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2011年9月4日日曜日

教師の存在意義

新たな学びに触れる前にと3日間で9件の投稿をして、丸のシリーズを何とか書き上げたのが8月26日。翌日から1週間の予定でベルギー及びハンガリーに行ってきた。今回の旅行のことについても早いうちに書きたいと思っているさなか、小関先生から一通のメールが届いた。




この夏、市内の教員のほぼ全員が集まる研修で、教育長が放った一言についてだった。



    「大震災の教訓から、『自ら判断して行動できる生徒・児童』を育てなければ…。」



どうやら発信元は文科省かどこかわからないが、全国一斉の動きだったようだ。



小関先生はその時のことを次のように語った。



   どの先生も頷きながら聞いていた姿は本当に滑稽だった。
   そんな生徒が本当に育ったら、間違いなくごく一般の先生方には、やっかいな生徒だ。



僕は思った。そもそも、多くの先生はそのような生徒を育てられるわけがない。これについては以前にも 『叱るとは愛すること』 で書いたが、臨機応変に動ける生徒を育てることは、実は最高レベルの難易度にある教育目標だ。



そして、もし何かの間違いでそのような子たちが育ったとしたら、その時は間違いなく 「やっかいな生徒」 として扱われるだろう。



残念ながら、多くの先生たちは、子どもが子どもであり続けることを必要としている。いつまでも 「大人」 である自分の言うことをはいはいと聞き、どんな時も自分の指令を待つ優等生を作ることによって、「先生」 であろうとするからだ。



しかし、そのような教員はいつまで経っても 「先生」 になることはないのだと思う。そもそも、「先生」 なんて自分の意志でなれるものではない。決めるのは生徒だ。



Hannah Arendt が言うように、教師というものは全ての大人の代表だ。そして、教師の存在意義は、最終的に自分を必要としない生徒を育てることにある。



だから、教師の仕事にはビタースウィートな別れがつきものだ。



でも、それさえもが嘘だということを、Mr. Walker が身をもって教えてくれた。



別れなど、本当はない。

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2011年8月23日火曜日

どうか見ていて


 昨日、末期の脳腫瘍と闘っているMr. Walkerに手紙を出した。既に字を読めなくなった先生が、見て楽しめるようにと思って買った、金色の小さな扇子が飾られた和風のはがき。






 Mr. Walkerには、てきとうなことは書けない。Holderness時代に教わったように、一語一語、丁寧に言葉を選んだ。






Dear Mr. Walker,


What gives me the courage and strength to keep going is the responsibility I feel toward your teaching and the fact that you believed in me. Watch me where I take the baton passed by you.

Daiyu



(ウォーカー先生、


僕がこうして頑張れるのは、あなたが僕の可能性を信じてくれたから、そしてそんなあなたの教えに報いたいと僕が感じるからです。あなたから引き継いだバトンを僕がどこまで持っていくか見ていて下さい。


                          大裕)

 
 封を閉じる前、ふと思い、believedをbelieveに変え、最後のピリオドの代わりにビックリマーク(!)を二つ付けた。







近くの店で切手を一枚買い、1時の郵便回収に合わせて投函した。






 Mr. Walkerの息子さんから彼の死を伝える電話をもらったのは、その日の夕方のことだった。










2011年6月25日土曜日

「なんて素晴らしい日なんだ。」

 今週の日曜日、Mr. Walkerに会ってきた。

 彼の住むRyeという町は、New Hampshire州の海沿いの美しい町だ。ニューヨークから車で5時間。行きの車の中、僕は、初夏のニューイングランドにふさわしい、穏やかできれいな別れを思い浮かべていた。


 

 そんな僕の期待は見事に裏切られた。

待っていたのは、自らの死を受け入れ、周りの人間との別れを惜しむ老人ではなく、どろ臭く、どこまでも生にこだわろうとする生身の人間だった。

 僕たち家族が着いた時、家の前には既に何台もの車が停まっていた。家族の人が迎えに出てきてくれ、導かれるままに僕らは裏庭に行った。寝たきりかと思っていたMr. Walkerは、ピクニックチェアーに座っていて、僕を驚かせた。

 考えてみれば前回もそうだった。癌が再発し、もう会うのは最後かと思って尋ねた去年の8月。あの時も、僕らが泊っていたホテルまで車を運転してきて僕らを驚かせた。きっと家族としては気が気じゃないだろう。

