2010年7月13日火曜日

「選ばれる」 ということと 「責任」 ~かおるさんから~



 新自由主義の社会は個人の 「選ぶ自由」 と 「責任」 を原動力に動いている。その社会の中で、実はみんな自由に選んでいるように見えて、私たちの選択は見えない力に支配されている。しっかり人生設計を立てて、中学・高校時代には受験勉強、偏差値順にきれいにランクづけられている大学のリストのできる限り上位の大学に入り、大手の会社に入り、女性ならしっかり稼いでくれる人と結婚、出産、家のローンを払いながら子どもを育て、そしてできれば仕事もしっかりこなしていく。それが正しい生き方だと私たちの多くは教えられてきた。10代で妊娠なんてとんでもない、そして私のようにこの年になっても 「結婚も仕事もせずに」 自分の好きな勉強ばかりしている女性もとんでもない。

 よく考えるとおかしな話だとは思う。世の中では個人の選ぶ権利がさんざん強調されているのにもかかわらず、 実際には絶対的に 「正しい選択」 と 「間違った選択」 があるのだから。そして、これもおかしな話だが、自分の選択したことに対しての責任を個々人が負うように私たちは教育されている。そしてそれが自由主義社会の常識だと思ったりもしている。

 ふと最近、気になるのは、自由とはなにか、そして責任とはなにかということだ。このところあまりに個々人が選択し、その選択に個人的責任を持つ、ということが強調され過ぎて、 常に誰かに選ばれているということ、そして選んでくれた人にきちんとお返しをする責任が一人一人にはあるということを忘れがちだと思う。私自身、個人主義に影響されて、成功も失敗も全て自分次第みたいな気になってしまう時もあるけれど、実際自分の過去10年いや20年を振り返ってみると、私がしてきたことは実は私個人の選択の結果ではなく、私を選んでくれた人たちの言うことに素直にしたがってきた結果だと思う。



 「選ばれる」 というとなんかちょっと偉そうに聞こえる。学級委員に選ばれるとか、市長に選ばれるとか、選ばれるというと特別な能力が認められて人の上に立つことになると考えがちだからだろうか。 でも私のいう 「選ばれる」 というのは、そういうのとはちょっと違っている。確かに 「選ばれる」 というのは名誉なことではあるけれど、私が選ばれたが故に与えられた 人や、場所や、役割は必ずしも人が羨ましがるようなことではなかったし、自分が一番欲しかったものでもなかった。どちらかというと、それはもう他に選択肢がなくてしょうがないからそうせざるを得ないことだったり、お世話になっている人に頼まれて、どうしてもノーと言えなかったからしたことだったり、時には強制的にさせられたことだったりもした。またある時は、ちょっと怪しいけれど ふと頭に浮かんだり、偶然出会った人の口を通して伝えられた 「——するべきだ」 というはっきりしたメッセージだったりした。

 最近の話で言えば、私の博士論文のリサーチに参加してくれた女の子達は私を選んでくれていたのだと思う。本当はリサーチでは研究者がきちんとした科学的根拠をもとに参加者を選ぶことになっているので、私の研究のように、他に誰も参加者が見つからなくて、困っているときにたまたま廊下で出会って、しょうがないから参加してもらうようにお願いしたなどというやり方は、根本的に間違っていると言われてもしょうがない。それでも私は科学とは違う別の大きな力が働いていて、この特別なリサーチができたと思っている。 私は伝えるべき大事なメッセージを持っている彼女達とは結局3年間もつき合うことになった。 (今でも時々連絡を取り合っているが) 数々のインタヴィューの中で、彼女達が私に教えてくれたことは、どこにも書いてないような ことばかりだった。結果的には最初には予想もしていなかったような論文になった。論文を書き終え博士号をもらえたのも彼女達のおかげだと思う。そして ちゃんと彼女達にお返しをする責任が私にはあると思う。変な言い方だがそれは、彼女達が困っている時は何がなんでも助けること。そして彼女達が教えてくれたことを他の研究者達に伝えることが私の責任だと今は思っている。



 ちょっと話はそれるが、このブログの持ち主大裕君との出会いも不思議だ。前回のブログで大裕君が書いていたように私たちも偶然13年前に出会って、不思議なご縁で、ティーチャーズカレッジで一緒に勉強することになった。思い出してみると、彼と最初に会った時、彼はスタンフォードに行く寸前だというのに、なぜかジョンデューイーについて熱く語り、デューイーの伝統を引き継いでいるティーチャーズカレッジを褒めまくり、帰り際にはティーチャーズカレッジのカタログまでくれた。家でカタログをみながらカリキュラムの学部があることも知り、なんとなくそこにいくのかなーなどと思うようになった。それでもそのときはまさか自分が本当にティーチャーズカレッジで勉強するとか、しかも大裕君と同じ時期に同じ学部で勉強することになるとは思ってもみなかった。無意識だけど、お互いがお互いを選び合っていてそうなったのだと思う。そしてそこには個人を超えたもっと大きい力が働いていると思う。

 いくつか例を出したが、人生の大きな転機はみんなこんな風に予期せぬ形でおきてきた。この世の中に生まれた人はみな 一人一人なすべき大事な使命を持って生まれていると思う。そして常に誰かに選ばれて特定の場所にいて、特定の人と特定の時間を特定のことをしながら過ごしているのだと思う。 自分が今やっていることは必ずしも自分が選びたかったこととは違っているかもしれない。自分がいる場所も自分では決して選ばないような場所かもしれない。しかもそれは世間一般の常識からは外れていて、家族や友人からとことん批判をされるかもしれない。でも、本当に自分が選ばれている時は、不思議となんかすーっと与えられたことを受けいれられる気がする。この感覚はうまく説明できないけれど、なにか納得のいかないことをいやいややっているときとか、 「なんか違うなー」 と思いながらやっている時とは全然違う感覚だ。そして選ばれたら誰に何を言われようが、その 場所で与えられたことを淡々ときっちりこなすことが責任なのではないかと思う。

 5月に無事博士課程を卒業し、次の行き先は、南北戦争のリンカーン大統領の演説で有名なペンシルバニア州ゲティスバーグとなった。まさかそんなところに行くことになるとは思っていなかったが、これもまた選んでくれた人たちのおかげだ。選んでもらえたことに感謝をしつつ、果たすべき責任を想像している。

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