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2015年2月23日月曜日

小学生らが残酷画像を盗み見したことで問われる教員の管理責任!?



先日、Facebookでこんな記事を目にした。


三重桑名市教育委会は18日市立小学校の授中に激派組織イスラム国関連の画像をパソコンでた5年生11人が分がくなり保健室で休憩したと表した担任教が教室をれた索したとい市教委は子どもが心を持つことは十分に考えるべきだったとしており学校が全校童の保者に罪文を配った
               
生徒たちが別れて学習していた二つの教室を教諭が行き来していた際に、イスラム国に殺害された後藤健二さんの名前をコンピューターで検索したのだという。その記事は、こう締めくくっている。

学校は今後クラスの全を教らが家庭訪問して罪と明をする当面のスクルカンセラに心のケアをしてもらとい

元教員として、この学校で働く教員を気の毒に思う。この対処の方向性を決めたのが市教委なのか校長なのか知らないが、私だったらそんな器の小さいリーダーシップの下で教えたいとは思わない。きっと、学校自体が地域との信頼関係を築けていないんだろう。

もし、私がその子達の担任だったらどのように対処していただろう。

間違いなく学級会を開いてその子たちを叱っていたと思う。

もし私が学年主任だったら、学年集会を開き、生徒指導主任だったら校長に頼んで全校集会を開いて、一大事として取り上げていたと思う。いっそのこと親たちも招いた方がいい。

でも、私にとっての問題は、教員の管理責任や、時と場所をわきまえろなどということなんかじゃない。子ども達が観たか観なかったかを問題にしたいし、「命」について語りたい。

興味本位やその場のノリで人の死を、しかも同じ国で生まれ育った人間の死を、鑑賞対象として客観視できてしまうところに、子ども達のイマジネーションの無さと危機感を感じる。

殺された後藤さんの母親はどんな気持ちなのか

奥さんはどのような想いで彼を送り出し、彼の帰りを待っていたのだろうか

後藤さんの子ども達は、今後どんな想いで育っていくのだろうか。

こういうことは、我々大人が、子ども達に考える機会を与えていかなくてはいけないと思う。

この件では、しきりと教員の管理責任が問われているが、今のようにネットでありとあらゆる情報や画像が閲覧できる時代に、いくら管理しようとしたところで限界がある。もし、本当に子ども達をネットから守りたいのであれば、彼らを育てることだ。

私が、恩師である小関康先生の子どもたちとの係わりを見て学んだこと...それは 、究極の「管理」は「信頼」なのだということだ。随分前にも、こんなことを書いたことがある。

人を管理して、人は育つのか。

教育の場において、真の管理とは委ねることであり、育てること。

一番良いのは、あえて見られる状態にしておいて、「見ようと思えばいつでも見られる。でも考えろ。」という先生の一言を子ども達が真剣に考えることだ。



話を戻そう。もし、私が書いたように、今回のような事件への対処として学級会や全校集会などを開いて一大問題として扱うことにしたら、おそらく他の教員や管理職や保護者たちに反対されることもあるだろう。でも、そうしたら、信念もってぶつかればいい。子ども達のために、自分が信じていることを一生懸命やればいい。仮にその過程で、自分が子どものように他の大人に叱られて、へこんでも、それをしっかりと生徒たちに見せればいい。

小関先生が、初任校の最初の卒業生たちに言われたという言葉を思い出す。

「先生は、私たちのためにたくさん叱られてくれましたね。」

子ども達はちゃんと見てる。

「最後は子どもの心を掴んでる奴が勝つんだ」という小関先生の言葉通りだ。下手クソでも下手クソなりに一生懸命やる。そうしたら、いつの日か必ず返ってくる。

今、子や親の前で萎縮して、勝負できない教員や管理職が増えている。

新自由主義が入り込んで、親や子が教育の「消費者」となり、教員や学校が「サービス提供者」となってしまう中、「人を育てる場所」としての学校の第一の使命が機能しなくなってきている。私は、何よりもそのことに最大の危機感を感じている。

国の首相が戦争をしたがっているこんな時にこそ、今回の人質殺害事件のような事柄を、教員が、大人の代表として、大事に拾い上げて、子ども達に考えさせる機会を作ることが必要なのだと思う。教員時代、新聞もニュースもろくに見てなかった自分のことが悔やまれるが、こんな時だからこそ、大人の代表として子ども達と毎日接する教員が、教養ある人間として、社会の問題に関心を持って語って、自分自身の頭で臨機応変に考えることのできる子どもを育てていかなければならないと思う。


2015年2月2日月曜日

Kenji's prayer: The words that the beheaded Japanese journalist left behind.



"Close your eyes, and stay patient.

It's over once you get angry, and lose it.

It is close to a prayer.