 挨拶に行くと、Mr. Walkerはかすれた声で、

“Good to see you.”
「会えて嬉しいよ。」


と言った。

 奥さんのPhillisも元気そうで、僕らを歓迎してくれた。次々に家族の人たちが挨拶に来てくれた。僕はMr. Walkerのお子さんたちを何人か知っていたが、どうやら僕が会ったのはほんの半分に過ぎなかったらしい。全部で8人のお子さんがいると知って驚いた。

 少し経つと、家族の輪に何らかの緊張感があるのを感じた。原因はMr. Walkerだった。

僕がMr. Walkerの隣に行って、思ったよりも元気だと言うと、彼は何度も首を振った。本も読めないのだ、と。いろいろやりたいことはあるのだが、すぐに疲れてしまうそうだ。本気で悔しがっている彼に、僕はあきれてしまった。きっと自分自身に求めるものが相当高い所にあるのだろう。

 Mr. Walkerが何か言葉を発しても、うまく出てこないことがほとんどだ。そんな時は、自分へのフラストレーションなのだろう、極端に大きな声で繰り返すのだ。でもそれが周りには、相手へのうっぷんを晴らしているように見えてしまう。それに、そんな怒鳴ったら体にさわるだろう、と周りは更に気を遣う。

 もう打つ手はないため、ホスピスの人を迎え入れ、心の準備をしようとしている家族の人たち。それとは反対に、「まだまだ」と一人で生にしがみつこうとするMr. Walker…。そんな温度差を感じた。

 つい先日も、危ないから、と何とか止めようとするナースを無視して海へ歩いて行ったそうだ。実際、僕の訪問に関しても一もんちゃくあったのだ。先週僕が電話をした時、実は彼の状態を懸念した奥さんに訪問は遠慮してくれと言われていたのだ。僕も了解し、家族の写真を送るだけにすると伝えた。しかし、次の日、彼から僕に怒りの電話が来た。僕の訪問を奥さんが断ったと聞いたが、彼女にそんなことをする権利はない、もしこちらの方に来る用事があるのだったら寄ってくれ、と。

 相当の頑固じじいだ。途中から、僕はおかしくなってしまった。

 それでも、目の前で遊ぶ僕の子どもたちを見ながら見せる優しい笑顔は昔と変わらなかった。

高校時代、あの顔が見たくてどれだけ頑張ったか。もう一人の恩師、小関先生が教えてくれた言葉が思い出される。

「この人に褒められたいと思われる先生になれ」。

 自分にとって、Mr. Walkerはまさにそうだった。
「よくやった」  ―  彼のその一言で僕は天にも昇るような気持ちになれたのだった。

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 数日後、電話越しの小関先生にMr. Walkerのことを気にかけてもらった。どうだった?と訊かれ、上に説明したようなMr. Walkerの状態を伝えると、小関先生は言った。


 「侍だねぇ。おまえな、一流の指導者なんてみんなわがままだぞ。」

 確かに。僕は笑った。

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 2時間くらいお邪魔したのだろうか。

帰りの車の中、陽だまりの中で遊ぶ子どもたちを見て言った言葉の余韻がずっと僕の中に残っていた。



“What a day.”

「なんて素晴らしい日なんだ。」




Posted by Picasa


2011年6月18日土曜日

"I love you."

 この場に何度か登場しているMr. Walker…。僕の高校時代の英文学の先生である以上に、自分の人生を変えてくれた、生まれて初めての人生の先生だ。あの時彼に出会っていなければ、僕は日本の教育に疑問を持ち、教育の道を志すことはなかったかもしれない。



 Mr. Walkerは、書くという行為を通して生き方さえも教えてくれた。



 同じ意味を持つ言葉でも、構成部分やその言葉の歴史的背景から微妙なニュアンスの違いが生まれる。そして数ある選択肢の中から、常に最善を尽くして次の言葉を選ぶ…。その繰り返しによって綴られるのは、その人の生き様だ。







 『いつの日か ~繋いでいくこと(完)~』 でMr. Walkerの脳の癌が再発したことを紹介してからもうすぐ一年になる。1ヶ月に一度ほど電話してきたが、このところ会話もうまく続かなくなった。



 先週、電話をした。いつものように奥さんのPhillisが電話に出た。キモセラピーはやめたが、旦那は変わらず元気に闘っていると言う。



 おそらくMr. Walkerがすぐ隣にいるのだろう。どこか気丈に振舞っているような気がしてならなかった。



 Mr. Walkerが電話に代わると、僕はいつも通り、自分の勉強のこと、家族のことなどを話したが、それに対して、彼は相槌をうつのが精いっぱだった。



 疲れさせてはいけないと思い、僕は手短に電話を切ろうとした。



 最後に、Mr. Walkerが苦しそうに言った。







"I love you."







