2010年10月30日土曜日

僕は服従し、自由になった ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 2~(再)

 ここ数日、 「型」 と 「自由」 の関係を考え続けている。

一つが全部だ、全部繋がっている、という小関先生の有機的な哲学を論理的に説明するのはとても難しい…。あれこれ考えたあげく、自分自身の学びの過程を分かち合うことが最善なのではないかという結論に至った。


 中学校教員時代、僕は小関先生に服従し、自由になった。
だが、最初から盲目に服従したわけではない。 『小関先生との出会い』 でも書いたが、僕は最初、日本の教育の現状を視察するスパイのつもりで教員になった。だから出会ったばかりの小関先生に服従しようなんて気持ちはさらさらなかったし、他の教員との関係でも、良い所だけ盗んで後は 「はい」 「はい」 と話を合わせるずるい優等生だった。


 一見自由に見えるその頃の自分は、極めて不自由だった。いろいろな先生方の様々な教えに自分を支配され、教員としての 「自分」 がなかったのだ。職業柄、教員は皆 「正しい」 ことを言うが、言っていることや教育観はそれぞれ違う。それに、一般的には 「正しい」 答えが、その瞬間、目の前の子や周りの子どもたちのためになるとは限らない。だから、いろいろな先生方のアドバイスを聞けば聞く程自分の中に矛盾が生じ、生徒の不信を募らせた。学びは横に広がる一方で、なかなか前へは進まなかった。


 随分と長い時間がかかってしまったが、最終的に何もわかっていない自分 (『無知の知』) に気付き、小関先生の教えに心を開き、服従する決意をした。自分が解放されたのはそれからだ。


 服従することはきついと同時に楽でもあった。来る日も来る日も叱られたが、暗闇の中手探りで仕事に没頭する日は過ぎ去り、自分の進むべき道がはっきりと見え始めた。生活の中の無駄が減り、調和が取れていくような感覚を覚えた。初めて自分が真っ直ぐになれているような気がした。


 もちろん、修行中も他の教員の指導を見続けたし、自分に教えてくれようとアプローチしてくる教員もいた。でも、いつしか自分は流されなくなった。他の教えに全く心を閉ざしたというのではない。しっかりと聴きながら、何が正しく、何が間違っているのかを自分で判断できるようになったのだ。ただそれは、それまでのように根拠のない直感による判断ではなく、小関先生の教えに対する絶対的な信頼に基づいた判断だった。 「この人が言っているのは、この前小関先生が話していたこと同じだ」 と思う時もあれば、 「この人に対して小関先生はきっとこう言い返すだろう」 と思う時も多かった。


 小関先生の教えを守り始め、過信が自信へと変化していくのを感じていた。



あとがき (2010年10月30日)
 
 大保木輝雄先生の『武の素描 ~気を中心にした体験的武道論~』という本のあとがきで、次のような源了圓氏の言葉が引用されている。


「高度成長で日本の社会、文化が急激に変化し、今までの文化の 『型』 が壊れ、他方で新しい型は生まれそうもない。いわば 『型なし』 状態になっている。私は特に教育に関心があって、日本文化のなかで人間形成の問題を考えると、『型』 を考えざるを得なくなった。」


 次回も引き続き、守破離の教えに見られる 『型』 の概念を、文化、教育、そして特に 「自由」 と結び付けて考えていきたい。

2010年10月29日金曜日

Re: 不自由無くして自由は生まれない ~古典的奏法から得られる身体運動の無限の可能性~

まえがき

 盲目の和太鼓奏者、片岡亮太君とのかかわりを通して出会ったマサさんからのコメントをピックアップしたいと思います。



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 70年代終わりに始まり、まだ30年の歴史しかない現代和太鼓演奏というのは、甚だ新しい芸術で、鼓童というグループが作った「和太鼓」というイメージを追って、和太鼓音楽は行き詰まりをみせています。

 その大きな理由には、多くの人々がそれまでの古典・伝統邦楽(祭囃子・能囃子・歌舞伎黒御簾音楽を含む)を学ばないため、伝統楽器である和太鼓の可能性や意味に気づいていないというのがあると思います。


 亮太と僕の師匠である仙堂新太郎先生は「汝の足下を掘れ」と常におっしゃり、古典を学ぶ重要性を説きます。能には四拍子と呼ばれる、笛・小鼓・大鼓・締め太鼓の囃子方が舞台後方に並びます。その締め太鼓の打ち方(3つ目の動画)は独特で、正座し、両腕を前方に延ばし、短いバチを手のひらの中に収める形で握ります。


