2010年11月27日土曜日

愛音とどんぐり 2

 11月のある夕方、ベビーカーを押して近所のスーパーに買い物に行った時のこと。空を見上げると、何とも見事な月が出ていた。


   大裕: 「うわぁ~、愛音見てごらん!」

   愛音: 「あっ、おちゅきしゃま!」

   大裕: 「きれいだねえ」

   愛音: 「おっきい!」


ふと、愛音は太陽と月の関係をどう理解しているのだろうと思い、

   「愛音さ、お月さまは誰のことが好きか知ってる?」 と訊くと、 

   「と、うんと…。」 と一生懸命考える。


しばらくして僕が、

   「太陽さんだよ」 と言うと、

   「へぇ~」 と感心する愛音。


そして、「それでね、太陽さんもお月さまのことが大好きなんだよ」 
と言うと、愛音のテンションは急上昇し、

「そぅ!あいねちゃんね、
どんぐりさんがすきなの!!」


ほんとに好きなんだなと感心しつつ、僕はまたしても大笑いだ。


そして、

   「そっかあ。でもさ、どんぐりさんは愛音のこと好きなのかな。」

ちょっといじわるっぽく僕が訊くと、すぐさま、



と、あしたきいてみる!!」



「あいねちゃんのことすき?」「あいねちゃんのことすき?」 と、どんぐりにかたっぱしから声をかけまくる愛音をリアルに想像してしまった…。


2010年11月23日火曜日

愛音とどんぐり 1



ある晩、ベッドで愛音に姪っ子のまりなの話をしていた時のこと。


  「今年の夏は日本でまりなちゃんにいっぱいおんぶしてもらったね。

  まりなちゃんね、愛音みたいな小さな子がだ~い好きなんだって。

  大きくなったらまりなちゃんのお母さんみたいに幼稚園の先生に

  なりたいんだってよ。」


と僕が言うと、思い出してテンションが上がってきたのか、興奮気味に


「そぅ!あぃねちゃんはね、

おとなになったら

どんぐりになるの!!」 と愛音。



僕が大笑いしながら、


「そっか! でもなんで?」 と訊くと、


と、せっかくなのに(だから)!」



う~ん、大人には絶対にまねできない芸術的な子どもの感性…。

そのまま育ってくれー!!

2010年11月22日月曜日

真理を貫く

 『先生の教え』 というカテゴリーで紹介させて頂いている小関先生が、今年赴任された学校で孤軍奮闘中だ。時折先生から頂くメールには、「不良」 生徒たちを 「やっつける」 ことしか考えていない先生たちと、心を育ててもらってこなかった生徒たちの姿が綴られている。


 柔軟な子どもと比べ、大人を変えるのは難しい。積み重ねてきた歳月が心を固くし、いらないプライドが 「変わろう」 とする気持ちの邪魔をする。


 「自分はまだ何もわかっていない」 と認めることの自由、変われることの喜びを知らないのだ。


 進化することを拒む先生に子どもは教えられない。


 自分を変えるのは勇気がいる。


 その勇気を与えるのが先生なのだ。


 先生がその勇気を持っていなければ、子どもにその勇気を与えることなどできるわけがない。





 今日、小関先生からメールを頂いた。

夜遅くまで頑張っている新採の先生とこんな会話を交わしたそうだ。



   小関先生: 「先生は英語を教える先生だよね?」

   新採:    「はい…」

   小関先生: 「どうやって英語教えるか。難しいだろ?」

   新採:    「はい。教材研究頑張ってます。」

   小関先生: 「英語を教わりたい先生になること考えてる?」

   新採:    「は???」





小関先生は言う。

 どういう教育をどのようにするかという研究はたくさんされている

 でも本当に大事なのは どうしたら

 「あの先生に教わりたい」 と生徒達に思われる先生になれるか

 どうしたらそんな先生を育めるか



小関先生は言う。

 正しいことを教えても子供の心には入らない

 子供に教えるべきは 本当のこと


僕の心に入ったのも、小関先生の真理を貫くそんな教えの数々だった。

2010年11月21日日曜日

「約束」の意味 ~Revisiting “Responsibility” 3~

 ここ3回に渡って "Responsibility" (責任) の意味を問い直している。
僕にとって興味深いのは、Arendt の子どもの捉え方だ。Arendt にとって、「子ども」 は一時的な状態に過ぎない。彼女は、子どもを

“human beings in process of becoming but not yet complete”

「形成途中で未だ不完全な人間」

と表現している。そして、彼らが 「新しい」 のは、彼らの目の前に広がる世界との関係の中だけでのことであり、いつかは彼らも大人として子どもの産み出す力を育み、彼らに自分たちの古くなった世界の行く末を委ねる時が来るのだ。


Arendt は言う。


“Our hope always hangs on the new
which every generation brings.”