迫りくる恩師の死を悟った瞬間だった。



来週、家族を連れて再び彼のもとへ行く。

2011年1月7日金曜日

どんな走りを




 明けましておめでとうございます。
随分ご無沙汰してしまいましたが、みなさん良い年越しをされましたか?
最新ポストがずっと『討死に』であることがずっと気にはなっていたのですが、僕にとっては師走の忙しさも一緒に年を越してしまった感じです。学会のプロポーザル、新たな奨学金のアプリケーション、妻と始めた音楽療法関係の本の翻訳、子どもたちとの遠足などなど、やることは山積みです。
 本当は年初めに去年一年の反省と今年の抱負から始めたかったのですが、それを書き終えるのを待っていると日々の感動が消化されないまま過ぎていきそうなので、とりあえず今日みなさんとシェアしたいと感じたことから2011年、始めたいと思います。


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 今日、自分にとって最初の 「先生」 であるMr. Walkerに年初めのご挨拶をした。以前、『いつの日か ~ 繋いでいくこと(完) ~』 でも書いたように、Mr. Walkerは脳に癌を患っている。8月後半に彼のもとに駆け付けた時には、もういつ死んでもおかしくないと言われていたが、「闘うんだ」 と言った言葉通り、彼は2011年も迎えることができた。

 電話越しの彼の言葉は、意外とはっきりしていた。

僕は、訊かれるままに、自分の研究のことやら家族のことやらいろいろ話をした。そして、最後に、無駄と思いつつ彼に感謝の言葉を述べた。今までに何度試みたことだろう。僕の第二の人生は、彼との出会いから始まった。彼と出会っていなければ教育を志していなかっただろうし、間違いなく今の自分はない。しかし、言語というものが、そんな感謝の気持ちをこぼさず運んでくれた試しはない。

 いつものように、Mr. Walkerは 「わかっている」 と応えた。



 苦笑いをしたら、涙が出てきた。


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 恩師に挨拶することほど新年を始めるにふさわしいスタートはないと思う。これは、もしかしたら僕が特定の宗教をもっていないからかもしれない。僕にとって、新しい年の始めに恩師に挨拶をすることは儀式のようなものだ。過ぎて行った一年を恩師に報告する自分を見て、去年一年の自分の生き様を問い直すのだ。まっすぐに恩師の目を見つめられているか?堂々と胸を張れているか?それができて初めて次の一歩を踏み出すことができるのではないだろうか。

 新年早々、もう一人の恩師、小関先生にも電話でご挨拶することができた。またしても新たな気付きを頂いてしまった。これに関してはまた改めて書きたいと思う。

 自分が受け継いだバトンの重さを確認し、今年も素晴らしいスタートをきることができた。

 2011年、自分はどんな走りを恩師たちに見せることができることができるだろうか。

2010年11月20日土曜日

最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~

 「あなたにとっての最大のテーマは?」 と誰かに訊かれたら、僕は間違いなく 「責任」 と答えるだろう。


 16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。


 以前にもこのブログにて、日本語英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来


    re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)

    「返す」     「約束する」     「能力」


という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。


「約束をもってお返しをする、

その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。


 しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。


 以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。


 しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。


 亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。


 その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。


“I have something to offer.”

