2010年2月1日月曜日

「守・破・離」 の前の 「信」 (1~3)



1.修行に必要とされる心の土壌


 今回の帰国で小関先生が口にした言葉で、もう一つ引っかかる言葉があった。



    「守・破・離」 の前には 「信」 が来る。



 「守」 「破」 「離」 については以前も 『自分を持つということ ② ~「守」「破」「離」~』 で書いた通りで、剣道やその他の武道、茶や能などの日本古来の伝統芸能などで、 「道」 を究めるための精進の過程を表している。



 最初の段階は 「守」 で、与えられた型を守ることを意味している。何日も何カ月も何年もその型を守り抜いた者は、初めてその型を破り、応用できるようになる。これが 「破」 だ。しかし、型を破ったことにいつまでもとらわれている者に道を究めることはできない。その執着から己を断ち切った者のみが、何にもとらわれない 「離」 の境地に立つのだという。



 これからもわかるように、この精進過程に 「信」 は見当たらない。では、小関先生が考える「守・破・離」 の前の 「信」 とはどういうことなのか。小関先生は言う。





    「信」 とは人を信じる 「信」 であるし、自信の 「信」 でもある。





 誰もが最初から修行に入る精神の準備ができているのか。誰でも 「今日からこれをしっかりと身につけなさい」 と与えられた型を守ることができるのか。これらの疑問が 「信」 の根底にあり、ここで問われているのは修行に必要とされる心の土壌なのだと思う。



 



2.「教えが入る」

 小関先生がよく使う言葉に、 「教えが入る」 というのがある。
それは、先生があの手この手で指導してきた子どもが、先生が言い続けてきたことをやっと理解し、先生の教えを受け入れる瞬間を意味している。もっと言えば、それは子どもが変わる瞬間でもある。



 小関先生の剣道部を例にとって話してみよう。子どもたちの誰もが最初から小関先生を信用するわけではないし、先生の教えを受け入れられるわけでもない。実際、うわべだけで話を聞いている子も始めは少なくない。



    「お前たち、わかったな。」



 さもわかったようにうなずく生徒たちに、先生はにやりと笑いこう言う。



    「そうか。でもな、知っていることとわかっていることは違うんだぞ。」



 部内の人間関係、部員の生活態度、試合展開など、あらゆることにおいて小関先生は予言をする。



    今こうだろ?次にこうなって、こうなって、最後はこうなるぞ。見てろ。



そしてそれらの予言が全て当たるのだ。そう考えてみると、小関先生の教え方は剣道そのものだ。自分がこう動いたら相手はこう動く。それに対して自分がこう出れば相手はこうなるだろう。常に先を読んで勝負しているのだ。



 そのような予言的中が繰り返され、生徒は少しずつガードを下ろし始める。そして気付くのだ。







    全部先生の言ってる通りになる。





 そうなってしまえば後は時間の問題だ。タイミングは生徒によって様々だが、ここぞと思う時に小関先生は勝負をかけるのだ。狙っているのは 「教えが入る」 瞬間であり、それは生徒自身の 「無知の知」 の気付きに他ならない。







    自分は知っていただけで本当は何もわかってはいなかった。





 

 こうして生徒は小関先生の 「バカ!」 を受け入れ、初めて 「守・破・離」 の 「守」 へと入っていくのだ。





3.前提としての 「信」

 一つの疑問が残る。
では、なぜ 「守・破・離」 の教えには 「信」 が明示されていないのか。



 小関先生と話をしていて、きっと 「信」 は精進の道に入るための 「前提」 だったのではないかという結論に至った。新たな疑問が生まれる。ではなぜそれが前提として成り立っていたのか。なぜ今の時代、小関先生のような教員が子どもに 「信」 から教えなくてはならないのか。きっとそれは、 「守・破・離」 の教えが確立された時代には存在し、徐々に失われてきた地域や家庭の教育力だったのだろう。



 もし子どもが、何の疑いも持たず、人の良さだけを信じるまっさらな状態で学校や道場に来たら、おそらくその学校の教員や道場の師範は、 「信」 から取り組む必要はないだろう。これは今の時代、非常に珍しいことなのではないかと感じる。



 今日、多くの子どもは不信感に満ちている。そして、それこそが教育の邪魔をしているように思えてならない。子どもたちは、見知らぬ人に話しかけられても絶対に話すんじゃない、学校の教員より塾の先生の言うことをしっかりと聞きなさい、と家では言われ、テレビや新聞からは信じられないような悪質な事件や学校教育や教員を疑問視するニュースを毎日のように聞かされている。放課後や週末に通うピアノや水泳も、多くの子にとって 「習い事」 の一つでしかなく、子守の代わりと認識している親もいたりする。



 今日、親の言葉はどれだけの重みを持って子どもの心に届いているのだろう。
これは2児の父である自分にとっても非常に重い問題だ。もし、親の言葉が子どもにとって絶大の意味を持ち、その親が 「学校で先生の言うことをしっかりと聴きなさい」 と伝えていたら、教員が 「信」 から取り組む必要はまずないだろう。それに、もし大人たちが地域を挙げて教育に取り組み、学校や道場を支援していたら、子どもたちはすんなり 「守」 から入ることができるのではないだろうか。







 小関先生の剣道部の生徒たちと話をしていると、いつも心が洗われる想いがする。これは以前、 『子どもこそ大人、大人こそ子ども』 で言いたかったこととさして変わりはないように思う。生徒たちが本当に無垢で子どもらしいのだ。何よりも、多くの子たちは人の良さ心から信じている。だから、話をする時は怖いほど近くまで寄って来て、人の話を真剣に聴こうとするのだ。そんな生徒たちを前にすると、話すこちらの方の身が引き締められる想いがする。



 もちろん、小関先生自ら土壌づくりをしてあげた子も少なくないが、中には最初から 「信」 の前提を持ってやって来た子もいる。そんな子たちは決まって、子どもを本気で一流にしようと思っている一流の親を持っている。



 



 今、こうして書きながら、自分に言い聞かせている。他のことができなくてもいい。ただ、人の良さを心から信じられる子どもを育てたい。そして、願わくば、親が安心してそのような子育てをできる社会があれば、と思う。

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