2010年6月17日木曜日

人と人とを紡ぐ時代に

 出会いなんてどこにでも転がっているものだ。
ただ、 「すれ違い」 を出会いと見るか見ないかの問題だと思う。



思えば、今までも不思議な出会いがたくさんあった。



 去年の冬休みに泊めてもらったピンク夫妻(Mr. & Mrs. Pink)は、元はといえば、僕が通ったアメリカの高校のキッチンでバイトをしていた地元の大学生、アンの両親だ。アンは元気を絵に描いたような女の子で、笑顔がとてもすてきな子だった。いつも腹をすかせていた僕が何度も何度もおかわりに行くうちに仲良くなった。2年くらいが経ち、彼女が急にいなくなったのでキッチンの他のスタッフに訊いたら、急に癌に侵され、大学も休学してNYの実家に帰ったという。アンが亡くなるまでの2年間、何度も手紙や電話でのやり取りをしているうちに、ご両親とも仲良くなった。そのピンク夫妻とは、その後も毎年一回、アンの命日に電話で話す関係を続けていた。そして、去年、16年越しの関係を経て、初めてお会いすることができた。僕が妻と子どもを連れて来たことをひどく喜んでくれ、自分の家族のように受け入れてくれた。一つ、大きな約束を果たしたような気がした。


ピンク夫妻と


 このブログに投稿してくれた四万十川のさっちゃんも、元はといえば僕が四国を一人旅した時にお世話になった四万十川ユースホステルのオーナーさんだ。導かれるように四万十川に辿り着き、1泊の予定が3泊した。さっちゃんは予知夢をみたり、自分の前世を知っていたり、料理の仕上げに必ず念力をかけたり、とにかく不思議な能力を持っている人で(旦那さんいわく「宇宙人」)、最初から心を完全に解き放って語ることができた。その後も電話をしたり、手紙を書いたり。実際に会ったのはもしかしたら10回にも満たないかもしれない。でも、今でも自分が夢を追い続けていられるのは彼女の言葉が僕に魔法をかけているからでもある。「大丈夫。大裕ならきっとできるよ。」



 時折コメントをくれる、Teachers Collegeの大先輩のかおるさんとも、実は日本にいた時からの古い友人だ。もう13年の友情になる。僕が大学を卒業し、一時帰国中、雑誌 『教育』 読者の会というのに参加していたことがある。そこで、 「君みたいにアメリカの大学で教育学を学び、先月号に記事を書いた女性がいるよ」 と聞き、すぐに電話してその日のうちに会うことになったのだ。すぐに意気投合、時間を忘れて語り合った。僕が今コロンビアにいるのはかおるさんがいたことも大きい。一緒に学べたらいいねとは言っていたが、まさか同時期に同じ場所で学べるとは思わなかった。NYの我が家にも何回も泊りに来て、娘の愛音にとってはGod Motherのような存在だ。そんな彼女も今年晴れて卒業。嬉しくもあり、寂しくもある。


かおるさんと愛音


 今度詳しく書こうと思っているケヴィンや佐々山さんなどは、図書館で顔を合わせているうちに仲良くなった人たちだ。人の縁とは不思議なものだ。僕は、最終的に世の中を変えるのは、お金や理論など形あるものではなく、人と人との繋がりだと思う。



 ここ最近も、それを痛感させる出来事があった。



 『人生の勝者となること』 にコメントをくれたhoshinoさんそしてmasaさんと飲みに行ったのだ。元はといえばhoshinoさんは僕と同じTeachers Collegeの先輩、masaさんはフルブライト同期生だ。夕方5時に学校近くのバーで会い、軽いhappy hourのはずが夜中の12時頃まで語り合った。二人とも、とにかく物知りで、政治や経済の話など、何も知らない自分に優しく丁寧に教えてくれた。何よりも嬉しかったのは、二人とも日本のことを真剣に考えていて、教育に対する熱い想いをシェアできたことだ。最後にBroadwayの焼き鳥屋で食べたラーメンは、妙に美味く、日本を恋しくさせた。



 その二日後、今度はhoshinoさんから 「面白い男がいる」 と言われ、コロンビアで物理学のドクターをやっている竹越さんという人と会うことになった。気持ちの良い日曜日の朝9時、まだ静かなキャンパスの広場を見下ろす階段に座り、僕たちはコーヒーをすすった。