Hatred is not our karma;

Judgment belongs to the realm of the gods.

They were my Arab brothers who taught me that."


So read a past tweet by the beheaded Japanese journalist, Kenji Goto. 
I am sending my love to Kenji's loved ones, my foreign friends, and especially our Muslim brothers and sisters around the world who send their prayers to his family and people in Japan. 


「イスラム国」に殺害された後藤さんの過去のツイートが注目を集めている。


「目を閉じて、じっと我慢。

怒ったら、怒鳴ったら、終わり。

それは祈りに近い。

憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。

そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」

2015年1月31日土曜日

日本は9.11の悲劇を利用したアメリカの後追いをしてはいけない




「安全と引き換えに、私たちはどのくらい自由を諦める覚悟があるのだろうか。社会の安全を保障することと社会における自由を保障することの間にはどんな関係があるのだろうか。」[1]

アメリカは、「テロとの戦争」を口実に、憲法で保障されている筈の報道の自由、国民のプライバシー、法に基づく適正手続き等を、「社会保障」の名の下に積極的に侵害してきた。冒頭の言葉は、アメリカによるテロとの戦争の取材を続けるJeremy  Scahillの言葉だ。今回の「イスラム国」による邦人人質殺害事件をきっかけに、日本がアメリカ率いる「テロとの戦争」に参戦し、最終的に、日本国家による国民の自由の侵害が強まるのではないかと私は危惧している。

私は、16歳で初めてアメリカに留学して以来、間はあいたものの、アメリカでの滞在期間はかれこれ15年ほどになる。その間、富と貧困、寛大さと厳しさ、自由と迫害、保守と革新、そして他文化に対する寛容と差別など、若く、巨大で、多様なこの国が抱える矛盾に戸惑い、また魅了されてきた。また、アメリカでエリート教育の恩恵を受け、その懐の深さに感銘を受けると同時に、社会のエスニックマイノリティーとして、世界のリーダー的存在であるアメリカの栄光の裏にある暗闇にも、いつも意識のどこかで気づいていた気がする。現在は、教育学の研究に携わる中、社会やグローバルの大きな流れがいかにアメリカの教育情勢に影響を与えているかを検証している。これまでも、福祉国家から新自由主義国家への移行がどのようにアメリカの教育政策に表れてきたか、新自由主義の台頭により拡大する経済格差がいかに公教育の「公」、つまりパブリックの概念に影響を与えてきたかを検証してきた。今回は、そんな立場から、邦人人質事件を契機に本質的に変わってしまう可能性のある日本社会に対し、警告のメッセージを届けたい。


9.11同時多発テロの悲劇を利用したブッシュ政権

「二度と戦争はしない」という強い覚悟のもと、世界での特別な位置を日本に保障してきた平和憲法を改め、日本を戦争ができる「普通の国」にしようとしている安倍首相にとっては、今回の事件はもってもないチャンスだったのではないだろうか。

「テロに屈しない。」

響きの良い、安倍首相のこの言葉は、9.11直後のブッシュ大統領の姿を彷彿させる。

米国のブッシュ政権は、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダが起こした9.11テロの悲劇を利用することで、国際法を無視したテロ根絶作戦を展開する大義を主張し、実行に移した。「テロの被害者として、テロを根絶する」という反対のしようがないレトリックを使って、正義の旗手に名乗りを上げたのだ。同時に、国ではなく、「テロ」という見えない脅威を標的にしたことで、アメリカはどこの国でも構わず乗り込んで行けるパスポートをも手に入れた。イラク、アフガニスタン、パキスタン、イエメン、ソマリア、インドネシア。そして、米国愛国者法(Patriot Act)なるものを制定し、テロ関与の疑いがある者を、法的手続きを踏まずに無期限に拘束できる収容所さえ、キューバのグアンタナモにつくった。世界のリーダーを自負するアメリカが国際法を無視して、テロに関与した証拠も裁判もないまま、様々な国々出身の人々を無期限で拘束し、彼らに拷問を与えている事実を、私たちはどう理解したら良いのだろうか。実際に、無実のジャーナリストや、友人の結婚式に出るためにパキスタンを訪れていた3人のパキスタン系イギリス人青年が不当に拘束され、繰り返し拷問を受けていたことも判明している。