「我々の希望は常に新しい世代がもたらす新しきに懸っている。」


 『最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~』 で書いたように、自分は今まで責任を与えられる側からしか考えて来なかった。自分が常に与えられていたのだから無理もなかったのかもしれない。結果、無意識に僕は与える側、与えられる側に生ずる責任の関係を一方的に理解していた。つまり、責任を「与えられる側」だけに課されるものとして、そして心のどこかで、恩返しは与えてくれた本人にすべきものだと考えていたのだ。Arendt の考えは、僕の理解が不完全であったことを教えてくれた。


 亮太君帰国の朝、僕らは出発の数時間前まで飲んでいた。いろいろ振り返りつつ、彼が僕に対する感謝の気持ちを伝えてくれた。そこで、僕は今回の亮太君の訪問を通して自分が学んだことを告げた。


   亮太君が僕を必要としていただけではない。
   僕自身も、自分の責任を果たすために、亮太君を必要としていたのだ。



「私にできることがあるわ」と言った、Naraian教授の顔が思い出される。きっと彼女の使命感も、同じような所から来ているのではないだろうか。きっと、彼女も、亮太君を必要としていたのではないだろうか。


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 最後に、今回これを書くにあたって、一つ気になって調べたことがある。


それは、responsibility の中心的な要素である 「約束」 の語源だ。


ご存じの通り、英語では約束という意味を指すのに promise という単語を使うが、このpromise、本来は、

pro(前に) mise(送る)

という意味を指している言葉だそうだ。



語源を追及して浮かび上がってくる “responsibility” という言葉の意味…。それは、与える者と与えられる者が 「約束」 というバトンを前へ前へと繋いでいく姿だった。



- 完 -

2010年11月20日土曜日

「二重」の責任 ~Revisiting “Responsibility” 2~

 先日、 “Arendt, Greene, and ‘shu-ha-ri’: the Dialectic of Freedom” というタイトルの論文を書いた。時間を十分かけ、格闘の中にも楽しみと情熱を忘れずに書き上げることができた。ここでは、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント)の responsibility の概念に焦点を絞って語ってみたい。


 Arendt は大人には二つの responsibility があるという。一つは自分たちの世界に対する責任、もう一つは子どもに対する責任だ。


世界に対する責任
 まず、自分たちの世界に対する責任とは、「世界を子どもから守ること」であり 「古きを新しきから守ること」 だ。子どもに自分たちが守ってきた伝統や価値観を好き放題に壊させてはいけない、自分たちが歩んできた道のりにプライドを持て、もしくは持てるような生き方をしろと言うArendt の叱咤激励が聞こえてくるようだ。


 と同時に、Arendt がイメージする 「世界」 とは、そんなきれいごとだけでは済まない。善いもの美しいものだけではなく、悪しきもの醜いものもそっくりそのまま子どもに教えなければいけない。子どもたちはそうすることによって初めて、自分たちが受け継ごうとしている世界が発展途上で不完全だということを知るのだ。


 Arendt は更に主張する。全ての人間がいつかは死すべき運命にあるように、この世界も進化を止めれば死にゆく運命にある。そして、その進化を為し得るのはいつの時代も子どもだけなのだ。皮肉にも、大人たちは自分たちが守ってきた世界を慈しむが故に、子どもたちにそれを創り変えさせるのだ。


 こうして、世界に対する責任は徐々に子どもに対する責任へと融合していく。


子どもに対する責任
 Arendt は、子どもは “natality” (産み出す力)というものを持って生まれ、一人ひとりが新しさと革新の要素を持っていると断言する。そして、大人の責任とは、「子どもを世界から守ること」、「新しきを古きから守ること」 であり、彼らが世界を創り変えるための準備をすることだ。


 これらの分析から導かれる一つの結論、それは、世界に対する責任を全うすること(古きを新しきから守ること)は逆に子どもに対する責任を全うすること(新しきを古きから守ること)をも要求するということだ。


 これは、大人に課される 「二重」 の責任は、実は古きと新しきの間に存在する一つの緊張の関係であり、我々大人はその両端を包含する教育によってのみ、世界の存続を可能にすること意味している。

(続く…。)

最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~

 「あなたにとっての最大のテーマは?」 と誰かに訊かれたら、僕は間違いなく 「責任」 と答えるだろう。


 16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。


 以前にもこのブログにて、日本語英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来


    re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)

    「返す」     「約束する」     「能力」


という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。


「約束をもってお返しをする、

その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。


 しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。


 以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。


 しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。


 亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。


 その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。


“I have something to offer.”