 世の中には必ず、国の言語とは関係なしに同じ言語を持つ人間がいるものだ。そんな人とは何の駆け引きも説明も必要ない。心をワイドオープンにして、ただ流れに身を委ねればいい。



   「そう、そうなんだよね!!」

   「ああ、それ良くわかります。」



 そんな感じで次から次へと話が発展するのだ。この日も、短時間で実に様々なことについて話した。自分たちのバックグランド、今やっている研究、科学と芸術の類似性、日本の教育、日本の若者、政治、人生の師…。久しぶりに時間が止まるのを感じた。







 博士課程2年目も終わり、そろそろ博士論文の方向性もその後の進路も真剣に考えていかなければならない。だが正直なところ、今はまだ確信の持てる方向性は見えてない。将来どんなポジションに身を置けば、自分の良さというものを最大限に生かして恩返しができるのか…。ずっと悩み続けている。



 ただ、これだけははっきりしている。自分の仕事は人と人とを繋ぐこと。そして、そのためには自分自身が人間の良さを信じ、多くの人と繋がっていきたいと思う。



以前 『Something Beautiful ~花~』 で紹介した、中孝介の 『花』 にこんな一節がある。





    人と人 また 人と人

    紡ぐ時代に身をまかせ

    それぞれの実が 撓わなればと





 たとえ今は互いに違う方向を向いていても、いつかどこかでお互いの道がクロスする時が来る。そう信じて、今この瞬間に精いっぱいの花を咲かせるのみ。

Something beautiful 6 ~ ビギン 『三線の花』 ~




 僕が夜、子守唄として子どもに歌う歌は、なぜか沖縄や奄美の歌が多い。これもその一つだ。ビギンの歌からは、そこに暮らす人の表情、息づく自然や昔ながらのしきたり、そして何よりも自分を育ててくれた島への愛情が伝わってくる。


 沖縄の人々に島人としてのプライドを与え、彼らからこよなく愛されているビギンが僕も大好きだ。他にも、 『島人(しまんちゅ)の宝』 や 『防波堤で見た景色』 などの名曲がたくさんある。 『オジー自慢のオリオンビール』 のライブ映像は愛音のお気に入りだ。歌に合わせて 「あいねはぎゅーにゅ~でありカンパイっ!」 とやっている姿はなかなか微笑ましい。

 Wishing you a wonderful day...

                                大裕

2010年6月16日水曜日

7月3日にお会いしましょう

 6月22日(火)に日本に帰ります。今回は1か月ほどのステイです。



思えば昨年の8月に帰国中の日本で始めたこのブログも、もうすぐ一周年を迎えます。冬に帰国した時には、このブログを通して出会った人たちと実際に会い、バーチャルではなくリアルな世界での分かち合いができました。今回もすてきな出会いがあればと思います。7月3日(土)に東京で会いましょう。



詳細は以下の通りです。参加希望の方はメールにてお知らせください。



  時: 7月3日(土) 18:00~

  場所:お茶の水駅(JR中央線・総武線、地下鉄丸ノ内、千代田線)付近の居酒屋

  連絡:直接大裕までds2755@columbia.edu



      お会いできるのを楽しみにしています。



                大裕

2010年6月12日土曜日

世界で勝てる人間の器








 Qちゃんことマラソンの高橋尚子を育てた小出義雄監督の言葉は、小関先生の言うことに通ずるものがある。いや、一流の指導者が言うことは皆同じなのかもしれない。








 つい先日も、練習中に取材のヘリコプターの爆音や、カメラマンがロードのすぐ近くまできて邪魔になったことがあった。



    「監督、何とかしてください」 という。



 「何をいってるんだ。そんな気持ちでは世界じゃ勝てない。どんな音がしても、 「ああ、私が走ってるから見に来たんだな。ごくろうさま」 と思うぐらいの大きな見方をしていかないと。イライラしていては勝てないよ」

 私はそう彼女にいった。世界で勝つにはそのぐらいの心のゆとりや、おおらかな気持ちを持っていないとつぶれてしまう。

 人間の器と可能性を広げるには、物の味方、考え方から始めなければならない。



小出義雄 『君ならできる』 p. 18

2010年6月11日金曜日

聞く姿勢

 生まれて間もない雛が親鳥から餌をもらう姿を想像して欲しい。雛たちはどんなおいしいものがもらえるのだろうと、競って前にせり出し、首を伸ばして口を開く。雛たちの泣き声は、まるで 「ちょうだいちょうだい!!」 と言っているようだ。



