2013年8月31日土曜日

やりかけ


 中学校教員時代の教え子がNYの自宅に泊まりにきた。顧問をしていた野球部で、副キャプテンをやっていた子だ。一年生から卒業まで、初めて全部係わらせてもらった学年の子だった。大学4年の21歳。立派に就職も決めてきた。中学卒業以来だったので、7年ぶりの再開だった。

「教え子」とは言うけども、この言葉は使う度に疑問がつきまとう。前にも書いたが、「先生」にもいろいろある。学校の先生の中で、真の恩師になるような人間は、そうはいないし、なるかならないかは生徒が決めることだから、本人にはわからない場合も多い。

NYの友人達に紹介する時、わざわざ会いにきてくれたという率直な嬉しさから、ついつい、「昔の教え子」という言葉が出てきてしまう。

「こう紹介されて嫌な想いしてないだろうか」そんな不安がないとは言えない。

それにしても、昔の生徒に会えるのはありがたいことだ。やりかけで気になっていた仕事に戻れる感じだ。

もちろん、それは覚悟のいることでもある。

生徒の前に立つということについては、『どれだけ真っ直ぐでいられるか 〜繋いでいくこと2〜』でも書いたように、自分の生き様が問われるものだ。昔の生徒に会う度に、当時からの自分の生き方と、今の自分を見つめ直す貴重な機会となる。

たいていは、胸を張って昔の生徒に「会いたい」と思えるかどうかがバロメーターなのではないかと思う。それは生徒にとっても同じなのかもしれない。

ニューヨーカーが知る地元の良さを案内し、夜、行きつけのビールバーで酒を飲んだ。何でも来いという気持ちでさんざん昔のことを訊いた。聞きながら、「サイテーだな」と反省することしきり。

そんな中、こんなことを言われた。

「失礼かもしれないですけど、先生の気合いだけは伝わってきてました。」

ナイーブな昔の自分だったら、「このヤロー、気合いだけかっ!!」と言っていたところだろうが、今の自分にとっては、妙に嬉しい一言だった。

教員3年目だった自分。下手クソなりに、こちらの本気だけは伝わった、と救われた気がした。

きっと小関先生が聞いたら、「オッケイ!!」と言って下さることだろう。

  

夜に二人で出かける前に、彼を家族に会わせたいと思い、夕食は自分でつくることにした。その間、彼に子どもの世話を任せた。

キッチンで野菜を切っていると、背中越しに、5歳と3歳のうちの娘達が、キャッキャキャッキャと楽しそうに彼と戯れる声が聞こえてきた。


胸が膨らむ想いだった。