2011年9月4日日曜日

教師の存在意義

新たな学びに触れる前にと3日間で9件の投稿をして、丸のシリーズを何とか書き上げたのが8月26日。翌日から1週間の予定でベルギー及びハンガリーに行ってきた。今回の旅行のことについても早いうちに書きたいと思っているさなか、小関先生から一通のメールが届いた。




この夏、市内の教員のほぼ全員が集まる研修で、教育長が放った一言についてだった。



    「大震災の教訓から、『自ら判断して行動できる生徒・児童』を育てなければ…。」



どうやら発信元は文科省かどこかわからないが、全国一斉の動きだったようだ。



小関先生はその時のことを次のように語った。



   どの先生も頷きながら聞いていた姿は本当に滑稽だった。
   そんな生徒が本当に育ったら、間違いなくごく一般の先生方には、やっかいな生徒だ。



僕は思った。そもそも、多くの先生はそのような生徒を育てられるわけがない。これについては以前にも 『叱るとは愛すること』 で書いたが、臨機応変に動ける生徒を育てることは、実は最高レベルの難易度にある教育目標だ。



そして、もし何かの間違いでそのような子たちが育ったとしたら、その時は間違いなく 「やっかいな生徒」 として扱われるだろう。



残念ながら、多くの先生たちは、子どもが子どもであり続けることを必要としている。いつまでも 「大人」 である自分の言うことをはいはいと聞き、どんな時も自分の指令を待つ優等生を作ることによって、「先生」 であろうとするからだ。



しかし、そのような教員はいつまで経っても 「先生」 になることはないのだと思う。そもそも、「先生」 なんて自分の意志でなれるものではない。決めるのは生徒だ。



Hannah Arendt が言うように、教師というものは全ての大人の代表だ。そして、教師の存在意義は、最終的に自分を必要としない生徒を育てることにある。



だから、教師の仕事にはビタースウィートな別れがつきものだ。



でも、それさえもが嘘だということを、Mr. Walker が身をもって教えてくれた。



別れなど、本当はない。

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