 あれは、教えの入った生徒が先生の話を聴く姿勢そのものだ。



 稽古中、道場の端っこで稽古を見ていた小関先生が太鼓を鳴らす。

      ドン。  

すると、子どもたちはいちもくさん先生の所に走って来る。そして我先にと先生の目の前のポジションを争うのだ。異様な光景だ。イスに座る小関先生の周りに、30人ほどの生徒たちが正座する。小関先生の足が一番前の生徒たちに触れる程、生徒たちが詰め寄っている。今度はどんな話が聴けるのだろう、とみな前のめりだ。







 小関先生が新しい生徒を前にした時、最初に始めるのは、その子の 「聴く姿勢」 を引き出すことからだ。それというのは人が人に強要できるものではない。聴く気がない子は、体や目が斜に構える。いくら態勢を無理強いしたところで、肝心な心が斜に構える。



 だから、小関先生は始め、子どもの聴く姿勢を引き出すことに必要な時間とエネルギーの全てをかけるのだ。生徒をじっと観察し、その子を知ろうとする。この子は何を持っていて、何を必要としているのか。己をもって和とするために、その子に何を足せばよいのか。会話をし、信頼関係ができてくると、機会を狙ってその子の心の扉を開けるのだ。



 聴く姿勢さえできてしまえば、後は乾いたスポンジに水を注ぐようなものだ。こう考えてみると、聴く姿勢を引き出すというのは、 「守破離」 の前の 「信」 の段階に当たるのだと思う。







 僕は以前から、 「教える」 ということに関しては、中学校の教員を務めるよりも大学院の教授をする方がはるかに簡単だと思ってきた。少なくとも、大学院に集まるのは勉強したいという想いをもって自主的にやって来た人たちだ。それに、皆、知識とキャリアを重ねてきた教授たちにどんなことを学べるのだろうと思っている。



 それに比べ、思春期まっさかりの中学生を教えるのは難しい。学校に来たくない子、 「大人」 が言うことに対して疑問を持ち始める子、反抗期を迎える子も少なくない。だからこそ、この時期に心から信じられる大人に出会えることが大事なのではないだろうか。



 このブログを読んで下さっている人の中には、自分と同じように、幼い子を抱える親御さん方もいらっしゃる。我々親が担う仕事も変わりはないのではないかと思う。聴く姿勢を引き出すこと、きっとそれはその子がどのように世界に出会い、人とかかわっていくのかという人生に対する姿勢の基盤を作ることなのではないかと思う。

「己をもって和とする」

小関先生がよく口にする言葉がある。



   「己をもって和とする」



 子どもは一人ひとりみな違う。性格も違えば、人から受けてきた愛情も、持っている能力も違う。だから、7持っている子どもには自分が3をたし、4しか持っていない子にはこっちが6を出す。中には1しか持っていない子も、既に9持っている子もいるだろう。だから、いっぱい褒めてあげたい子もいれば、褒めてはいけない子も勿論いる。

2010年6月7日月曜日

人生という長いスパンで

されど知る、天空の深さ

 優れた指導者とは、教育を子どもの人生という長いスパンで考えられる人のことを言うのだと思う。



 現代教育に蔓延っているビジネスコンセプトには、 「教育」 をテストスコアに閉じ込め、しかも短期的なビジョンのものが多い。どれだけ点数がアップするのか、どれだけ進学率が上がるのか、どんな学校に進学したのか…。教育があまりにも短期的なスパンで考えられているように思う。



 僕は勉強することが悪いこととは決して思ってない。実際、自分自身が猛烈勉強中の身だ。受験勉強に没頭することも悪いこととは思わない。受験勉強中、多くの若者が様々な壁にぶつかり、自分の弱さと闘い、思考錯誤を繰り返しながら自信をつけていく。皆が頑張っている時に自分だけ手を抜くようであれば、 「受験勉強なんてしたって」 という言葉は負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろう。



 でも、同時に、受験勉強を頑張ることが成功への唯一の道とは思わない。友達が勉強する以上に打ち込めるものがあるのならそれで良いと思う。極めてその道の一流として食べていけるよう頑張ればいい。他とは違った道にて日々精進している人が、 「普通」 の道で頑張ってる人より頭が悪いとは思わない。実際、職人と呼ばれる人たちには賢い人が多い。



