2013年1月31日木曜日

主演男優賞 〜 ヨネ4 〜


車は海浜幕張から海に向かい、検見川の浜沿いを走った。そこは中学校時代、野球部でさんざん走った道だった。よくここ走ったよな、と言うと、あいつが、

先生、俺が新年のマラソン大会で6位入賞したこと覚えてますか?と訊いてきた。

そういやそんなこともあったな、と忘れていた昔の記憶が蘇ってきた。

「学年で一位っすよ」と米倉。

そんなことはないだろう、と思ったが、どうやらその年は学年一位、二位の 原田と中田が駅伝部の方に駆り出されていたらしい。

振り返れば、あの頃は秋から冬にかけて本当によく野球部で走っていた。まあ年がら年中走ってはいたが、秋の新人戦と区大会が終わり、寒くなると、ランニングの量は数倍に増えた。

学校の周りを走るのはもちろんのこと、学区をぐるっと3周する シティーバスコース(10km)。学校からマリンスタジアムまで走るマリンコース(7km)。安全上の問題ということで、数回で校長に却下されたが、朝練で隣町の学校まで走るおはようコース(?)、週末雨天の日に校舎の中をぐるぐる10周する校内マラソンコース、そして極めつけは年初めに行う新年マラソン大会だった。

自分が初めてフルマラソンを走った時の経験から、未知の距離を走り切る経験を子どもたちにも経験させたいと思い、マリンスタジアムから稲毛の突堤までを往復する 15kmのコースに設定した。そして、せっかくだからと思い、翌年からは他校の野球部にも声をかけ、3校合同の新年マラソン大会が冬の恒例となったのだ。

そんな調子だから、冬恒例の駅伝大会に野球部から選手が駆り出されなかった年はない。





これを卒部生に言うとみんなとひっくり返るのだが、

はっきり言って、あれは、毎年1月の最終日曜日に小関先生及びその門下生で走っていたフルマラソンのための、俺自身のためのトレーニングだった。

「エーっ!!そうだったんすか〜?
ひでぇー。

と驚く生徒に

「なんだおまえ、知らなかったのか?
かわいそーに…。

ときり返すのが、実は結構な楽しみでもある。




今だから正直に言うが、はっきり言ってあれは、一石二鳥というか三鳥くらいだった。

自分のトレーニングになり、生徒も足腰が強くなり、生徒は先頭を走る俺を見て、「先生が僕らのためにあんなに頑張ってくれている」と考えるのだ。

「教師は主演男優賞を取れるようじゃなくちゃいけない。」

小関先生の教え通りだ。

(続く…)

2013年1月29日火曜日

「お前は人で生きてくんだ 」〜 ヨネ3 〜


 
予想通り、米倉が時間通り来ることはなかった。約束の少し前に、「先生、すいません。道路が混んでて。」との言い訳の電話が入った。

約束の時間から20分後、一台の車が勢い良くロータリーに入ってきて、勘でそれが米倉だとわかった。米倉は、俺の前で車を止めて、俺が乗ってくるのを待った。

乗ってきたのはレキサス。高級車だ。確か色はダークブルーだったと思う。

直感的に、ちょっと遊んでやろうと思った。

俺は、車体の低いその車の助手席の外に立ち、腰を折って 中をにらみ込んだ。

それを見て、 米倉が上目遣いで会釈をした。

俺は中に入らずに、一度離れてからじっくりと車を眺め、米倉と車を交互に睨んだ。眉をしかめ片目をつり上げ、でもどこか笑っている、小関先生特有の睨み方だ。

そのまま車の周りをぐるっと半周し、今度は運転席の側に立った。

俺が米倉の顔を外から覗き込むと、やり辛そうに窓を下げた。先生もういい加減乗って下さいよ、とでも言わんばかりだ。そして最後に、睨み込む俺の方を見て、目をくりっとさせて微笑んだ。

