2009年10月9日金曜日

自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~

教員2年目、全校集会でのことだった。剣道部の地方大会優勝の表彰が全校の前で行われた。

「剣道部!」と司会の先生に呼ばれると、剣道部の子どもたちは「はい!!」と力いっぱい息の合った返事をし、すくっと立ち上がった。男子は全員丸坊主に「上げパン」、女子は「剣道部カット」にスカートひざ下10cmで揃えた子どもたちが、軍隊が行進するように壇上に上がっていった。全校が静かに見守る中、後ろの方でウケを狙った三年生の生徒がおどけて言った。

「出たっ、小関教!!」

ふざけたつもりのそのコメントは、ある意味的をえていた。流行に乗り、服装や髪形などで何とか自分の「個性」をアピールしようとする思春期の子どもたちにとって、剣道部のようにしっかりと「型」にはまった子どもたちは理解できないのだ。きっと洗脳されているようにしか見えないのだろう。

全校集会で生徒たちを観察してみる。どの生徒も自分のピーアールで必死だ。髪のゴムの色を人と変えてみたり、髪を立ててみたり、Yシャツのボタンを開けてみたり、上履きに色を塗ってみたり、名札に飾りをつけてみたり…。

でも不思議なことに、そんな中でひときわ目立つのは、型にはまっているはずの剣道部の子たちなのだ。服装がちゃんとしているだけでなく、顔つきも、話を聞く姿勢も、雰囲気も全然違う。校歌斉唱などでは、お経を唱えるように歌う周りの生徒たちに構わず大声で歌っている。思春期真っ盛りの子どもたちにとって、周りの目を気にしないということがどれだけ大変なことか想像つくだろうか。

剣道部の一年生の中には、仕方なくやっている子もいるかもしれない。だが、上級生になればなるほど、周りの生徒たちと同じことをしていては一流になれないと信じ切っている。流行や世間に流されない信念を持っているのだ。

個性とはいったい何なのだろう。少なくとも、剣道部の子どもたちの中には、確実に個性が芽生える土壌ができているように感じる。




あとがき

いつも剣道部の子どもたちを引き合いに出して話をするが、僕は自分が指導させてもらった野球部の子どもたちも誇りに思っている。まだまだ教師として未熟だった自分に良くついて来てくれたと思う。野球を通して出会った素晴らしい子どもたちが、教師としての自分を成長させてくれたことは間違いない。

ただ、自分の指導に満足していないのも事実だ。決して手を抜いたわけではない。胸を張って自分のベストを尽くしたと言いきることができるし、実際に数多くのチームの顧問の先生方に選手たちの元気の良さ、礼儀正しさや、丹念に整備されているグランドを褒めて頂いた。

でも、自分が理想とする指導ができたかと言うと、そうではない。自分が成長すればするほど、今まで見えなかった新しい問題が見えてきてしまうのだ。小関先生の指導を常に目の当たりにしていた自分にとって、これは当然なことだったのだと思う。

僕にとって、小関先生はつまずきの石だった。そしてそれは幸運なことだった。

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