 ある時、 「井の中の蛙、大海を知らず」 という荘子 (そうし) の言葉には実は続きがあると聞き、驚いたことがある。



   井の中の蛙、大海を知らず

       されど知る、天空の深さ。



それを聞いた瞬間、僕は深く感動したのを覚えている。後になって調べてみると、出所は曖昧で、おそらく誰かが荘子の言葉に勝手に付け加えたのであろうということがわかった。でも、そんなことはどうでも良い。僕はプロフェッショナルという番組が好きで、時々You Tubeで見たりするが、そこに登場する人たちからは本当に学ぶことが多い。外にある大海はしらないかもしれないが、ずっと見続けている空の深さは誰よりも知っている人たちだ。







勉強にも旬がある

 もう一つ、僕は食べ物がそうであるように、勉強にも旬があると思っている。勉強をしたくなる時期というのが人にはあって、それは人によって違うと思っている。その旬が中学生でやってくる人もいれば大人になってからくる人もいるだろう。旬が来た時に思いっきりやれば良いと思う。子どもの人間性を犠牲にしてまでテスト勉強に没頭させて教育と言えるのだろうか。進学校に通ったからといって幸せな人生が送れるのか?



 『人生の勝者となること』 でも書いたように、小関先生の教え子には世間的に見て 「遅咲き」 の子も多い。高校ではスポーツ重点校に行き、そこから有名企業に勤める子は数多くいる。それに、彼が成績にこだわらなかったがために救われた子も何人もいる。



 小関先生は平気で言う。



    「お前は勉強なんかできなくてもいい。その人柄で生きていけるぞ!」



だからこそ、のびのびと、卑屈にならずに成長できた子がどれだけいることか。今まで子どもが勉強ができないことでさんざん嫌味を言われてきた親が解放され、子どもの良さを自信もってサポートできるようになった家庭も多い。そしてそんな子たちが自分の人柄を武器に社会で活躍しているケースも珍しくないのだ。



 また、小関先生は全ての子どもが学校に来なくてはいけないとも思っていない。いろいろな道を考えたあげく、どうしても不登校を選んだ子の決断をサポートすることもある。



    「80年と言われている人生のたった一年だ。なんてことはない。」







『教育におけるビジネスコンセプトの導入』 で、現代の教育に蔓延るビジネスコンセプトの多くが結果至上主義の上に成り立っていると書いたが、更に言うと、すぐに結果を求めようとする。つまり、短期的なビジョンでしか教育の成果を評価できないのだ。そのような評価基準では、心から子どもの幸せを考え、日々真摯に 「教育」 をしている指導者たちが報われることはないだろう。それは間違っている。人間の教育とは複雑で、時間がかかるものなのだ。

2010年6月5日土曜日

言葉に意味を与えること




    無駄な言葉が多い。

そう感じたのは先日、数家族で集まって子どもを遊ばせていた時のことだ。僕が何気ないことで愛音に声をかけた。何のことだったかすら思い出せないが、それに対して愛音が反応しなかったのだ。明らかに聞こえてはいた。でも僕の声かけを無視したのだ。



 もしかしたら初めてのことではなかったのかもしれない。ただ周りに人がいたから気になっただけのことかもしれない。これは大変だと、急に気持ちが焦り出した。







 思えば、中学校教員時代にも同じような経験をしたことがある。
教員駆け出しの頃は、自分はとにかく良く喋っていた。意味のない言葉があまりにも多かったため、喋れば喋るほど、まだ足りない、もっと喋らなくてはと感じていた。沈黙による気まずい雰囲気を恐れていたのかもしれない。そんな状態になってしまうと、言葉は軽くなり、生徒に届かなくなってしまう。



叱る時も同じだ。何回も叱っても意味がない。小さなことでずっと叱られている子は、叱られることに慣れ、感覚が麻痺してしまう。



小関先生の教えを思い出す。叱るのは一度。そして大事なのはその次。もし次に同じことをやった時にそれを見逃してしまえば、もう教えは入らないと言っても過言ではない。これは今度書こうと思っているが、 「徹底の度合いが進歩の度合」 というのが小関先生の口癖の一つだ。







