2010年8月28日土曜日

「そうか」 ~繋いでいくこと 5~

     「はい。昨日帰って参りました。」



あの日、孫弟子にあたる岩井君の剣道部の指導にいらした奥村先生にそう答えると、先生は、 「そうか」 とだけ言ってすたすたと控室に入って行かれた。



 僕がついて行くと、竹刀を壁に立て掛け、まあ座れとおっしゃった。失礼しますと正座する僕に、いいから足をくずせ、と奥村先生。そうは言われてもこの先生の前ではなかなかそうする気になれない。



 どんなお話が聴けるのだろう、と期待していた矢先、いきなり面が飛んできた。



    「(日本で)教員をやっててなにかアメリカで役に立ったことはあるか。」



 予期せぬ質問に、 8年前の光景 がフラッシュバックとして蘇った。



 2002年3月下旬のある日曜日、同じ部屋、同じように暑い日の昼下がりだった。出会ったばかりの小関先生に開口一番訊かれたのだった。

   

   「なんで教員になったの?」



 あの時と同じ面だと思った。







 奥村先生にアメリカで何が役に立ったと訊かれた僕は無意識に答えていた。



    「先生をもったことです。」



 とっさに出た言葉だったが、嘘ではなかった。博士課程1年目を終えた時に感じたことだが、 『自分を持つということ① ~信じること~』 でも書いたように、小関先生の存在が再留学をした自分に芯を与えてくれ、新たな学びに自信を持って身を委ねることを可能にしてくれたのだ。



 奥村先生はおっしゃった。



    「そうか」


奥村先生は納得されたのだろうか。それとも失望させてしまったのだろうか。余韻だけが狭い剣道場の控室を支配した。



 答えを得られないまま、僕は、自分の恩師のルーツを辿るという今年の夏のテーマを説明し、しいては小関先生の師匠である奥村先生のお話を是非お伺いしたいとお願いした。既に小関先生から話があったらしく、わかった、と了解して頂けた。







 後日、同じ部屋で話をお聞きすることができた。



 まずは、どうして教育の道を志したのかということ。



 奥村先生が教員になってから出会った安藤先生という師匠の話は既にお話しして頂いていたが、今回はもっと以前のお話を聞けた。体が弱く病院ばかり通っていた小、中学生時代。やりたかった剣道をやっとまともにやれるようになった高校生。高校最後の年に経験した一人の強烈な先生との出会い。そこから開けた剣の道。行けと言われるがままに先生の母校である国士舘大学に進み、気がつけば国体選手として千葉県に引き抜かれ、教員の道を歩んでいた。熊本の師匠との関係は今でも続いているという。



 その他にも、教育について実に様々な質問に率直にお答え下さった。資本主義が教育にもたらす影響。歯止めのかからないこの個人主義の時代にいかにしてパブリック ― 「公」 ― の部分を考えていけばいいのか。教員の社会的地位を高めるにはどうしたらいいのか…。



 特に心に残ったことが幾つかある。自分なりに解釈すると、まずは、これからは学校が地域の核となってばらばらになった人と人とを繋げる役割を果たしていくのだということ。そして、家庭の教育力が低下し続ける今、子どもをつかむことが教員の生きる道だということ。奥村先生らしい、非常に複雑な社会問題の真理を貫いた答えだった。







 1時間半ほどお話し頂いたのだろうか。僕とのかかり稽古を終えた奥村先生は一言こうおっしゃった。



    「先生をもったこと…。小関もえらくなったな。」

(続く…)

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