 それはunreasonableな打ち方に見えるのですが、熟練者の太鼓から響く澄んだ音、そして持ち方からは想像もできない信じられないスピードがそこで生まれます。入門者がその持ち方をすると数時間で肩がばりばりに固まり、腕が上がらなくなる。ただ、それを毎日続けていると、次第に解きほぐれてきて、いつしか音が鳴るようになる。そして、それは腕先だけではない、肩甲骨と肋骨を使ったすばらしいストロークであり、どんな打楽器にでも応用が可能な普遍的な打法だということを理解するのです。


 「不自由無くして自由は生まれない」、そのアナロジーとして、古典的奏法から得られる身体運動の無限の可能性を思い浮かべました。

「自由」 を捨てて自らを解き放つ 1 ~不自由なくして自由は生まれない~ (再)

 小関先生はよく過激なことを言うが、その中でも特に過激な名言がある。

「生徒に服従することを教えなければならない。」

もしこの部分だけが全国ネットのTVや新聞で報道されたら、彼は間違いなくパブリックエネミーに祭り上げられるだろう。だが、 『自分を持つということ② ~「守」「破」「離」~』や、 『叱るとは愛すること』や、 『守・破・離の前の信』を読んでくれた人は分かるだろう。小関先生にとって 「服従することを教えること」 とは 「人を信じることを教えること」 であり、 「背負わせること」 であり、 「愛すること」 である。


 それに、もし、 「何のために服従させるのか?」 と訊かれたら、きっとこう答えるだろう。


「彼らを自由にするためだ。」


 矛盾している、と思うかもしれない。でも、僕が解釈するに、これはまさに 「守・破・離」 の哲学そのものだ。 「型こそが自由の前提」 と 「守・破・離」 の教えは説いているように思えてならない。




無から自分独自の型は見つからない。

人を知らずして自分を知ることはできないのと同様に、

人は、型を守ることを通して初めて自分独自の型を持つ。


不自由なくして自由は生まれない。




あとがき (2010年10月29日)


 小関先生が言う、「服従させること」 というのは、ドイツ出身のユダヤ人哲学者、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント) が言う 「権力を持って教える」 というのと通ずるものがある。彼女は言う。大人は自分たちの世界を、権力を持って子どもに教え込むのだ。その過程において、大人と子どもが平等の関係にあってはならない。

 Arendt は Crisis in Education (教育における危機) という論文でこう書いている。大人の代表である教師は、子どもたちを前にしてこう言って教えるのだと。


"This is our world." 「これが私たちの世界だ。」


 この言葉には、自らが歩んできた道や築いてきた世界に対する大人たちのプライドと共に、「さあ、おまえたちはここからどこに向かう?」 という子どもの未知なる可能性にかける親の愛情と期待が感じられる。


 また、「不自由なくして自由は生まれない」 という守破離の解釈も、Arendt に見ることができる。彼女の哲学は、リベラルか保守かのどちらか一方に陥りがちな現代教育理論に一つの問いを投げかけているように思う。
 
 
限界を知らずして、どこに自由を求めることができるのか?

2010年10月28日木曜日

自分を信じるために人を信じ、自由を捨てて自らを解き放ち、自由になって不自由を楽しむ (再)

まえがき 


     「一つが全部」


 この言葉を何度小関先生から聞かされてきたことだろう。
その度に、 「はい」 と答えてはきたものの、今になってようやく 「そうだよな」 と思う自分がいる。「一つできる奴は全部できる」 という言葉も今だから納得できる。


 小関先生に教わったこと、自分が先生のもとで経験したことを振り返りつつ、 『先生の教え』 というカテゴリーで実に様々なことを書いてきた。でも、読み返せば読み返すほど、全てが繋がっているのが見えてくる。いろいろな状況でいろいろな言葉を聞いてきたが、先生が教えたいことはみんな同じことで、それはまさに「守・破・離」そのものなのだと思う。


 「守・破・離」 の教えは矛盾に満ちている。小関先生の言葉を道しるべに 「守・破・離」 を考えていくと、一つのメッセージが見えてくる。


自分を信じるために人を信じ

自由を捨てて自らを解き放ち

自由になって不自由を楽しむ


数回に分けて、これらを一つひとつ考えていこうと思う。



1.自分を信じるために人を信じる
① 「信じる」 ことの意味


人は、他人を知ることなく自分のことを知ることができるのだろうか
誰も深く知らずして、自分を深く知ることができるのだろうか
誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか


