僕にとって興味深いのは、Arendt の子どもの捉え方だ。Arendt にとって、「子ども」 は一時的な状態に過ぎない。彼女は、子どもを
“human beings in process of becoming but not yet complete”
「形成途中で未だ不完全な人間」
と表現している。そして、彼らが 「新しい」 のは、彼らの目の前に広がる世界との関係の中だけでのことであり、いつかは彼らも大人として子どもの産み出す力を育み、彼らに自分たちの古くなった世界の行く末を委ねる時が来るのだ。
Arendt は言う。
“Our hope always hangs on the new
which every generation brings.”
which every generation brings.”
「我々の希望は常に新しい世代がもたらす新しきに懸っている。」
『最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~』 で書いたように、自分は今まで責任を与えられる側からしか考えて来なかった。自分が常に与えられていたのだから無理もなかったのかもしれない。結果、無意識に僕は与える側、与えられる側に生ずる責任の関係を一方的に理解していた。つまり、責任を「与えられる側」だけに課されるものとして、そして心のどこかで、恩返しは与えてくれた本人にすべきものだと考えていたのだ。Arendt の考えは、僕の理解が不完全であったことを教えてくれた。
亮太君帰国の朝、僕らは出発の数時間前まで飲んでいた。いろいろ振り返りつつ、彼が僕に対する感謝の気持ちを伝えてくれた。そこで、僕は今回の亮太君の訪問を通して自分が学んだことを告げた。
亮太君が僕を必要としていただけではない。
僕自身も、自分の責任を果たすために、亮太君を必要としていたのだ。
「私にできることがあるわ」と言った、Naraian教授の顔が思い出される。きっと彼女の使命感も、同じような所から来ているのではないだろうか。きっと、彼女も、亮太君を必要としていたのではないだろうか。
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最後に、今回これを書くにあたって、一つ気になって調べたことがある。
それは、responsibility の中心的な要素である 「約束」 の語源だ。
ご存じの通り、英語では約束という意味を指すのに promise という単語を使うが、このpromise、本来は、
pro(前に) mise(送る)
という意味を指している言葉だそうだ。
語源を追及して浮かび上がってくる “responsibility” という言葉の意味…。それは、与える者と与えられる者が 「約束」 というバトンを前へ前へと繋いでいく姿だった。
- 完 -
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