内の労働市場の影響が間違いなくあると思うのですが、同時に教育の不備が労働市場をより酷い物にしている点もあり、はっきり言って鶏と玉子の関係です。少子高齢化という、人為ではどうにもならない社会の大変動が根本的な原因なのですがそれに対処することが全くできていないのです、労働市場も教育制度も。官僚に代表される公務員制度も、変更されなければ日本に致命傷をもたらすと思います。行政の人事組織が、かなり歪んだインセンティブを官僚組織にもたらしているので、これも非常に問題です。一人一人の公務員の質は僕は高いと思っていますが、「社蓄」ならぬ、「省蓄」として生きられてしまうのが問題です。

    教育からかなり離れたコメントで申し訳ないのですが、教育制度に間接的に非常に大きな影響を与えるのであえて書き込みました。もちろん、自由や富とはいったい何か、という哲学的な問題意識がなければ意味がないことは言うまでもありません。

    というかMasaさんは一度お目に掛かったことがあるような気が。Joe's Shanghaiでお昼ご飯をご一緒させて頂いたと思うのですが。

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