 小関先生が頑なに 「信」 そして 「守」 の大切さを中学生に教えるのは、彼の哲学の根底にこのような問いがあるからではないだろうか。小関先生はきっと、人を信じることを通して生徒に自信を持たせ、人を信じ抜いた時に見える世界を生徒たちに見せたいのではないかと思う。


 小関先生にとって、 「信じる」 こととは心を全開にすることを意味している。中途半端に信じることは 「信じる」 うちに入らない。例えば、剣道部の生徒が完全に小関先生を信じた時、生徒は自分がした良いことだけでなく、悪いことや普通だったら言い辛いことまで先生に報告するようになる。隠していてもすぐに見透かされてしまうからというのもあるが、先生が心から自分のことを考えていてくれていることを生徒は分かっているし、先生に叱られることが自分のためになると知っているからだ。上級生になればなる程、自分から先生に叱られに行く。叱られるのが嬉しいのだ。彼らは言う、 「先生に叱ってもらった。」


 もう一つ。小関先生にとって、「信じる」ことは決して一方通行ではない。なぜならば、 『勝って己の愚かさを知る Part II ~可能性無限~』 でも書いたように、子ども一人ひとりが無限の可能性を持っていると信じている小関先生を信じるということは、自分の無限の可能性を信じるということでもあるからだ。だから、信じるということは、同時に先生の想いを背負うことでもある。これが大変なのだ。自分は一生懸命やっていると思っている生徒に先生はさらりと言う。 「お前はまだ10%の力しか出してない。」



② 自信は 「他信」
 中学校で部活の顧問などをやっていると、試合で、 「自分を信じて思いっきりやってこい!!」 などと激励する監督を目にすることがよくある。実際、自分もその一人だったのではないかと反省している。でも今になって、これは非常に無責任なことなのではないかと感じる。試合の命運が分かれるような大事な場面になればなるほど、このような激励は選手にとって酷である。


 中学生に 「自分を信じろ」 と言っても、どこまで信じ切ることができるだろうか。自分に対する自信など脆いものだ。自分の強さを知っているだけでなく、自分の弱い部分も知っているのだから。最後の最後で迷いが生じるのではないだろうか。


 その意味では、自分を信じるよりも他人を信じる方がよっぽど楽だ。 『自分を持つということ① ~信じること~』 でも書いたが、小関先生に対する信頼こそが、剣道部の子たちの自信そのものだ。普通だったら名前を聞いただけでも震えあがるような全国の強豪相手にも、小関先生が 「負けるわけがない」 と言えば、臆さずに闘ってくるのだ。それでも負けた時には、先生が全責任を負うのだ。「自分を信じろ!!」 などと言って子どもに責任をなすりつけたりはしない。


 前に、 『勝って己の愚かさを知る Part III ~人々の想いを背負って~』 で紹介した子が良い例だ。中学校女子個人の部で日本一になった子だ。


 全国大会女子個人の部、優勝候補とのベスト8懸けの試合。 「水入り」 を挟む10分を超える死闘に決着をつけて帰ってきた彼女の言葉が全てを物語っている。


「だって先生笑ってたから…。自分の感覚信じろって言ったじゃない。
先生が笑ってたから自信持って打てた。」


 最初から自分を信じ切れる人間などいないと思うし、もしいたとしたらそれはただの傲慢でしかない。人は努力をし、失敗を積み重ね、人に認められて初めて自信をつける。


 小関先生の教えは我々にこう問いかける。


人は、誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか?

(続く…)

2010年10月27日水曜日

「守・破・離」の前の「信」 (再)

まえがき


 現在、教育哲学の授業の中間試験として書いている論文がある。

Hannah Arendt (ハンナ・アーレント)、Maxine Greene (マキシン・グリーン) に見る 「守・破・離」 の教えについてだ。

 こんな突拍子もないテーマ、もちろん教授から出された課題ではなく、特別に許可をもらって書いている自分だけのものだ。自分の博士論文とも関係してくる。

 そんなわけで、今後数回に渡り、「守・破・離」 関連の記事を再投稿していこうと思う。一緒に考えて頂けたらありがたい。


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「守・破・離」の前の「信」  (2010年2月2日投稿)

1.修行に必要とされる心の土壌

 今回の帰国で小関先生が口にした言葉で、もう一つ引っかかる言葉があった。


    「守・破・離」 の前には 「信」 が来る。


 「守」 「破」 「離」 については以前も 『自分を持つということ ② ~「守」「破」「離」~』 で書いた通りで、剣道やその他の武道、茶や能などの日本古来の伝統芸能などで、 「道」 を究めるための精進の過程を表している。


