2009年9月23日水曜日

科学の囚人

 日々の宿題に追われ、だいぶごぶさたしてしまった。新たな投稿もないのに日に日に増えていくアクセス件数を見ると申し訳なく感じると同時に、「がんばらなきゃ!」という新たな勇気が芽生えてくる。みなさん本当にありがとう。


 昨日(火曜日)は、以前『プライド』で紹介した5000という授業がある日だった。自分が今学期初めて教授のアシスタントとして参加している授業だ。今その授業で扱っているトピックがとても面白い。

 アメリカでは、2001年にNo Child Left Behindという制定法が施行された。「落ちこぼれを作るな」と訴えるキャッチーな法律だが、これがこちらの教育界では随分評判が悪い。その理由はたくさんあるが、主なものとしてそれが推進するStandardized Testing(日本語では何と言うのか分からないが、要は基準化された学力試験だ)、結果的に最も貧しく最もサポートを必要としている地域がテスト結果によって罰せられるという歪んだアカウンタビリティーのシステム、そして教育学界に対する「研究の在り方」の押し付けなどがある。

 今5000で取り扱っているのは、この「研究の在り方」だ。政治家たちが教育学界に物申す。

 教育研究者たちは議論をし合うばかりで何も解決しない。
科学的な根拠に基づき明確な結果を提示する量的研究にしか資金提供をしない!

 それに対して、アメリカの教育学界でも権威のあるNational Research Council(NRC)という独立法人が論文を発表し、待ったをかける。方向性は正しいが、もう少し幅広く教育研究を定義しようではないか。今度はそれに対して何人もの研究者が待ったをかけるのだ。

  おい待て、方向性は正しいのか?
  
  政治家が研究の在り方に口を出していいのか?
  
  結局はNRCも質的研究を軽視しているのではないか?質的研究だって立派な科学である!
  
  その定義では、そこに含まれていないあれとこれとこの研究方法は科学ではないのか? 
  
  教育にこれほどまでに多様化した研究方法や理論が存在するのは、教育こそが最も難しい科
  学という証拠なのではないか?

 ふと思う。なぜ皆科学にこだわるのだろうか。

1 件のコメント:

  1. 「落ちこぼれをつくらない法律」は、どこで聞いても評判はよろしくないですね。学力到達度評価については、日本でも学力テストの結果公表について毎年のように結果公表について論争中。そもそものテスト実施の理由を見失って、政治の道具にされています。学校での問題なのに、そこにいつも子どもの意見は、反映されない。一番の当事者は、子どもであるはずなのに。
     イギリスでも前ブレア政権下で、まさしく市場原理を導入し、アチーブメントテストで学区ごとにテストの点数を競わせ、教育委員会に対して罰金・賞金を与える。その上、教育委員会までコンサルタント会社に委譲する制度までも導入。一つの数字のみに頼り、教育を図ろうとした結果、巻き込まれた子どもは悲惨。イギリスも今方向転換に舵をきり始めた。

     日本でも、統計処理のみに頼らず、ライフストーリー研究も見直されるようになっています。当事者の声を丁寧に集めて分析するしていくことの重要性は、今年のいくつかの教育関係の学会で扱われていました。
     それにしても統計分析を巧みに利用し、衝撃的にしてしまっているのは、マスメディアなどの報道にもかなりの問題があるかと。報道を受け取る側のリテラシー力は、これからすごく重要だし、惑わされないように気を付けないと、とても怖い。
     政治家・官僚が、日本の教育予算を決定していくのは、法律上のシステムなのでしょうけれど、でもどれ程教育について理解をもって予算の削減を決めているのか…。もちろん日本は借金大国だから、教育予算の削減も例外ではないのでしょうけれど。先進諸外国の中で、余りに子どもに対する国の予算が低すぎる姿に、将来の有り様が映し出されているのに。
    AKI

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