2010年9月21日火曜日

"Responsibility" and its etymology

     Here is an attempt to translate an essay I wrote a while back, in 1999. No translation is ever perfect, and this “translation” turned out to be a completely different essay which, at least, tried to preserve the original essence. For those who can read Japanese, the original version can be found here.




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     When I was teaching ESL in Japan, I came across the word origin of “responsibility.”

I learned that it consisted of three parts:

  “re” (return), “spondere” (promise), and “ability” (ability).

A strange sensation of comfort took over me. I couldn’t make sense of it then, but my heart somehow knew and accepted it.


      Later, I came to interpret the etymology in this way.

The components imply a relationship between the giver and the given, where there is a sense of obligation in the latter to give back for what has been given. In this sense, this relationship assumes continuity and growth of capacity over time.

It is also a relationship that is sustained by trust and a promise. On one hand, the giver waits, believing in the potentiality of the given. On the other hand, the given builds on what was entrusted to him and commits himself to a promise that one day he would return the gratitude in his own way.

Responsibility, then, is proactive in essence rather than reactive, internal instead of external.

It emerges out of one’s appreciation, resolution, and the ability to live it.

3 件のコメント:

  1. 時系列でことの変化を見るのが好きなので、日本語の方を先に読ませていただきました。日本語の文章を読んでいて、大裕さんが責任の主体性、内発性、能動性を語りたいのだろうなと思ったので、英語の方を読んでニヤリとしていました。
    翻訳というプロセスは実に難しく、特に英語のような一義性の高い言語と日本語の相性は今ひとつですね。英語は言語そのものが非常に能動的なので、読み手・聞き手は意外と受動的なのですよね。だから、一義性が確保される。日本語は、その美しさでもある尊敬・謙譲・丁寧語と言語特有の含みの強さが、意外に読み手・聞き手を初めは能動的にしてしまう。個人個人がその意味を探ろうとするから、解釈に差が生まれて、得てして意図がストレートに伝わらない。そうすると、読み手・聞き手は自分の中に作り出した意味のどれが「正しい」のかを知りたくて、能動的な読み手・聞き手に変身してしまうし、伝え手はより一義的にしようと言葉を尽くしすぎて、さらなる混乱が生まれる、というダウンスパイラル。しかし、日本語の読み手・聞き手の能動性をこちらが信じて、洗練された言葉を投げかけると、一義的に伝わって、そこにコミュニケーションが成立した後に、含意の楽しみが訪れる。日本語の味って、そこにある気がするんですよね。サイエンスを語るときは、僕は圧倒的に英語の支持者ですけどねw

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  2. 連続投稿です。

    あと、やはり日本語と英語の違いは、モントリオール大学の金谷武洋教授の言う「虫の視点」と「神の視点」ですね(「日本語に主語はいらない」「英語にも主語はなかった」など)。川端康成の雪国、冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を、サイデンステッカーは”The train came out of the long tunnel into the snow country.”と訳したそうです。僕らには当然のように、真っ暗なトンネルから目もくらむ雪国に突っ込んでいくイメージですが、英語話者は既に雪国を見ているんですね。自由と責任は虫の視点からは理解されにくい。それは、大裕さんの指摘した、約束の受け渡しがそこになされているのに、虫の視点からでは他人にあげたことばかりが印象に残ってしまうからかもしれません。

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  3. マサさん、
     随分さかのぼって読んで下さって光栄です。
    日本語と英語の違い、僕も良く考えます。お互いの文化、そして人間性の違いそのものであるような気がします。どちらにも長所あり、短所あり。

    これはマサさんが書かれていたことと通じますが、日本語はやはり相手に気を遣う言語ですよね。それは美しい奥ゆかしさを醸し出す半面、ケンカや議論をする時にはまどろっこしい。もう一方で英語は持ち前の単刀直入さで相手と直球勝負ができる半面、日本語のような奥ゆかしさは出しようがない。

    日本語に特有の含意の楽しみ、良くわかります。これはどこかでも書いたと思うのですが、僕は、言葉は少なければ少ない方が良いと思っています。いかに少ない言葉で、その一語一語の間のスペースに自分と読者のための宇宙を築くか。これこそが俳句の醍醐味なのかなと思います。

    マサさん、真摯なコメント、ありがとうございます。
    このようなダイアローグこそブログの醍醐味です!

                     大裕

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