「私にできることがあるわ。」

 
(続く…)

2010年8月30日月曜日

いつの日か ~ 繋いでいくこと(完) ~




 「ありがとう」 そして 「ごめんなさい」



あなたはこの二つの言葉の共通点をご存じだろうか。



 漢字にするとわかり易いかもしない。



   「感謝」 そして 「謝罪」



そう、答えは 「謝」 の字にある。



 1999年、アメリカで修士号を取得した僕は、日本に帰って来て、かおるさんと一緒に Learning Community for Change (LCFC) という名の教育に関する勉強会を立ち上げた。ある日の勉強会で、話に出てきた謝罪という言葉が妙に気になった。



 「ごめんなさい」 を表す言葉なのに、どうして感謝の 「謝」 の字を使うのか。



 当時中国語を勉強していた友人に電話をしたり、自分で 「漢字源」 を使って調べたりした。その結果、非常に興味深いことがわかった。



 「謝」 は、分解すれば大きく二つの部分に分けられる。



   「言」 と 「射」 だ。



 なるほど、共通点は 「言葉」 を 「射る」 ことか、と思うかもしれないが、早とちりをしてはいけない。ただ単に言葉を射るのであったら、別に 「おはよう」 や 「さよなら」 など何でも良いということになってしまう。でもそれらの言葉には 「謝」 の字は使わない。




「ありがとう」 そして 「ごめんなさい」 

共通点や如何に。



 実は 「射」 という字の語源に大きなヒントが隠されている。



 「射る」 とは何を意味するのかと言えば、むろん弓で矢を射ることである。その証拠に 「射」 の字は左側が 「身」、右側が 「寸」 だが、これは元々、人間が矢を放とうと弓を構えた姿が字になった象形文字だそうだ。



 では、 「ありがとう」 「ごめんなさい」 と弓矢の間にどんな関係があるのか。

 

 あなたには、ずっと言いたくても言えていない 「ありがとう」 や 「ごめんなさい」 がないだろうか。



 もしあるのであれば、そのあなたの心こそが弓なのだ。



 ただその一言を放ちたくて、あなたの心の弓は時間が経てば経つほど張りつめていく。その緊張から解放される道はただ一つ。相手を想う気持ちをその相手に向かって解き放つしかない。








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 人生には何とも奇妙なタイミングというものがある。 『ルーツ ~繋いでいくこと 4~』 で僕の高校時代の恩師であるMr.Walkerに触れ、彼の写真をブログ上に掲載したまさにあの日、彼の脳に癌が再発し、今回は手術もできないほど末期であることを彼の愛妻から知らされた。



 ショックだった。Mr.Walkerは自分の人生における初めての恩師だった。彼に出会っていなくても僕は日本の教育に疑問を抱いていたかもしれない。でも彼に出会っていなければ、自分が日本の教育を良くしよう、できるんだ、などと大それたことは思ってもいなかっただろう。前にも書いたが、僕にとっては彼との出会いが第二の人生の始まりだった。



 幸せなことに、僕はそうして、自分の中に潜在する可能性を心底信じてくれる先生に出会えた。Mr.Walkerは、僕が大学の卒業式、大学院合格、教員としての船出、結婚、子どもの誕生など、人生の節目節目に報告をすると、それを自分のことのように喜んでくれた。



 自分なりに先生を大事にしてきたつもりだ。でも、一つやり残したことがあった。



彼のもとに家族を連れていくことだ。それが自分にとっての責任であり、けじめであり、何よりの 「ありがとう」 だということを、心のどこかでわかっていた。



 すぐに妻の了解を取り、同じくMr.Walkerにお世話になった僕にとっての妹分である幸恵を連れ、次の日の夜には彼のいるニューハンプシャー州に向かって車を走らせていた。



 ニューヨークから車で5時間。大したことはない。遥かかなたのように感じていた距離は、せわしない日常が僕に抱かせていた幻想だった。



 久しぶりに会ったMr.Walkerは相変わらず大きく、驚くほど元気だった。あの日は本当に調子が良かったのか、それとも教え子を前に張り切っていたのかはよくわからない。ただ、そんな夫を心配そうに見ていたPhyllisがどうにも痛々しかった。高校生の時からずっとMr.Walkerを陰で支えてきた女性だ。



 話したいこと、分かち合いたいものはたくさんあったが、どうやったって時間が足りないのも事実だった。



 40分程して、僕たちは先生に別れを告げた。








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教えるという行為はリレーのようなものなのだと僕は思う。



一人の努力で完結できるものではない。教える側が渡したバトンを教えられる側はしっかりと受け止めるのだ。



師に感謝の気持ちを伝えたいのなら、自分の生き様を見せるしかない。先生の想いが詰まったバトンを持って走り続けるのだ。



そして自分もまた、いつの日か、そのバトンを後から来る者に繋げるのだ。








心から「先生」と呼べる人間に出会った人は幸せだ。背負うもの、繋ぐべきものを持っているのだから。

そんな教えを育むことこそが 「教育」 なのであり、我々に与えられた責任なのではないだろうか。



(終わり)
 