「私にできることがあるわ。」

 
(続く…)

2010年11月17日水曜日

「生きているって楽しい!」 ~ 片岡亮太君のメッセージ ~


 2010年3月12日。妻の大学時代の後輩から一通のメールがあった。彼女の友人が、このたび奨学金を得て一年間アメリカに学びに来ることになり、行く場所や学ぶことを具体的に決めるにあたって相談にのってもらえないかということだった。その「友達」というのが全盲の和太鼓奏者、片岡亮太君だった。

 彼のブログを見た妻が感銘を受けメールしたところ、早速返信があった。「何とかしてあげたいんだけど」と言いながら見せられたそのメールに、僕自身も何か大きなエネルギーを感じ、自分にやれることは何でもしようと決意したのだった。


 この場を借りて少し彼の紹介をしたい。


 片岡亮太君、26歳。生まれつき弱視だったが、10歳で完全に視力を失った。その後、静岡の盲学校に編入。そこでの太鼓と出会いによって人生が大きく変わった。東京の全寮制の高校を経て、上智大学文学部社会福祉学科入学。勉強の一環として訪れた様々な福祉施設で、盲目という障害を抱える社会的弱者である自分に対して、多くのご老人や障害を持っている方々が心を開いてくれることに気付き、自分にしかできないことの可能性を実感し、勉強に励んだ。気付けば同学科を首席で卒業していた。その後、全盲にて和太鼓奏者、そして社会福祉士である自分だからこそ伝えられるメッセージと音楽があるのではという想いから、プロの和太鼓奏者としての道を進むことを決意。現在は日本中で活躍している。




 10月30日、その亮太君が我が家にやって来た。来年1月から僕の通うコロンビア大学ティーチャーズカレッジ(TC)にて科目履修生として入学することが決まり、下見のための訪問だ。


 運が良い…というのはおかしいのかもしれない。今回、彼の留学のために、本当に多くの人たちが動いてくれた。僕が所属する学部の教授たち、Office of International Study Servicesの人たち、TCそしてその他の大事な友人たち、太鼓繋がりの先輩夫婦、こっちで新しく出会った人々…。皆、彼の生き方に共感した人々だと思う。滞在中、何か信じられない幸運に出会うたびに、「今までの生き方は間違ってなかったね」と彼に言ってきた。ぼくたち家族にとっても、彼のおかげで様々な人々の優しさに触れた2週間だった。


 しかし、それらの人たちの協力で、彼にとって本当に贅沢で密の濃い2週間となった。TCの日本人留学生の皆さんの協力を得て、彼の訪問前には「片岡亮太君を応援する会」なるものを立ち上げてあったのだが、彼のウェルカムパーティーには約25名もの人々が参加してくれた。それ以外にも、様々な人たちが忙しいスケジュールの合間を縫って、交代ごうたいで彼のガイドを務めてくれた。TCでの授業見学、教授との面接、図書館での勉強、チャイナタウン見学、TC和太鼓愛好会の練習参加、そこでのパフォーマンス、NYマラソンでの彼らとのコラボ、ハーレムでのゴスペルやジャズの殿堂であるブルーノートでの音楽鑑賞、ブロードウェイでのミュージカル見学、NY在住日本人による子どもたちのプレイグループへの参加、視覚障害者施設や音楽療法センター見学とそこでのジャムセッション、メトロポリタンミュージアム見学、セントラルパークやコロンビア大学散策、アッパーウェストサイドでのディナー、本場ニューヨーカー宅でのホームステイ…。そして、帰国前夜にはTCのInternational Education Weekというイベントのレセプションでとりを務め、人々からstanding ovationを受けた。今回様々な形で支援して下さった多くの方々も応援にいらして下さっており、フィナーレとしてふさわしい、華々しい最後だった。その時の演奏はこちら



 そして、帰国前日、彼から応援してくれた人たち宛てにありがとうのメールが届いた。

 12日金曜日から二泊三日のDallasでのスケジュールも無事に終え、いよいよ僕の短期NY滞在ももうすぐ終了です。来年一月には帰ってくるとはいえ、寂しい気持ちを隠しきれないのが正直なところです。本当にあっという間、もないほどに、凝縮された濃密で充実した、素敵な時間をすごさせていただきました。TCで学んでおられる方たちはもちろんのこと、それぞれに皆さんがお忙しい日々をすごしているにもかかわらず、僕にお力を貸してくださったおかげです。本当にありがとうございました。心から感謝しています。本日7時から、TCのGrace Dodge Hall (GDH) 179で行われるイベントでの演奏で(僕は20時半くらいの演奏の予定です)、皆さんへの思い、今ここにいられることの幸せを音にこめたいと思っています。お時間がおありな方はお聞きくださるとうれしいです。

 今年2月、ダスキンの奨学金に合格し、どんなチャレンジをしようかと考え、「音楽家であり、障害や福祉についてのメッセンジャーでもある存在でいるために、改めて勉強をしたい」と考え出したことからはじまった新たな歩み。大学時代の友人を通して大裕さん、琴栄さん夫妻と出会わせていただき、Teachers Collegeで障害学を学ぶチャンスを得られたことは、信じがたいほどの偶然の重なりの結果でした。けれど、そのことを心からありがたいと思う反面、話が進めば進むほど、僕の心には、大きなチャレンジが具体性を帯びていく中で生まれる、さまざまな不安が影を落としていました。