 教員になってどれくらい経ってからだろうか、自分にも徐々にそれらのことが分かり始めた。優れた教員は、自分の行為の全てに意味を持たせるのだ。



   どのタイミングで教室に入っていくのか。

   どんな表情をして入っていくのか。

   最初に誰に、そしてどんな声をかけるのか、又はかけないのか。

   どこに立つのか。

   どんなことから授業を始めるのか。

   誰を指名するのか…。



もっと言えば、計算しないことさえ計算されていなくてはならない。「計算」と言うと聞こえは悪いかもしれないが、要は教育的意図があるということだ。



 もちろん、自分が発する全ての言葉にも意味を与えなくてはならない。意味のない時間を過ごすことが無ではなくマイナスであるように、意味のない言葉は次の言葉の意味まで奪ってしまう。



 学校にて自分の言葉に意味を持たせるのは比較的簡単なことなのかもしれない。時間的な制約があるからだ。一クラス34人として、仮に授業中に全員と話そうとしても、一人一分少々の時間しかない。ましてや、自分が担任する学級の授業が無い日などは、そのクラスの子どもたちと話せるのは給食、休み時間、そして学活の時間のみだ。だからこそ、清掃中、廊下ですれ違った時など、ちょっとした機会にどんな言葉を生徒にかけるのかを常に考えていなくてはならない。







 これは幸せなことだが、NYでの生活では、教員時代とは比べものにならないほど多くの時間を二人の娘たちと過ごせている。でも、だからこそ、意味のない言葉も多くなってしまっている気がする。



 自分を通して生まれた大事な子どもたち。せっかくなら彼女たちの最初の先生になりたいと思う。だからこそ、一言ひとことに意味を持たせる、それが今の自分の課題だ。

2010年6月4日金曜日

愛音とごちそう



我が家の愛音(あいね)は、なかなかコミカルなキャラだ。

本能のままに生きていて、何よりも食べ物に対する執着がすごい。

現在2歳半だが、今でもおなかはまんまると突き出ている。

絵に描いたような幼児体型だ。



その愛音、ごちそうを目の前にする時の癖がある。

ごちそうに対して自己紹介をするのだ。

うわぁ!と顔を近づけて

 「はぢ(め)まして!」 とか 「こににちは!ムフ。」 だとか言っている。

あまりにも嬉しくて、自然とそうなってしまうらしい。

そんな愛音を見るといつも大笑いしてしまう。

明日の朝、またバナナミルクでも作ってやろうか。


あとがき


 こんなことについて書いたよと妻に言ったら、教えてくれた。
今朝もさくらんぼを前にして、「おはよ!」と話しかけていたそうだ。

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2010年6月2日水曜日

メリットペイを考える3 ~教育現場におけるインセンティブ~

 書き始めたら止まらなくなってしまった。今回はインセンティブという点にのみ焦点を絞って書いてみたい。



 そもそも、メリットペイの概念は、 「給料アップを約束すれば教師が鼓舞され、結果として生徒の学力が伸びる」 という仮説の上に成り立っている(Conley & Odden, 1995; Timar, 1989)。だがこれは間違っている。何故ならば、教員を鼓舞する最大の要因はお金などの外的報酬ではなく、生徒の成長であったり仕事に対するやりがいであったりする内的報酬だということが多くの研究者によって実証されているのだ(Conley & Levinson, 1993; Conley & Odden, 1995; Lortie, 1975; Smylie & Smart, 1990)。



 インセンティブと教師のモチベーションの関係に関して言えば、現在の日本の現場を見てもすぐわかることだ。 『教員を評価することの難しさ2』 でも書いたように、別に給料が増えるわけではなく、逆にやればやるほど教員にとって赤字が出るにもかかわらず、一部の教員が部活指導に一生懸命取り組むのは、そこに教科指導とはまた違った教育的な意義と喜びを見出しているからだ。彼らの頑張りを支えているのは生徒とより深い関係が築けることだったり、生徒の成長を実感できることだったり、金銭的な報酬とは無関係のものなのだ。だから、逆に言えば少し給料が上がるからといって、それらの教員が意義も幸せも感じられない仕事に一生懸命取り組むとは思えない。もっと言えば、金銭的な報酬に最も敏感なタイプの人間はもともと教員の道を選ばないだろう。







 インセンティブという点に関してもう一つの疑問がある。以前にも述べたように、もともとメリットペイの概念の出所はビジネスだが、はたしてビジネスにおいては高給料が最大のインセンティブであることは実証されているのだろうか。