左から愛音、Mr.Walker、美風。
 
 
 
右から2番目が幸恵とその愛娘ハナちゃん。その隣がPhyllis。

2010年8月23日月曜日

ルーツ ~繋いでいくこと 4~

 この夏の僕のテーマは、自分の恩師である小関先生のルーツを学ぶことだった。自分の信仰が深まれば深まるほど、その教えの出処を知りたいと思うのは当然のことであり、僕にとっては巡礼のようなものだった。



 思えば2002年、教員として4月からの正規採用が決まった時も、自分にとっての聖地とも言える、アメリカのニューハンプシャー州にある Holderness School を訪れた。その高校は、僕にとって初めての留学先であり、第二の人生が始まった場所であり、教育を生涯の仕事にしようと志した場所であり、僕を発見してくれた Mr. Walker と出会った場所であった。教員としてのスタートを切るにあたって、今一度そこを訪れることが必然のように思われた。


僕が過ごした寮

Dininghallへの道


秋は紅葉が美しい


お土産にプレゼントしたじんべいを着るMr.Walker



 今回の巡礼も似たような位置づけだったのかもしれない。博士課程2年目を終え、必修単位もほぼ履修した今、いよいよ博士論文へと突入していく。大勝負を前にして自分の原点を探ろうと思ったのもまた必然だったのだろう。







 話を帰国2日目に戻そう。あの日、岩井君の次に僕が出会ったのは、前回再投稿した 『自由を捨てて自らを解き放つ Part V ~信仰と自由の関係~』 でも紹介した小関先生の師匠である奥村先生だった。自分の孫弟子にあたる岩井君の剣道部の指導にいらしたのだ。



   「おう。帰って来たのか。」



 Tシャツに短パン姿の奥村先生がその大きな目を少し細めて微笑みかけて下さった。今年退官されたとは思えないほど若く見える。良い指導者になればなるほど、体と言葉にミスマッチが生じるような気がしてならない。見た目は若いが、放たれる言葉はまるで仙人のようだ。ちなみに、もはやこのブログの主人公のようになっている小関先生も若い。どうやら多くの読者が相当ご年配の老人を想像しているようだが、実はまだ47歳、見た目は40いくかいかないかといったところだろう。



 奥村先生を象徴する面白い逸話がある。



 小関先生は、自分の空き時間中によく校舎をぶらぶらする。授業中のクラスを廊下から覗いては生徒の様子を見て楽しむのだ。ある年、もし剣道をやっていなければ極悪人になっていただろうと思われる男子生徒が剣道部の主将を務めていたことがある。その彼は、どんな授業でも、自分が下を向いてノートをとっている時でさえ、廊下側の後ろの窓から覗く小関先生の気配を感じ、バッと振り向くのだった。



 生徒の意識をそこまでもっていくのは相当なことだ。僕などは逆に、自分の野球部の部員に気付いて欲しくとも気付いてもらえないことがほとんどだった。だから、そのことは小関先生も少し嬉しそうだった。



 後日、小関先生がその話を奥村先生に話したところ、奥村先生独特のゆっくりとした口調でこうこたえられたそうだ。



   「気配を消せないようじゃぁ 小関もまだまだだな。」



 あれには参ったと小関先生も大笑いをしていた。



 もう一つ、小関先生が全国制覇をした時の話も面白い。



 優勝直後、小関先生は会場にいらしていた奥村先生に挨拶をした。どんな言葉をかけてもらえるのだろう、そう期待した矢先の一言。



   「やっと勝ったか。」



 剣道6段の小関先生が蛇に睨まれた蛙のように奥村先生に打たれるのもそんなところなのだろうか。素人目から見ればいくらでもよけられそうな奥村先生のスローモーションの面に、小関先生は為す術もない。不思議な世界だ。


(続く…)

2009年11月19日木曜日

On Responsibility

 以下はちょっとした出版用に書いたエッセイです。以前、『約束のバトン』でも紹介したMaxine Greene と Thomas Sobol という二人の偉大な教授について書いたものです。また、これまた以前に紹介したResponsibilityという日本語エッセイの英語翻訳版でもあります。

The following is what I wrote for AERA-GS Graduate Studies Discussion Forum. It was originally a part of the teacher autobiography that I wrote for one course.                   