 「英会話が得意ではない、大学卒業後は学問にほとんど触れていない、外国も一度しか行ったことがない…、そんな自分に一年間もアメリカでの生活なんてできるのか?でも、奨学金をもらうのだし、自分は何かを伝えていく使命があるはずなのだからがんばらなくてはいけないんだ。」そのような自問自答を何度も繰り返しているうちに、僕の心は自由さを失ってがんじがらめになっていました。何もかもが怖くなってしまい、身動きがとれない日もありました。


 そんなとき、大裕さんからのメールで、皆さんが僕をサポートするために手を上げてくださっているという連絡をいただいたのです。想像もしていなかった出来事に、うれしい気持ちと感謝の気持ちがあふれ、胸が熱くなりました。今も、あのときの不安と、今回皆さんがくださったたくさんの暖かさを思い出すと目が潤んでしまいます。皆さんに伝えるべき感謝の言葉がうまく見つけられないほど、心からありがたく思っています。あのときから、僕の心にはまた大きなエネルギーが戻ってきました。


 こちらに来る直前に、奈良市内にある中学校で公演をさせていただきました。「道を進む」と題し、太鼓の演奏と僕の話を聞いてもらうというものでした。その準備として、中学生に何を伝えたいのかについて考えていた際、改めて僕が歩んできたこれまでの道のりを思い起こしていました。そして、僕が見てもらいたいこと、伝えていきたいことは、「生きていることの尊さと喜び」なのだということに気づきました。


 弱視で生まれ、絵を描く喜びに目覚めた10歳のときに失明し、どうしようもない悔しさや絶望に近い感情を知りました。生きることを止めてしまいたいと思ったこともありました。けれど、11歳で太鼓に出会えたころから、僕の心に新たな光がさし、たくさんの喜びに触れ、たくさんの出会いを経験し、すばらしい出来事を全身で味わうことができる人生をこれまで歩んでこられました。そして、今新たなチャレンジとしてアメリカという大きな舞台に足を進めようとしています。当然、一筋縄ではいかないこともありましたし、それはこれからも同じだとは思います。けれど、それも含めて、「楽しい」と胸をはれる今があることは、間違いなく僕がずっと行き続けてきたからです。生きていればもちろんつらいことにも出会うけれど、最高の幸せにも出会える。小中学生が生きていることをやめてしまう今、僕に伝えられることは、生きることは無限の可能性に満ちているということ、それを言葉だけでとどめないために、僕自身がすべてを楽しんでこれからも生きていきたい。障害学を学ぶことは、使命ではなくて、僕が片岡亮太という人生を楽しむ大きなエッセンスなのだと今は考えています。だからこそ、真剣に取り組もうと強く思っています。


 「生きているって楽しい」というメッセージを伝えていきたいと考えながらすごしたNYでの短期滞在は、輝きに満ちていました。知らなかったこと、知ろうとしていなかったことにたくさん出会えました。皆さんとお話させていただいた言葉の一つ一つが僕の心を楽しくしてくれました。その中で、「片岡亮太はこういう人間だ」とか、「自分の演奏はこういうものでなければいけない」など、気づかないうちに重ね着をしてきたこだわりという服に気づき、それらを脱ぎ捨てることで何もかもを楽しみ、その楽しさをまっすぐに表現したいと考えている自分の心の核の存在を今まで以上に強く意識することができたように思います。「自分の内側を耕してきたい」とダスキンの面接の際に話していたのですが、心の核を覆っていたたくさんのものに気づくことができた今、耕す準備ができたと思っています。一月からの学びのスタートを前に、このような状体に自分を持ってくることができたことを、心からうれしく思います。皆さんが、お忙しい中僕をさまざまなところにガイドしてくださったこと、TC内でお声がけくださったこと、素敵な時間をアレンジしてくださったこと、さまざまな言葉をくださったこと、すべてに感謝しています。ありがとうございました。

 滞在中にすばらしい条件のアパートも見つけることができ、最高のコンディションで一月からのスタートに備えられます!明日帰国し、再びこちらに戻ってくるまでの時間も、たっぷり楽しんで、いよいよ始まるチャレンジを端から端まで楽しく味わいつくす準備をしてきます!ぜひ来年TCなどで僕を見つけてくださったときには、声をかけていただけるとうれしいです。そして、たくさんお話させていただければ幸いです。


 長文にて失礼をしました。NYはこれからどんどん寒くなることと思います。どうかご自愛ください。約二週間、本当にお世話になりました。これからもよろしくお願いします!!


