2010年2月11日木曜日

自由を捨てて自らを解き放つ Part I ~不自由なくして自由は生まれない~

 小関先生はよく過激なことを言うが、その中でも特に過激な名言がある。僕に、 「生徒を服従させろ」 と言うのだ。もしこの部分だけが全国ネットのTVや新聞で報道されたら、彼は間違いなくパブリックエネミーにされるだろう。だが、 『自分を持つということ② ~「守」「破」「離」~』や、 『叱るとは愛すること』や、 『守・破・離の前の信』を読んでくれた人は分かるだろう。小関先生にとって 「服従させること」 は 「人を信じることを教えること」 であり、 「背負わせること」 であり、 「愛すること」 である。


 それに、もし、 「何のために服従させるのか?」 と訊かれたら、きっとこう答えるだろう。 「彼らを自由にするためだ。」


 矛盾している、と思うかもしれない。でも、僕が解釈するに、これはまさに 「守・破・離」 の哲学そのものだ。 「型こそが自由の前提」 と 「守・破・離」 の教えは説いているように思えてならない。


 何も無い所から自分独自の型を見つけることはできない。

 人を知らずして自分を知ることはできないのと同様に、

 人は、型を守ることを通して初めて自分独自の型を持つ。

 不自由なくして自由は生まれない。

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