16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。
以前にもこのブログにて、日本語と英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来
re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)
「返す」 「約束する」 「能力」
という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。
「約束をもってお返しをする、
その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」
この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。
しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。
以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。
しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。
亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。
その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。
“I have something to offer.”
「私にできることがあるわ。」
(続く…)
0 件のコメント:
コメントを投稿