    心からの感謝を込めて

        亮太





 溢れる想いというのは、こういうことを言うのだと思う。帰国前夜、出発の数時間前まで彼と酒を飲んで語っていた時、前回紹介した『第五の山』のquoteを思い出していた。
心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、彼らは理解しているからである。 
 生きることの喜びを伝える亮太君のメッセージと太鼓は、きっと多くの人々の心に響き渡ることだろう。

2010年11月13日土曜日

宗教における守破離 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 6~

 前回再投稿した 『信仰と自由の関係』 に対して、マサさんがコメントを下さった。彼の真っ直ぐな人柄が伝わってくる、真摯で批判的なコメントだった。彼のコメントを読みつつ、自分が何故、「宗教」 を持ちだしたのかを思い返してみた。そして、そうすることが、小関先生との出会いが僕の宗教観を如何に変えたかということを確認する機会を与えてくれた。


 僕にとって、『信仰と自由の関係』 を書くこと、それは自分の過去の宗教観を問い正すことだった。


 僕の宗教に対する考えは小関先生に出会って完全に覆された。


 冒頭の、「神を信じる人間はきっと自由なのだと思う」 というあの言葉、小関先生に会う前の自分だったらきっとこう言っていただろう。


 「神を信じる人間はきっと心が弱く、不自由だと思う。」


 小関先生も僕と同じように、ある特定の宗教をいらっしゃるわけではない。ただ、宗教に対する深い理解を持っていらっしゃる。それはご自分が、自分自身の先生を信じる感覚と宗教家が神を信じる感覚は似ているのではないだろうかという推察からだ。


 ここで僕が取り上げているのは 「何を」 信じるかではなく、信仰される対象の説得力の問題でもない。僕の興味の中心にあるのは 「どのように」 信じるかということであり、「信じきる」 ことから生まれる精神の自立だ。


 そして、それは宗教にも守破離を見出すことができるのではないかという一つの可能性を示唆している。


 世界中に散らばる無数の宗教を、「宗教」 という名目の下ひとくくりにするのはある意味馬鹿げているし、だからこそ前回の投稿で誤解を生んでしまったのだと思う。


 なので、ここでは 「宗教」 という institution ではなく 「神」 として、神の側からではなく個人の側から、人が神を如何に信じるかという個人的な体験として考えていきたい。





 先ほども述べたように、僕は、神を信じるという行為にも守破離という道筋があるように思う。


 意味も分からずにただハイハイと教えを守るだけの 「守」 から始まり、自分の行動を制限するだけでしかなかった 「枠」 が、いつしか精神の 「芯」 として内在化されていく。初めは困った時だけ、注意した時だけ守っていた神の教えは、いつしか自分の生活における全ての軸をなすようになるだろう。


 自分の弱さとの葛藤が消えることはないが、もはや迷いは消え、目指すべき所、今なすべきことが自ずと見えるようになる。教えには書かれていないことにも神の意志を問うようになり、神との対話から自分の行動を決定するようになるだろう。

 そしていつの日か、神の教えに挑む時が来るのではないだろうか。「挑む」 と言うと傲慢で挑戦的に聞こえるかもしれないが、根本にあるのは謙虚さと共に、我々人間にどれだけ神の言葉や行いを理解することができるのかという問題意識でもある。よって、挑むということは神の意志を真に理解しようとする、譲れない信仰心を持つ者にしか為せないことだ。


 僕の大好きな作家の一人に、パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいる。『アルケミスト』、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』、『星の巡礼』など、数多くの素晴らしい作品を世に送り出してきた作家だ。彼の作品の中に、『第五の山』 という宗教と深く関わる本がある。最後に、その中の一節を紹介して終わりにしたい。そこに描かれているのは宗教における守破離のプロセス、そして信仰と自由の関係であるように思えてならない。



 時には、神と争うことも必要なのだ。
人間は誰でも、その人生で悲劇に見舞われることがある。
住む町の崩壊、息子の死、誤った告発、病気による体の障害などだ。
その時神は、自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。


「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生に
しがみついているのだ?お前の苦闘の意味は何なのだ?」

 この質問にどう答えるかわからない者は諦めてしまう。
一方、神は公正でないと感じて、存在の意味を求める者は、
自分の運命に挑戦する。天から火が降りてくるのは、その時である。
それは、人を殺す火ではなく、古い壁をひき倒して真の可能性を
それぞれの人に知らせる火なのだ。臆病者は絶対に、
この火が自分の胸を焼くのを許そうとはしない。彼らが望むのは、
変わってしまった状況がすぐにまた、元通りになって、
それまで通りの考え方や生き方で生きていくことだけなのだ。
しかし、勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、
どんなにつらくとも、神をも含めてすべてを捨てて、前進し続けるのだ。


 「勇敢な者は常に頑固である。」


 天界では神が満足の笑みを浮かべている。
なぜならば、神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、
自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。
それは、自らの行動を選択し、決定する能力である。


 心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を
持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、
彼らは理解しているからである。 pp. 219-220