大丈夫。心の中でそう思い、車に乗った。

新車か、と訊くと、いえ、中古です、と答えた。それでも280万円したそうだ。

で?おまえ今何やってんの?と訊くと、意外な答えが返って来た。

「あいてぃーですね。」

「なに?」

「あいてぃーです。」

俺は思わず大笑いした。ひとしきり笑った後、米倉に言った。

「まさかおまえの口から「IT」という言葉が出てくるとは夢にも思わなかったなぁ。」

大笑いする俺を見て不安になったのか、今度は、

「先生、あいてぃーってインターネットのことっすよね。」と確認するように訊いてきた。

「ばか、インフォメーションテクノロジーだ」

「いんふぉ…。なんすか、それ?」

こいつ大丈夫かと心配になりつつ、話を進めた。

どうやらホームページなどを作る会社で営業の仕事をしているそうだ。しかも毎日スーツ姿で会社通いというのだから笑ってしまった。でも、営業は全部電話でやるという。

だったらスーツ来て会社行く必要ねぇだろ、と言うと、「いえ、用で他の会社の人が来ることもよくあるんで。」とあいつには似合わない、社会人らしいことを言っていた。

で、ちゃんとやってんのか、と訊くと、どうやら営業の成績はいいらしい。

おまえインターネットのことなんかわかるのか、と訊くと、自分はまったくやらないという。それで大丈夫なのかと訊くと、「全部電話だし」、口の前に手を持っていってグーパーしながら「こっちなんで大丈夫っすよ。」と、トークのうまさをアピールした。

確かに。回転は早いし、口が立つことは間違いない。どっちにしても、インターネットなどほとんどやらない米倉の口車に乗せられてビジネスを依頼する人々が滑稽に思えた。

「で、何でITなんだ?」と訊くと、米倉らしい、面白い話が出てきた。

数年前、元はと言えば俺が紹介した建築関係の仕事から足を洗い、キャバクラの客引きを始めたそうだ。そうしたらその仕事がハマり、売り上げはすぐにトップ。西船橋界隈の夜の町では米倉のことを知らない人はいないほどの有名人になったという。自分の誕生日の時なんかは、どこから聞きつけたか、大勢の客が来店し、さんざん飲ませてもらったそうだ。

「あ〜、なるほどな。」と俺は思った。キャバクラの客引きなんて米倉にはピッタリだ。あいつは人が好きだし、怖いもの知らずで誰彼かまわず、すぐにからみたがる。

どうせ相手に合わせて、あることないことペラペラしゃべりまくって店に連れ込むんだろう。客引きを天職としてあっちこっち活躍する米倉の姿が容易に想像できた。

お客の一人だったIT会社の社長に、その能力を買われて営業として引き抜かれたのはそんな時だったという。

そして、その会社の事業が少し右肩下がりになった時、社長がキャバクラの経営に興味を持ち、米倉に相談したそうだ。

儲かるのか、と訊かれ、表も裏も全部知っている米倉は、そんなのこうやってああやれば楽勝っすよ、と答えたという。

その言葉通り社長は実行に移し、これが成功。米倉はITの営業と同時にキャバクラ事業のコンサルを兼ねることになった。店も増え、新しくできた3店舗目では、運営を任されるという。

「お前は人で生きてくんだぞ、って先生いつも言ってたじゃないっすか。」

運転する米倉が、前を見ながらそんなことを言った。

「今になってそれがわかりますね。」 



(続く。)

2013年1月27日日曜日

「計算」〜 ヨネ2 〜 



『翼』、そして丸』と、これまで二人の生徒との再会をシリーズものとして書いた。やっともう一つ、書けそうな気がする。思えば、翼の時は、ある問いに対する答えを出すため、丸の時は、自分の教え子というより、小関先生の愛弟子として、彼女から学ぶため、自分が反省するために会いに行った。今回の米倉との再会もまた、全く違った意味合いを持っていた。



待ち合わせしたのは海浜幕張駅。あれこれ考えたあげく、ぶっ飛ばすこともなきにしもあらずと思い、ジーンズとラガーシャツといった体育会系な格好で行くことにした。

来る前、あいつにどう接しようか迷っている自分がいた。

どんな表情をすべきか。第一声はどうするか。どういう口調で話すか。どんな風に待ち構えようか。

そんなことを考えながら、とりあえずは背負っていたリュックは地面におろし、両手をジャケットのポケットに突っ込み、背筋を伸ばした。

ただ、他のことに関しては、予め決めた態度で臨むのはやめにした。考えてみれば、以前はそうしてしくじることが多かったように思う。まずは数年ぶりに会う米倉をよく見極めた上で自分の態度を決めることにした。