 最初の段階は 「守」 で、与えられた型を守ることを意味している。何日も何カ月も何年もその型を守り抜いた者は、初めてその型を破り、応用できるようになる。これが 「破」 だ。しかし、型を破ったことにいつまでもとらわれている者に道を究めることはできない。その執着から己を断ち切った者のみが、何にもとらわれない 「離」 の境地に立つのだという。


 これからもわかるように、この精進過程に 「信」 は見当たらない。では、小関先生が考える「守・破・離」 の前の 「信」 とはどういうことなのか。小関先生は言う。


    「信」 とは人を信じる 「信」 であるし、自信の 「信」 でもある。


 誰もが最初から修行に入る精神の準備ができているのか。誰でも 「今日からこれをしっかりと身につけなさい」 と与えられた型を守ることができるのか。これらの疑問が 「信」 の根底にあり、ここで問われているのは修行に必要とされる心の土壌なのだと思う。


2.「教えが入る」

 小関先生がよく使う言葉に、 「教えが入る」 というのがある。

それは、先生があの手この手で指導してきた子どもが、先生が言い続けてきたことをやっと理解し、先生の教えを受け入れる瞬間を意味している。もっと言えば、それは子どもが変わる瞬間でもある。


 小関先生の剣道部を例にとって話してみよう。子どもたちの誰もが最初から小関先生を信用するわけではないし、先生の教えを受け入れられるわけでもない。実際、うわべだけで話を聞いている子も始めは少なくない。


    「お前たち、わかったな。」


 さもわかったようにうなずく生徒たちに、先生はにやりと笑いこう言う。


    「そうか。でもな、知っていることとわかっていることは違うんだぞ。」


 部内の人間関係、部員の生活態度、試合展開など、あらゆることにおいて小関先生は予言をする。


    今こうだろ?次にこうなって、こうなって、最後はこうなるぞ。見てろ。


そしてそれらの予言が全て当たるのだ。そう考えてみると、小関先生の教え方は剣道そのものだ。自分がこう動いたら相手はこう動く。それに対して自分がこう出れば相手はこうなるだろう。常に先を読んで勝負しているのだ。


 そのような予言的中が繰り返され、生徒は少しずつガードを下ろし始める。そして気付くのだ。


    全部先生の言ってる通りになる。


 そうなってしまえば後は時間の問題だ。タイミングは生徒によって様々だが、ここぞと思う時に小関先生は勝負をかけるのだ。狙っているのは 「教えが入る」 瞬間であり、それは生徒自身の 「無知の知」 の気付きに他ならない。


    自分は知っていただけで本当は何もわかってはいなかった。


 こうして生徒は小関先生の 「バカ!」 を受け入れ、初めて 「守・破・離」 の 「守」 へと入っていくのだ。


3.前提としての 「信」

 一つの疑問が残る。


では、なぜ 「守・破・離」 の教えには 「信」 が明示されていないのか。


 小関先生と話をしていて、きっと 「信」 は精進の道に入るための 「前提」 だったのではないかという結論に至った。新たな疑問が生まれる。ではなぜそれが前提として成り立っていたのか。なぜ今の時代、小関先生のような教員が子どもに 「信」 から教えなくてはならないのか。きっとそれは、 「守・破・離」 の教えが確立された時代には存在し、徐々に失われてきた地域や家庭の教育力だったのだろう。


 もし子どもが、何の疑いも持たず、人の良さだけを信じるまっさらな状態で学校や道場に来たら、おそらくその学校の教員や道場の師範は、 「信」 から取り組む必要はないだろう。これは今の時代、非常に珍しいことなのではないかと感じる。


 今日、多くの子どもは不信感に満ちている。そして、それこそが教育の邪魔をしているように思えてならない。子どもたちは、見知らぬ人に話しかけられても絶対に話すんじゃない、学校の教員より塾の先生の言うことをしっかりと聞きなさい、と家では言われ、テレビや新聞からは信じられないような悪質な事件や学校教育や教員を疑問視するニュースを毎日のように聞かされている。放課後や週末に通うピアノや水泳も、多くの子にとって 「習い事」 の一つでしかなく、子守の代わりと認識している親もいたりする。