2010年11月6日土曜日

信仰と自由の関係 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 5~(再)

 

 神を信じる人間はきっと自由なのだと思う。


 僕は、神の存在を信じているが、信仰する宗教はもっていない。

そんな自分が宗教を語るのはおかしいかもしれないが、 「自由を捨てて自らを解き放つ」 というタイトルは、人が神を信仰するプロセスに通ずるのではないかと思う。神を信仰するということは、様々な欲望を抑え、厳しい神の教えに従うということだと思う。でも、それは自由を失うということではないように思う。


 宗教にはいろいろあるし、一概には言えないのは分かっているが、僕がイメージする宗教を語ってみたい。僕が思うに、宗教を信仰するということは神の教えを内在化させることであり、それによってもたらされるのは精神の自立だ。神の教えが自分の中の 「絶対」 となれば、それは周りに流されない信念を与えてくれるだろう。その信念は自分を神の教えに閉じ込めるのではなく、逆に新たな考えや世界へと踏み出す自信となるだろう。迷いは消え、自分の弱さとの葛藤のみが残るのではないだろうか。




 僕が言う 「先生を持つ」 という感覚は、きっと宗教家が 「神を信じる」 という感覚と似ているのだと思う。先生の教えを内在化させるということは、いつであろうがどこであろうが先生を意識して行動することに他ならない。アメリカにいる今でも自分に問いかける。 「今、小関先生がこの場に入って来られても、自分は胸を張っていられるだろうか。」 そう問い続けることが、自分を鼓舞し、正しい方向へと導いてくれるように思う。


 これを読んでくれている人たちの中でも、僕と小関先生の人間関係を理解できない人も少なくないのではないかと思う。そんな不安もあり、このブログで小関先生のことを書く時にはあえて敬語を使って来なかった。このブログの投稿記事数は今回で109になるが、少なくとも5回に1回は 『先生の教え』(計25本) について書いていることになる。[注: 2010年11月6日現在では209本中の52本だ。]


 『自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~』 で、剣道部の生徒たちがいかに小関先生に洗脳されているように周りに映るのかを書いたが、間違いなく自分も周りの教員からはそう見られていた。生徒の前であろうが呼ばれればダッシュで駆け付けたし、夜中だろうが何をやっていようが携帯で呼び出されればすっ飛んで行った。夏休み中、長野の山奥の山小屋に妻を一人残して、 「いざ鎌倉!!」 と言わんばかりに埼玉まで関東大会の応援に駆け付けたこともあった。


 もしその人が間違った方向に導いていたら…、そこまで一人の人間を盲目に信じることは危険なのでは…、と思う人もいるかと思う。だが、僕にとってそんな不安はさらさらない。これはいつか書こうと思い続けてきたことだが、実は小関先生にも二人の先生がいるのだ。一人は大学時代の剣道部の先生である塩入先生。もう一人はまだ船橋市の教員だった頃から師弟関係のある奥村先生だ。二人とも超一流の教育者だ。


 小関先生は言う。


    「俺が言っている言葉は全て先生たちの言葉だ。」


 僕が小関先生に絶対の自信を持てるのは、小関先生自身が自分の先生に学び続け、自分を問い続けているからだ。自分はこれで良いのか。先生だったら何とおっしゃるだろう?


 また、奥村先生も、小関先生の道場の控室に飾ってある奥村先生の師匠の写真を見ながら、 「俺が語っているのは全部爺さんの言葉だ」 と何とも優しい目でおっしゃっていた。


 だから、こうして僕が崇拝している教えは、歴代の先生方によって、何十年、何百年と受け継がれ、磨き継がれてきた 約束のバトン だと思っている。それは決して完成されたものではない。でも、未完全で、満足されることなく追い求めてこられた教えだからこそ、自分は身を委ねることができるのだと思っている。


 小関先生は生徒にも平気で自分が打たれる姿を見せる。


 奥村先生は、よくうちの中学校の道場に顔を出される。大会前などになると、防具をまとい剣道部の生徒に稽古までつけて下さる。そんな時、小関先生は決まって自身も防具をつけ、真剣勝負を挑む。そして無惨に打たれる生身の姿を生徒に見せるのだ。


「お前たちだけじゃない。自分だって修行中の身だ。」 


そんなメッセージを生徒に送り続ける小関先生の教えには、何にも勝る説得力がある。

2010年11月4日木曜日

型は進化する ~Re: 古典的奏法から得られる身体運動の無限の可能性~

 先日マサさんが紹介して下さった締め太鼓の打ち方に見られる可能性から、型の理解を深めたいと思う。


 マサさんの見解やシェアして下さった動画から、締め太鼓の古典的奏法が、一見不自然に見えつつ、実は理にかなっていて様々な応用が可能なすばらしい打ち方であることが分かる。