Daiyu

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     Taking Maxine Greene and Thomas Sobol’s classes this academic year was such an honor and luxury for me. These two giants, Professor Greene (age 91) and Professor Sobol (age 77) are indeed the heart of Teachers College. Having known where they have been and what they have done imparted extra gravity to each word they spoke. We students knew they were not in their best health conditions. But they taught us by their presence that what we were learning and what we would make of it will make every difference in the world. But, most important, they taught us what it means to live a responsible life.


     I have always thought of committing myself to education as my responsibility. Ever since I encountered Mr. Walker, the first teacher of my life, I became so eager to share what I was given by him. Later on, when I was teaching ESL in Japan, I came across the word origin of “responsibility.” I learned that it consisted of three parts: “re” (return), “spondere” (promise), and “ability” (ability). A strange sensation of comfort took over me. While unable to make a logical sense, I felt a strange sense of acceptance in my heart. The more I thought about it, the more it made sense to me.

     I interpreted the etymology in this way. The components imply a relationship between the giver and the given, where there is a sense of obligation in the latter to give back for what has been given. In this sense, this relationship assumes continuity and growth of capacity over time. It is also a relationship that is sustained by trust and a promise. On one hand, the giver waits, believing in the potentiality of the given. On the other hand, the given builds on what was entrusted to him and commits himself to returning the gratitude. Responsibility, then, is proactive in essence rather than reactive, internal instead of external. It emerges out of one’s appreciation, resolution, and the ability to live it.

     Teaching and pursuit of better education is a promise I have made in order to return gratitude to my teachers. Having witnessed Maxine Greene and Thomas Sobol define what it means to be responsible by the ways they have lived and continue to teach, my resolution is even stronger. Their promise has become a part of mine, and I owe them to fulfill this promise.

2009年10月29日木曜日

儚さに宿る永遠

 

 現在午前10時。日本は午後11時だ。このメッセージが寝る前のあなたに届きますように。


以前も紹介した、オーストラリアのアボリジニー、<真実の人>族を描いた『ミュータントメッセージ』にこんな一節がある。


<ゲームが終わると、ひとりの男が私に質問した。宇宙から与えられた才能を知らないまま一生を送る人がいるというのは本当なのか?

 私の患者のなかに人とひき比べて自分は不幸だと感じて落ち込んでいる人がいることを認めないわけにはいかなかった。そう、自分には才能がないと思っているミュータント[アボリジニー以外の人間のこと]はおおぜいいる。死ぬ時まで人生の目的を考えない人が多い、と私は答えた。質問した男は首を横にふりながら目に大粒の涙を浮かべた。そんなことはとても信じられないという表情だった。

 「私の歌でひとりの人間が幸せになれば、それはとてもいい仕事だということがミュータントにはなぜわからないんだろう?ひとりの役に立てれば、それはいい仕事だよ。一度にひとりの役にしかたてないんだからね。」>

マルロ・モーガン 『ミュータント・メッセージ』 p.150




 昨日、統計学の中間試験を終えて、次の授業の前にリフレッシュしようとブログを開けた。そしたらコメントの欄に、MKさんとベルボワイユさんという、まだ会ったことのない仲間からの優しく力強い言葉があった。そんな彼女たちの言葉は、僕のメッセージがちゃんと伝わってるということを教えてくれた。

 心が温かくなり、言葉では伝えきれない勇気をもらった。教員をしていた時もいつもそうだった。『最初に…』でも書いたが、話を一生懸命聴いてくれる生徒の存在があったからこそ自分は頑張れた。今、たとえ一人でも自分の言葉を待ってくれている人がいるのなら、その人を失望させてはならない。あなたに向けて自分の精一杯を届けようと思う。