 これもそうではないようだ。韓国のLGエレクトロニクスという大手電気メーカーの人材開発部 (Learning Center) にて様々なコースを教えた経験をもち、現在は僕が通うコロンビア大学のTeachers CollegeにてOrganizational Psychologyを学ぶ友人が教えてくれた。彼が働いていたLGのLearning Centerは、いわばLG内にある大学のようなもので、キャンパスもあれば教えることを専門とする先生たちも常勤している。そして、そこでは新入社員だけでなく、新しいポジションに昇進したばかりのベテランやら中堅やら、スキルアップを図る若手など、常に多くの人間が学んでいるそうだ。



 LGが何故自社の社員育成に莫大なお金を費やすか。それは人が就職や転職時に会社を選ぶ最大の要因が、給料の良し悪しなどの外的報酬よりも、自分がその会社に入ることによってどのように成長できるかという内的報酬であるからだそうだ。つまり、Learning Centerの存在と、それが保障する社員の成長こそがLGの人気を支えているのだ。



 労働をする者にとって給料は仕事に対するモチベーションと無関係ではない。だが、それが全てでもないのだ。







 そもそも、教育におけるメリットペイに関しては、その問題定義に関する根本的な疑問がある。教員の給料を能力給にすれば生徒の学力が伸びるとする仮説は、学力低下の打開策を教員のインセンティブに見出している。しかし、問題はインセンティブの欠如なのだろうか?努力不足を問題の原因と位置付けるなら、知識やスキルは問題ではなく、良い指導を行うノウハウを教員は既に持っているということになる。足りないのは教員の努力であって、努力さえすればもっと良い指導ができる…。そんなに単純なことなのだろうか?







 最後に、教育におけるメリットペイの導入には別のアジェンダがあるような気がしてならない。これは次回書こうと思っていることだが、メリットペイは教員の勤務評定とその結果による教員の序列化を意味している。誰がどのような基準で教員を評価するのかということを考え始めると、問題は一気に政治的な意味合いを含んでくる。教員の勤務評定に教員たち自身がかかわることは考えにくい。だとしたら、その先に見えるのは教員組合の無力化なのではないだろうか。メリットペイによる教員の序列化は、結果的に教員の解雇を正当化することにもつながるだろう。





Conley, S., & Levinson, R. (1993). Teacher work redesign and job satisfaction. Educational Administration Quarterly, 29(4), 453-478.



Conley, S., & Odden, A. (1995). Linking teacher compensation to teacher career development. Educational Evaluation and Policy Analysis, 17(2), 219-237.



Lortie, D. C. (1975). Schoolteacher: A sociological study. Chicago: University of Chicago Press.



Smylie, M. A., & Smart, J. C. (1990). Teacher support for career enhancement initiatives: Program characteristics and effects on work. Educational Evaluation and Policy Analysis, 12(2), 139-155.



Timar, T. B. (1989). A theoretical framework for local responses to state policy: Implementing Utah's career ladder program. Educational Evaluation and Policy Analysis, 11(4), 329-341.

2010年6月1日火曜日

メリットペイを考える2 ~教育におけるビジネスコンセプトの導入~

 アメリカでは1983年の連邦政府によるA Nation at Risk (「危機に立つ国家」) の発行以降、教育界に様々なビジネスコンセプトが導入されるようになった (Falk, 2000)。生徒の学力は直接国のグローバルマーケットにおける経済的競争力と結び付けられ、教育にも市場原理を導入して国全体の競争力を高めようというイデオロギーが教育改革論争の主導権を得たのだ。教育における新自由主義の到来だ。このイデオロギーの下、何でも中央政府が管理する “big government” はもう古いとされ、それまで公的事業とされていたものの多くが民営化 (privatization) そして規制緩和 (deregulation) されていった (Cohen, 2003)。そして教育もそのような新自由主義の波に飲み込まれていったのだ。



 そんな経緯があり、今日、アメリカでは教育政策の隅々にビジネスコンセプトが蔓延っている。これは日本でもたいして変わりないのではないだろうか。“standards(基準),” “accountability(アカウンタビリティー),” “school choice(学校選択),” “efficiency(効率性),” “performativity(パフォーマティビティー),” “incentives(インセンティブ),” “competition(競争),” “innovation(イノベーション)” と、数え出したらきりがない。“merit-pay(メリットペイ)” とはそんなビジネスコンセプトの最たるものだ。



 まず、メリットペイとは何のことを指すのか。簡潔に言えば自分が行った仕事の量、質、売上などによって給料が決められる出来高給料制のことだ。これは決して新しい概念ではなく、実は1980年代前半にアメリカの多くの州で展開され、失敗に終わった経緯がある。過去に失敗したものが今なら成功すると思われる根拠は未だに見えてこない。