 この気付きに表れているのは、武道や芸能における 「型」 の重みだと思う。そして、この理解こそが、マサさんが危惧する現代和太鼓音楽の行き詰まりや、源了圓氏が指摘する高度成長の激動で日本が陥った「型なし状態」の危険性を打破するために欠かせないものなのではないかと考える。


 「守・破・離」の前の「信」のコメントで竹越さんが、「過去の叡智の積み重ねの上に成り立っているサイエンス」 における 「守」 の必要性についてシェアして下さった。また、それとは別に、最近仲良くさせて頂いている伊喜利さんが、型を 「最大公約数」 という表現で理解されていた。


 ここで大事なのは、型を静的で arbitrary なものとして理解するのではなく、長い長い歩みの中、先達によって積み重ねられ、時代の流れに合わせて進化してきたとする理解だ。その意味で、竹越さんが紹介して下さった、ニュートンの "Standing on the shoulders of giants." という言葉は非常に的を得ている。大事なのは、"Standing on the shoulders of giant." ではなく "giants" となっている所なのではないだろうか。思い描かれるのはたった一人の偉大な創始者ではなく、各時代を築き、繋いできた巨匠たちの姿だ。


 逆に、伝統や型を無視するということは、先達が歩んできた道を否定し、積み重ねてきた叡智を無視することになるのではないだろうか。マサさんの 「入門者がその持ち方をすると数時間で肩がばりばりに固まり、腕が上がらなくなる。」 という指摘からも分かるように、そもそも、型の真の大切さは守りきった者にしか分からないのだと思う。だから入門者には有無を言わさずやらせるしかない。それを最初から、型が何故大事なのかと問うたり、型を避けて通るのは間違っている。


 最近僕が格闘し続けているHannah Arendtは、次のように主張する。大人たちは、自分たちの生き方や先祖から受け継いできた伝統を子どもたちに有無を言わさず教え込むのだ。そうして型にはめることによって初めて子どもたちは、いつしか自分たちが受け継いだ世界の美しさや守るべき善だけでなく、醜さや改善すべき悪をも理解するだろう。そこに新しい光がもたらされる。立ち止り、進化を止めれば死にゆく運命にあるこの世界も、子どもたちが持って生まれる natality (産み出す力) によって変わることができる。それが世界が生き続ける唯一の方法なのだ。


 だから彼女は、子どもたちが為すべきことが Creation (新しい世界の創造) だとは言わない。常に Re-creation なのだ。そのこだわりに託されたのはこんなメッセージではないだろうか。


世代交代によって新しい世界が創られるわけではない。

新しい世界へと創り変えられるのだ。




2010年11月3日水曜日

型の内在化: 「枠」 から 「芯」 へ  ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 4~(編)

 前回、 「守・破・離」 における型とは自分の行動、思考、信念を制限する 「枠組」 みではなく 「精神の芯」 であると書いた。ただ、修行を始めたばかりの者に、「型とは枠組みではない!」 と言っても理解できないと思う。


 僕自身にとっても、小関先生から与えられた型を守ることは、最初は息苦しくて仕方なかった。小関先生の教えに学ぶことは自分で選んだ道だったが、理解できないことばかりで、言われる通りに従うだけだった。英語の授業をしていても、グランドで野球部の練習を指導していても、小関先生にどこからか見られているのではないかと、いつもビクビクしていた。


 当時の自分にとっては、型とはまさしく自分らしさや 「自由」 を制限する枠組みでしかなかった。しかし、何年目だったかは分からないが、枠組みがいつしか自分の 「芯」 へと変化していたのだ。きっと、毎日まいにち守り続け、先生の教えを刷り込まれるうちに、型が内在化された結果なのだと思う。






 自分の教えを振り返ると、僕が野球部の指導で達成できなかったのはこのステップだったのだと思う。枠を与えることはできた。しかし、それを生徒たちが内在化する所までは持って行けなかった。そのために、僕の意図する教えが彼らの心にまで浸透することはなかったように思う。


 だから、生徒たちはグラウンドでは礼儀正しく一生懸命やっていても、練習以外の時間では服装を乱したり、僕が練習に出られない時は雰囲気が緩んだり、少なくとも学校の敷地の中ではちゃんと教えを守れるようになっても、家に帰ると大会前でも怠惰な生活をしたりして本番で力が発揮できなかったりした。


 野球部顧問として、僕が最後まで苦悩し続けたのは技術指導よりも心の指導だった。どうしたら、人の想いを背負って今という瞬間を大切にできる一流の人間を育てることができるのか…。自分が最終的に目指したのはそこであった。