 学生をしながら、いつも心がけることがある。

試験を成績のための試験と思わない。今挑んでいる試験に、あたかも自分が背負っているもの全てが懸っているかのように臨むこと。

宿題を宿題と思わない。あたかも今書いている論文が、世界にとって最も大事な問題であるかのように取り組むこと。

そして、あたかも今日が自分の最期であるかのように生きること。


 以前、大阪市立松虫中学校の陸上競技部顧問として、個人・総合含め7年間で13回、日本一にチームを導いた原田隆史先生が、「ただの部活と思うな、人生と思え!」と繰り返し生徒におっしゃっていたという話を聞き、とても共感したのを覚えている。



 『人生の先生』でも書いたが、僕も、二人の先生から同じことを教わってきた。Mr. Walkerからは、文章は書く人の人生を表すということを学んだ。次の言葉に最善を尽くす。そしてその連続によって自分の人生を綴るのだ、と。

 言葉こそ違うが、小関先生から学んだのも同じことだ。「勝って反省、負けて感謝。」人の想いを背負って生きる侍の心と人生に学ぶ姿勢、一瞬に生きる者の儚さゆえの美しさ、そして儚さに宿る永遠…。

 そんな先生たちのおかげで、自分なりに今まで一生懸命歩んでくることができたと思っている。だからこそ、昔書いた詩やエッセイ、宿題の論文を読みなおしても、決して恥ずかしいとは思わない。まだ考えが浅かったな、少し傲慢だったなと思う。でも、それが当時の自分の精一杯であり、その先に今の自分がいるのだと知っているから。




 僕には毎日行う儀式がある。特定の宗教を信じているわけではないが、午前、午後、11:11になると祈りを捧げるのだ。


「今日も自分が強くいられますように。自分の力の全てを発揮できますように。」


 明日の正午に締め切りの論文が一つある。これから今の自分を精一杯綴ろうと思う。

 
大裕             

2009年9月25日金曜日

Love the questions...

  自分には高校の頃から大切にしてきた宝物がある。Quote Bookと呼んでいる物だ。元はと言えば、16歳で留学を決意した僕に母がくれた自由日記だった。

 『人生の先生』で紹介したMr. Walkerとの出会いは、僕の文学に対する情熱を開花させてくれた。いろいろな文学に触れ、ああ美しいな、この言葉忘れたくないなと思う言葉を日記に綴るようになった。それがQuote Bookの始まりだった。

 今2冊あるQuote Bookには、文学だけでなく、教育学や、詩や、街で見かけた言葉などから集められた名言が綴られている。それをパラパラと読んでいると、自分がいつどのような言葉に影響を受けたのかが分かり、当時のことが鮮明に思い出される。だから自分にとっては言葉のアルバムのような物で、成長の証しでもある。

 言葉は、時に何にも変えがたい贈り物となる。誰かを心から祝福したい時、感謝の気持ちを伝えたい時、大切な友が新たな決意を胸に旅立つ時、誰かに不幸が起こった時、誰かを勇気づけたい時…。そんな時、言葉は自分の代わりに、その人にそっと寄り添ってくれる。



 前回の『科学、デューイ、照美』を書きながら、一つの言葉が頭をよぎった。Rainer Maria Rilke(ライナー・マリア・リルケ)というオーストリアの詩人の言葉だ。

Love the questions…
I want to beg you, as much as I can,
To be patient toward all that is unsolved.

Try to love the questions themselves.
Do not now seek the answers
Which cannot be given you
Because you would not be able to live them.

Live the questions now.
Perhaps you will then gradually,
Without noticing it,
Live along some distant day
Into the answer.

Rainer Maria Rilke


疑問を愛しなさい
私の心からの願いだ
解決できないもの その全てを許すのだ

疑問そのものを愛しなさい
自分に与えられない答えを今求めるのではない
あなたはその答えを生きられないだろうから

今は疑問を生きるのだ
そうすれば 少しずつ
知らないうちに
答えの中に生きている
自分を見つける日が訪れるから

ライナー・マリア・リルケ

訳責:鈴木大裕

2009年8月25日火曜日

小関先生 3 ~ 一瞬に永遠を見出す ~

 部活なしに小関先生を語ることはできない。

彼は素晴らしい数学と体育の教師であるとともに、毎年、県、関東だけでなく全国大会にまでチームを導く、剣道界でも有名な監督だ。つい先日、彼の生徒が女子個人の部で全国制覇したばかりだ。そのことについてはまた日を改めて書こうと思っている。