そして、とりあえずは、今まで持てなかった愛情をもって、米倉の手綱を引き締めることを自分の目標とした。

米倉を待っている間に、小関先生に確認の電話をすることにした。

思い返せばいつもそうだった。中学校教員時代、何か大事な指導をする前には、必ずそうして小関先生に確認していた。

「先生、これで行こうと思うんですけど、どうですか。」

そんなことを思い返していたら、放課後、薄暗くなった校舎のイメージのあの懐かしい感覚が自分に戻ってきて、どこか嬉しかった。

先生が電話に出た。

今まで持てなかった愛情をもって、米倉の手綱を引き締めるという方向でやろうと思うと告げたところ、「いいんじゃないの。」という返事が返って来た。

そしてこう足した。「ま、うぬぼれるな、というところだろ。」

米倉に関しては、既に小関先生を通して風の噂が入ってきていた。その噂では、キャバクラを3店舗経営しているとのことだった。

昼飯はどこで食おうかといろいろ考えたが、懐かしの道を通って、二人にとって思い出ある一軒の店に連れていくことにした。

使えるもんは全部使う。小関先生の教え通りだ。

そういえば昔、地元の番長だった  の兄•ダイキとの関係をつくる時に、わざわざ渋谷まで連れて行ったこともある。

ちょっと前に偶然新検見川の飲み屋で遭遇してしまった時、ダイキにとってお酒はあまり経験のない世界であるのはわかっていた。だから、あえて大人の世界に連れて行き、そこで男同士の話をすることにした。

情けないが、これは裏返して言えば、当時の自分には普通の状況でダイキとさしで話をする器量はなかったということだった。 

連れて行ったのは渋谷の『汁ベえ』。よく使った店だった。

今でこそメジャーになってしまったが、当時は知る人ぞ知る隠れ家だった。え、こんな所に店があるの?というようなビルの裏の狭い渡り廊下を通り、かがまないととても入れない小さな入り口の奥に広がる大人の空間。

そこに入った瞬間、勝負はついていた。

「俺こうゆうとこ来たことないんだよね。」

日頃、怖いもの無しで地元を仕切るダイキが、少年の目つきでそう言った。

そこからは完全にこっちのペースだった。ビールから始め、竹酒を飲み、ガスバーナーで炙る汁ベえ名物のシメ鯖を喰らい、それでも熱く弟の翼のことを話し合った。 

あいつは今のままじゃこの先生きていけない。
兄貴としてお前はどうするのか。 

ダイキもだてに地元をまとめてるわけじゃないから、ちゃんと話せば話のわかる男だった。あいつなりに弟のことを愛してるし、当時の翼に満足してるはずもなかった。さんざん飲んで語ったあげく、力を合わせていこうということになった。

最後には、ダイキの中学校時代の悪事の数々に話が及び、その場の勢いで気持ちよく頭をはたかせてもらった。今になってダイキに打ち明けるのは心許ない気もするが、実は、ダイキの頭をはたくというのは、「ここまでもって行ければ」といった、自分の中の目安だった。だから狙い通り。自分としては上出来だった。地元での立ち話だったらまずあり得なかったことだろう。

でも、あの時の飲みがなければ、ダイキの協力がなければ、翼もその下の弟の夢(ユメ)もどうなっていたかわからない。兄弟だけじゃない。地元で面倒くさい奴らはダイキにひとこと言うだけですぐに何とかしてくれた。だから感謝している。

そのダイキ、最後に直接話をしたのは数年前のことだ。『翼』を書いた夏、日本に一時帰国する前に翼に連絡を取るため、ダイキに国際電話をかけた。自分のこともいろいろ話してくれた。親父さんの会社で塗装の仕事をしていて、今では現場を任されているとのことだった。話の流れから、当時友人に勧められて読んでいた、『木の命、木の心』という法隆寺の宮大工の棟梁の本を紹介し、贈ってやることにした。

その年の9月、ダイキと翼の弟であるユメの担任を任され、「小関塾」(?) 門下生でもある辻さんから、こんなメールが届いた。

今日子守り神社の祭に行きましたダイキ兄ちゃんすぐ近くにいるよと私にえてくれたことで初めてダイキ君としました。「大裕先生に本ありがとうございましたとえてくださいが高校にいきたいといってます学校ではどんな子ですかよろしくおいします 。」と言ってました。『木のいのち木のこころ私もんだよと言いそびれましたがダイキ君色々感じとったから今日の言が出たんだと思いますダイキ君が高校などでつらいによい方向にアドバイスしてくれそうだと感じましたそしての良さが発揮できる先生や友とのよい出会いがあるようにと心から私も情を集めようと思っています大裕先生ダイキ君は素なお兄さんでしたのことも私のこともダイキ君して下さっていたことしています。  

心がいっぱいになった。 

(続く