 メリットペイは本来悪い仕組みではない。むしろ、従業者の労働に正当な報酬を与えようとする、公正な制度だと考える。しかし、ビジネスで通用するものがそのまま教育でも通用するという考えはあまりにも浅はかだ。まず今回はこの点について考えてみたい。



 これはまた次回にでも触れようと思うが、例えば市場原理を支える 「競争」 の概念は、教育界においても良い効果をもたらすのかというと一概にそうとは言えない。競争させれば教員一人ひとりの教える技術は本当に向上するのか?学校間の競争を図れば、各学校はそれぞれの個性を伸ばそうとし、結果として教育の多様化につながるのか?これら一つひとつの問題は、しっかりと検証していく必要がある。



 また、ビジネスにおけるefficiency(効率の良さ)と比べ、教育におけるそれは非常に不透明で測りにくいものだと思う。例えば、時間と量における効率性を求め、プラン通りに短時間で膨大な量の知識を詰め込むことで生徒の理解力が増えるというわけではない。時にはプランから大きく逸れて生徒たちの反応に耳を傾けることが生徒たちの理解度の向上に貢献したり、クラス全員に平等に相手をするのではなく、一人の生徒に多大な時間を割いたりすることによってクラスの生徒たちの信頼を得ることもある。

 

 前回、ビジネス界から寄せられるアイディアには、教育の複雑さを無視した短絡的なものが多いと書いた。僕が問題に感じるのは、ビジネスコンセプトの多くが結果至上主義の上に成り立ち、問題の原因追及から目を背けること、多くが 「成功例」 の影で確実に起こる 「失敗例」 と 「犠牲」 を見込んでいること、そしてあまりにも簡単に失敗例を切り捨てることだ。



 例えば学校選択 (“school choice”) 。親や生徒に学校を選ぶ自由を与えれば、進学率の高い学校に生徒が集まり、そうでない学校は淘汰されていくだろうという前提がある。この時点で、失敗例から学び、どうにかしようという意図は排除されているのだ。生徒の確保に失敗し、廃校となった学校の生徒や教員はどうなるのだろう。生徒はまるで実験道具のように扱われ、別の学校に送られるわけだし、廃校になったからといってその学校の教員をクビにすることもできず、結局はまた別の学校に配置されるのだ。(カリフォルニアでは現在、多くの教員が解雇され、再度同じ学校に非正規教員として雇われるという現象も起こっている。)彼らが新しい学校に行って、よりよい教員として生まれ変わる保証はどこにもない。どうして一部の学校では生徒が伸び(*もちろん何をもって生徒が成長したのかという根本的な問題さえも解決されていないが…。)、他では生徒が伸びないのかという根本の問題を追求せずには、同じ過ちを繰り返すことは目に見えている。そして、犠牲となるのはいつも子どもだ。



 2002年からアメリカ全土で実施されている、悪名高い No Child Left Behind が推進するstandards and accountability (基準とアカウンタビリティー) を軸にした教育改革も同じだ。簡単に言えば、各州にそれぞれレベルの高い学力到達基準を設けさせ、それに到達できた地区には更なる援助を、できなかった地区には制裁をという法律だ。継続して基準に到達できない学校は廃校となり、生徒には学校選択の自由が与えられる仕組みになっている。根本的な問いが頭に浮かぶ。基準を上げて報酬や制裁を加えさえすれば生徒の学力は伸びるのか?だとしたら、問題だったのは低基準とインセンティブの欠如のみで、教員たちがもっと頑張りさえすれば生徒の学力は伸びるということになる。頑張りの問題なのか?教員たちは生徒の学力を伸ばすための知識と技術を持っているのだろうか?研究を見ると、そうではないことがすぐにわかる。生徒の学力が伸び悩んでいる学校の教員たちは、どうしたら良いのかわからず困っているのだ。



 同じように、メリットペイに関しても教育界における有効性を慎重に考えなければならないのだ。次回はより具体的に教員のメリットペイを分析していきたい。



参考文献


Cohen, L. (2003). A consumer's republic. New York: Vintage Books.

Falk, B. (2000). The heart of the matter: Using standards and assessment to learn. Portsmouth, NH: Heinemann.

National Commission on Excellence in Education (1983). A nation at risk: The imperative for educational reform. Washington, DC: U.S. Government Printing Office.