彼が部活を好む理由の一つは、勝ち負けがはっきりしていること。そしてその勝ち負けが彼自身の進化を支えているのだ。 
 

彼の口癖がある。

     「勝って反省、負けて感謝。」

どれだけの人が、この言葉の真価を理解できるだろうか。

小関先生自身、現代に生きる侍のような人だが、その言葉には、剣の道を守り続けてきた侍の在り方が映し出されているような気がする。

それは、生と死のぎりぎりの狭間で勝負する侍の謙虚さであり、自分の手によって倒れた相手に対する敬意でもある。勝って自分の至らなさを振り返り、負けて自分の弱さを教えてくれた敵に感謝する。そしてまた次の闘いに向け準備するのだ。

反省と感謝に支えられたこの終わりのないサイクルは、その瞬間に自分が何をすべきか教えてくれる。それは、一つひとつの行動、言葉、そして呼吸に意味を見出すことである。

このような己に対する意識の極みは、自分が高校時代、Walker先生の英文学の授業から学んだことに通ずるものがある。

それは一字一字、一瞬一瞬に意味、そして永遠を見出すことだ。

2009年8月20日木曜日

人生の先生

Norman Walker 先生と奥さん(ちなみに、彼は詩集も出版している。)


 Tuesdays with Morrie(邦題『モーリー先生との火曜日』)という本の中で、Mitch Albomがこう尋ねている。
 
 
 「あなたには本当の先生がいますか。知恵で磨けば誇らしい輝きを放つであろう宝石の原石をあなたの中に見つけてくれた人が?」
 
 
幸運にも、自分にはそんな人生の先生が二人いる。


 最初の先生は、16歳の時、初めての留学で出会ったニューハンプシャー州の高校の英文学教師、Walker先生だ。彼は自分が日本で出会ったどの先生とも違っていた。それは、彼がアメリカの高校生をも圧倒するくらい大柄で、ニューイングランドで有名なアメフトのコーチだったからではなく、彼が求めたのは、暗記よりも自分で考えること、用意された答えよりも僕だけの真実だったからだ。

「俺は今、生まれて初めて学んでいる。」 

彼と会ってそう気づいた時のことを今でも鮮明に覚えている。
 Walker先生は厳しく、生徒から常にベストを求める人だった。僕は決してそれが嫌ではなかった。彼の教えに対する姿勢は、その教室で僕たちが格闘していることが、この世で最も重要なことだと思わせてくれた。また、彼が僕に言葉の大切さを教えてくれた人でもある。今、これを書きながらも、ああでもない、こうでもないと、真実を伝えるために言葉に迷う自分がいる。

どんな言葉を選び、発するのかがその人物の人間性を物語る。そして、次の言葉を選ぶのに最善を尽くした時、我々はその一瞬に意味を見出すことができる。我々はそうして各々の人生を綴っていく。

Walker先生が教えてくれたのはそんなことだった。

 たった数行の文章を書くのに幾晩徹夜したことだろう。彼に認めてもらい、自分がやっていることは間違っていないと知ることが、自分が存在する意味さえ教えてくれるような気がしていた。彼から容赦なく投げかけられる批判からは自分が期待されていることを知り、時折頂いた賛辞からは、僕でさえこの世に貢献できる大事な何かを持っている、そう思わせてくれた。Walker先生との出会いが、僕に教育の道を選ばせたのだ。

 二人目の先生は、教員になってから出会った恩師、小関先生だ。彼からはここで語り尽くせぬ程のことを教えて頂いたが、そんな中でも、教えるということ、愛するということ、先生になるということの意味を教えて頂いた。

自分が生徒たちと分かち合いたい人生のレッスンはいくらでもある。でも、それら全て、一つのことに集約できるように感じる。

人生の先生を持つことだ。

それがどれだけ幸せなことか。

以前、生徒がいるからこそ頑張れると書いたが、その生徒を持たせてくれたのは、自分の二人の先生だ。人生の先生とは、頑張るためのモチベーション、無知な自分に対する謙虚さ、知らないことに対する敬意とそれに挑もうとする勇気、自分の未知なる可能性に対する前向きな姿勢、責任、そして愛、それら全ての源となる。

教員として、自分が目指したのはそんな人生の先生であるし、いつの日かそうなりたいと今でも願っている。