2014年5月9日金曜日

橋下大阪市長と学校選択制 〜「選択肢」ではなく「権利」としての教育を〜


大阪市の橋下市長がこだわっている学校選択制のニュースを読んでいて思い出した言葉がある。

“For every complex problem
there is an answer that is
clear, simple, and wrong.”

20世紀前半のアメリカ史にその名を刻んだジャーナリスト、H. L. Menckenの言葉だ。簡単に訳せばこうなる。

「どんな複雑な問題にも、わかり易く、単純で、間違った答えがある。」

読売オンラインの『大阪市の学校来年度23区浪速区除き』という記事よれば、「大阪市全24区のうち半数の12区で今年4月に始まった「学校選択制」について、市教委は2015年度、浪速区を除く23区に拡大する方針を固めた」という。そして、今年は結局、小中計20校で受け入れ定員を超え、抽選を実施」したそうだ。

橋下氏の学校選択制のビジョンは、言葉を変えれば公教育の市場化であり、それは保護者や生徒らに通う学校の「選択肢」を与えることで学校間の競争を生み、教育を改善しようという試みだ。まず言えるのは、これは教育原理ではなく、市場原理に基づいた考え方だということ。教育を良くしようというのに、教育に関する知識を無視してビジネスに答えを求めるところに、既に大きな矛盾を感じる。

このように、社会のあらゆる活動を経済的に分析する新自由主義的な価値観は、大阪だけでなく日本全体、更に言えばグローバルな規模で主流になりつつあり、その価値観は、教育までをも個人に対する付加価値的な投資と再定義することで商品化し、公教育システムを教育「市場」へと変えてしまう。そして、学校選択制をいち早く取り入れたイギリスやアメリカの事例を見れば、学校を選べるようにするという規制緩和の次に来るのは、公教育の民営化だ。実際にアメリカでは、州によっては、「公教育」の枠組みで税金を使って、株式会社が営利目的の学校を運営することさえ可能になり、公教育がビジネスの豊かな土壌となってしまった。そのようなことを考慮すると、水道事業までも民営化しようとしている橋下氏の狙いは、学校選択制の先に見えて来る公教育民営化の可能性なのかもしれない。

次に、このような市場型学校選択制は、子どもを使った「実験」以外のなにものでもない。イギリスやアメリカでは、公立学校にもかかわらず、人気校はマクドナルドのように「店舗」を増やし、「客」を集められない学校は容赦なく閉鎖されていく。いいじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、閉鎖となった学校の子どもたちはいったいどうなるのか?

また、このような市場型学校選択制は、「平等な競争」という前提の下に為されるが、それは幻想にしか過ぎない。廃校のリスクを課される学校側に、少しでも良い生徒を集めようとする力が働くのは当然のこと。アメリカで、入学希望者の抽選における不正が数多く報道されていること、言語的な問題を抱える移民や、障がいをもつ子どもたちがたらい回しにされていることは、不思議でも何でもない。

そもそも、市場型学校選択制には、公教育における学校の序列化を正当化してしまうという哲学的な問題がある。同じ公立学校なのに「当たり」もあれば「はずれ」もある状況を許すことになるからだ。もちろん、選択制導入以前に、学校間で既に格差がないとは言わない。ただ、その格差を解消することに我々は力を注がないといけないのではないだろうか。それとも、「ダメ」な学校を排除することによって格差を解消しようとでもいうのだろうか。だとしたら、競争を通して平等を目指そうという考えには根本的な矛盾を感じざるを得ない。

はたして、橋下氏の公教育のビジョンには、「平等」という概念は存在するのだろうか?しないのなら、そのパブリックのビジョン自体に危機感を感じる。それとも、当たるかどうかはわからないが、誰にでも良い学校に入学するチャンスはある、という「機会の平等」を主張するのだろうか。だとしたら、それは先にも述べたように、「幻想」に過ぎない。これは拙著、『学校選択制と失われゆく「公」教育』(鈴木大裕、2014、季刊人間と教育 81号)で事例を幾つか挙げて書いたので、そちらを参考にして頂きたい。

一つ強調したいのは、大人になった時の不自由ない社会参加を保障する教育を受けることは、我々人間としての「権利」であり、「選択肢」ではないこと。憲法と教育基本法で教育を受ける権利を基本的人権として立派に保障する日本が、それを保障せず、「子どもの権利条約」にも批准してないアメリカの真似をしてどうするのか(詳しくは上記論稿参照)。

学校選択制は、私たち教員や市民のアイデンティティーにも大きな影響をもたらす。学校や教員は「教育市場」における「サービス提供者」となり、私たち市民は、既存の選択肢から選ぶだけの教育「消費者」と位置づけられる。それは、裏を返せば、その選択肢自体を問う権利を奪われることを意味している。つまり、教育の目的や教科書の内容など、教育の根本的な事柄について政府に介入できなくなるのだ。

学校選択制は大阪市だけの問題ではない。民主党政権下で抽出式へと変更された全国学力調査が、第二次安倍政権により再び悉皆式調査に戻され、世論に押された形で、文科省が全国学力調査の学校別の成績開示を市町村の判断に委ねるとの決断を下した。懸念されるのは、地域及び学校間の序列化と競争の激化による公教育の市場化だ。学校選択制も拡大されるかもしれない。その時、競争の中で人々は繋がりと教育における民主的参加の手段を失い、国家の教育ビジョンを受け入れる他なくなるのではないだろうか。

新自由主義の台頭により、社会のあらゆる側面がビジネスの支配下に置かれるこの時代、私たちは、「消費者である私」ではなく「市民である私たち」、「私の子ども」ではなく「私たちの子どもたち」というビジョンの下に民主的な政治参加をすることで、教育を通して民主主義の再生に取り組む必要があるのではないだろうか。




*学校選択制に関してのより包括的な批判は、鈴木大裕、『学校選択制と失われゆく「公」教育』(「季刊人間と教育」 81号、2014年)のこと。

0 件のコメント:

コメントを投稿