 そして、ブッシュが始め、オバマが引き継いだ「テロとの戦争」は、もはや世界全体を戦場へと変えてしまった。戦争をするかしないかという国家の一大事を、議会を通じた民主的な熟議によって決断するのではなく、「軍事機密」の名の下に政権独自の判断で他国に出向き、「テロリスト」を暗殺する。パキスタンやイエメンなど、現地での諜報活動が困難なこれらの国々では、ドローンを使ってテロリストである疑いのある人々をいきなり暗殺する。逮捕し、綿密な尋問や操作の末に立証したりする手間はかけない。しかも、現地に部隊や諜報機関を派遣していないため、地元の密告者の情報に頼るしかない。だが、密告者は情報提供の報酬を目当てにてきとうな情報を提供し、無垢な市民が殺されているとする報告もある。また、遠隔攻撃なわけだから、爆撃に巻き込まれる一般市民も勿論出てくる。これらの人々の人権はどうなってしまうのだろう。ホワイトハウスは、標的に対する人物への爆撃に他の人々が巻き込まれた際、彼らがテロとは無関係であったことを証明できる場合のみ、一般市民の被害者と認める方針をとっている。証明できたところで、既に殺害されてしまっているため、後の祭りだ[2]



 更には、米国は自国民さえもドローンの標的にするようになった。冒頭に紹介したJeremy Scahillは、この行為により、米国は大事な一線を越えたことを強調する。いくら外国にいようとも、テロに関与したという何の証拠も裁判もないまま、ホワイトハウスが秘密裏に自国民を暗殺して良いのだろうか。しかも、ホワイトハウスは米国愛国者法の解釈を勝手に変え、今では、いつの日かテロを起こす可能性がある者をテロリストと認識し、ドローンの標的としている。イエメンで最初にドローンの犠牲になったAnwar al-Awlaki(イエメン系アメリカ人)の16歳の息子までもがドローンに殺されたことは、その最たる例ではないだろうか[iii]

 このような「テロリスト」の定義拡大の意味は、いつ誰がテロリストと認識されてもおかしくない不安定な状況を生み出していることにある。そして、注目すべきは、アメリカが、「テロとの戦争」を口実にした人々の人権侵害を国内でも既に行っていることだ。テロ根絶の一環として、アメリカは巨大な監視システムを構築した。そして、秘密裏に、アメリカ国家安全保障局(National Security Agency)が、アメリカ国民のあらゆる電話や電子メールの内容を監視していたのだ。勿論これは国民のプライバシーの侵害であり、憲法違反だ。ちなみに、その監視能力の凄まじさは、アメリカ国家安全保障局がドイツのメルケル大統領、ブラジルのルセフ大統領、そして国連総長パン・ギムンの個人的な会話やデータまでをも収集していたことにも象徴されている。言うまでもなく、これは明らかな国際法違反であり、ノーベル平和賞受賞者でもあるオバマ大統領が、アメリカの巨大な監視システムを、自分の都合の良いように利用してきた事実は、皮肉としか言いようがない。


「例外の空間」

 イタリアの哲学者、Giorgio Agambenは、第二次世界大戦下のユダヤ人強制収容所の分析を通して、強制収容所の存在こそがナチスの社会統治の中心的な役割を果たしていたと指摘する。ナチスは、通常の法律が適用されない「例外の空間」を社会の中に特別につくり、その中では地位も仕事も財産も基本的人権さえも剥奪されたユダヤ人に、「剥き出しの生」として、人間以外の動物と同じように生きることを余儀なくした。しかし、ナチスがユダヤ人に「例外の空間」の中でただ生き延びることを強いたことの真の意義は、それまでは普通であった社会参加権の保障された人々の暮らしを、一部の人間の特権へと変えたことにあったとAgambenは指摘する。ナチスは、ユダヤ人とその協力者への容赦ない暴力行為を示すことで自らの権威を強め、あらゆる人間が「剥き出しの生」となり得る不安定な状況を生み出し、社会全体の統治力を強めていったのだ。9.11後のアメリカを見て、この社会統治の構造と似ていると感じるのは私だけだろうか。



「テロに屈しない」というプロパガンダ

テロに屈しない…。これは巧妙に中性化されたプロパガンダと考えるのが正しいと思う。そこにあるのは行動のメッセージだけで、主体や理由等の大事な問いを考える余地は残されていない。そもそもなぜそのようなテロが乱発しているのだろうか。今回、なぜ日本までもがその標的になったのだろうか。そしてメッセージに暗示されている「私たち」とは誰のことで、その私たちは「テロ」という見えない脅威と闘うために、いかなる代償を払わなくてはならないのだろうか。





[1] “How far are we willing to go, in terms of giving up our basic liberties or freedoms in the name of our security? What are the relationships between keeping our societies safe and keeping our societies free?” http://youtu.be/vyTsaaDNUME
[2] これに関しては、Brave New Filmsが綿密な取材に基づいたドキュメンタリー映画を発表している。Unmanned: America’s Drone Wars http://unmanned.warcosts.com/ 
[iii] 詳しくはDemocracy Nowがフィーチャーした以下の興味深いインタビューを参考のこと。http://www.democracynow.org/2013/6/7/inside_the_us_dirty_war_in