 今考えてみると、僕の教員生活の大半は、理由も分からずに生活指導をしていた。


   学校生活でも服装を正しなさい。

     挨拶をきちんとしなさい。

       自分の身の回りを整理整頓しなさい。

         時間を守りなさい。

           汚れたユニフォームは自分で洗いなさい…。


 見た目ではなく、自分の内面から滲み出る個性、自律の精神、感謝の心など、これら全てが理解できて初めて僕が目指していた人間の育成が可能になること、そして、それは選手たちにとって、周りの中学生だけじゃなく、時に周りの大人をも超える人間性を身につける必要があるということに気付くまでに何年もかかった。そして気付いたところで、その教えを枠から芯へと導く力は自分にはなかった。これは自分が彼らの「先生」になれなかったことを意味している。


    悔しい…。


でも、だからこそ、今でもそこを目指している自分がいる。

2010年11月2日火曜日

「枠」 ではなく 「芯」 ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 3~




型とは 「枠組み」 ではなく精神の 「芯」 である。


 ここ数回に渡り、 「守・破・離」 の教えにおける型と自由の関係について考えてきた。このテーマの最大のチャレンジは、真逆とも取れる 「型」 と 「自由」 が実は共存するということを言葉で説明することだ。いろいろ考えたあげく、難しさの一因は 「型」 が持つイメージにあるのではないかという結論に至った。


 型というと、一般的には形を決めるための「枠」のことを指すのではないかと思う。もし型を枠と捉えれば、確かにそれは自由と相対するものになる。こうしなければいけない、そうしてはいけない、これが正しい、それは間違っている、これが必要、それは不要…というように、自分の行動、思考、信念など全ての自由を制限するだろう。


 しかし、もし型を 「精神の芯」 と捉えたらどうだろう。その場合、型は行動、思考、信念の枠組みではなく土台を意味する。「守・破・離」 の教えにおいて、自由とは 「精神の自立」 を意味するのではないだろうか。



あとがき (2010年11月2日)

 前回も紹介した 『武の素描 ~気を中心にした体験的武道論~』 という本で、筆者である大保木輝雄先生は次のような結論に至っている。



技の歪みを正し、身体を正すことによって、

何物にもとらわれない自由な心の在り方を会得させる、

それが剣術の 『かた』 習いの本義であった。




 今度改めて紹介したいと思うが、この前も書いたように、先週の土曜日から約2週間の予定で、盲目の和太鼓奏者、片岡亮太君が日本から我が家に来ている。滞在2日目、Teachers Collegeの太鼓愛好会の練習会で彼のパフォーマンスを聴く機会があった。彼の演奏は、DVDでは観たことがあったが、ライブは初めてだった。音楽を言葉で説明するとどうしてもチープになってしまいそうなので避けたいと思うが、少なくとも、彼のビートが和太鼓が好きでそこに集まった人たちの心に鳴り響いたのは確かだった。


 演奏後、音楽療法師である僕の妻が言ったことの中で、一つの言葉が僕の頭から離れなかった。


   「軸がぶれないよね」


亮太君は嬉しそうに、意識しているんです、と答えた。


 そんな亮太君も、そこにたどり着くまでには相当の苦労があったようだ。最初のうちは、師匠である仙堂新太郎先生にいつも叱られていたらしい。


「おまえは太鼓の前に立つだけで体が硬直しているように見える。」


 自分ではそんなつもりは全くなかったらしいが、どうやら、目が見えないがために物にぶつかる恐怖心が体に染み付いてしまっていたらしい。思考錯誤を繰り返したが、先日ゲストとしてこのブログに登場してくれた、亮太君の良き兄貴分でもあるマサさんの助言で始めた 「ゆる体操」 という筋肉のマッサージが大きな転機となった。それにより、硬直していた筋肉の質が変わり、「軟体動物」 のようになったという。


 体をリラックスすること、そして体の軸だけに意識を持って行くようになってからというもの、驚くべき変化があったそうだ。


 まず、駅前などで停めてある自転車などにぶつかっても、それまでのように自分が倒れることが無くなった。古武術のように、体に衝撃を受けても、まるでカーテンのように体が衝撃を後ろに逃がすのだ。面白いことに、意識を体の末端から軸へと移すことによって末端は解放されるのであった。


 もう一つ、亮太君を驚かせたことがあった。それまでは、何台もの太鼓を使って演奏する時、意識は自然と体から遠い所にある太鼓に向かっていた。しかし、いくら遠くの太鼓を意識しようともなかなか正確には打てなかった。それが、逆に意識を中に、体の軸へと向けるようになってからは、亮太君のバチは不思議なくらい正確に、遠くの太鼓をとらえ始めたのだそうだ。


 何故僕がこんな太鼓の話を持ち出すのか。それは外から内へと意識のベクトルを変えることによって解放された亮太君の姿が、小関先生という自分の芯を持つことによって外に散らばる 「正解」 の呪縛から解かれた自分の姿と重なったからだ。


 型が 「枠」 から 「芯」 へと変わっていく過程、それは無秩序であった一つひとつの行動が軸を中心に回り始め、小宇宙としての摂理が生まれていく過程を表しているように思う。