 今日、親の言葉はどれだけの重みを持って子どもの心に届いているのだろう。

これは2児の父である自分にとっても非常に重い問題だ。もし、親の言葉が子どもにとって絶大の意味を持ち、その親が 「学校で先生の言うことをしっかりと聴きなさい」 と伝えていたら、教員が 「信」 から取り組む必要はまずないだろう。それに、もし大人たちが地域を挙げて教育に取り組み、学校や道場を支援していたら、子どもたちはすんなり 「守」 から入ることができるのではないだろうか。


 小関先生の剣道部の生徒たちと話をしていると、いつも心が洗われる想いがする。これは以前、 『子どもこそ大人、大人こそ子ども』 で言いたかったこととさして変わりはないように思う。生徒たちが本当に無垢で子どもらしいのだ。何よりも、多くの子たちは人の良さ心から信じている。だから、話をする時は怖いほど近くまで寄って来て、人の話を真剣に聴こうとするのだ。そんな生徒たちを前にすると、話すこちらの方の身が引き締められる想いがする。


 もちろん、小関先生自ら土壌づくりをしてあげた子も少なくないが、中には最初から 「信」 の前提を持ってやって来た子もいる。そんな子たちは決まって、子どもを本気で一流にしようと思っている一流の親を持っている。


 今、こうして書きながら、自分に言い聞かせている。他のことができなくてもいい。ただ、人の良さを心から信じられる子どもを育てたい。そして、願わくば、親が安心してそのような子育てをできる社会があれば、と思う。

2010年10月25日月曜日

「愛というか。」

 次々と出されるペーパーが首まで詰まっていると言うのに、また苦笑いをしながらこれを書いてしまっている。昨夜初めて電話でお会いしたマサさん、そして古い付き合いのかおるさんから、 『世界に一つ』 『(続)世界に一つ』 に書いた自分だけの感性について共感の言葉をもらった。かおるさんはコメントの中で、パウロ・フレイレに言及しながらこんなことを言っている。



 「自分の思っていることを勇気を出して言うことは、人とつながることなんだと思う。愛というか。」



 実は、自分だけの感性や主観性を大事にすることについて書きながら、僕自身の脳裏にもパウロ・フレイレの言葉がちらついていた。



 かおるさんからコメントをもらい、久し振りに自分のquote bookを読み返してみた。そしてこんな言葉を見つけたので、ここでシェアしたいと思う。



 これを読んでくれているあなたへのプレゼントのような気持ちでタイプしました。



“To deny the importance of subjectivity in the process of transforming the world and history is naïve and simplistic. It is to admit the impossible: a world without people. This objectivistic position is as ingenuous as that of subjectivism, which postulates people without a world. World and human beings do not exist apart from each other, they exist in constant interaction” (Freire, P. 1970. Pedagogy of the Oppressed. p. 32).



“Human existence cannot be silent, nor can it be nourished by false words, but only by true words, with which men and women transform the world” (p. 69).



“Dialogue cannot exist, however, in the absence of a profound love for the world and for people. The naming of the world, which is an act of creation and re-creation, is not possible if it is not infused with love. Love is at the same time the foundation of dialogue and dialogue itself” (p. 71).


Paulo Freire

 2009年8月9日に始めたこのブログ、今回の投稿でちょうど200本となった。読んで下さっている皆様から勇気をもらい、続けられています。ありがとう。

                              With love,



                                                                 Daiyu

2010年10月22日金曜日

(続)世界に一つ

 今日これを書いてることそのものに僕の性格が表れているのかもしれない。中間試験中だが、『世界に一つ』 を書き直してみようと思う。昨日書き終えた時点で、どこかしっくりこないところがあり、ずっと気になっていたのだ。



 昨日の記事で、勉強とは関係のないことに没頭しながら、そうすることが 「無駄だと思ったことはなかったし、自分の学びとどこかで繋がっていることにも気付いていた。でも、どこで繋がっているのかがわからなかったのだ」 と書いた。これは嘘だ。



 自分に正直に振り返ってみると、これら 「関係のないこと」 に没頭しながら、どこか焦りを感じている自分がいた気がする。そうだ。決して無駄ではない、きっと自分のためになっているのだと言い聞かせてきただけだ。これらのことに打ち込みながら、どこかで自分の学びとも繋がっているのではないかと思っていたが、それが本当なのか、だとしたらどう繋がっているのかは分からなかった。



 博士課程3年目に入り、博士論文のテーマがいよいよかたまりつつある。今度改めて書こうと思うが、テーマも、切り口も、手法も、人とは全く違うのだ。授業を受けていても、自分が発する問いや主張が他の人にとって極めて新鮮なものらしいということが最近よくわかる。



 この 「自分らしさ」 が何から生まれているのかと言えば、今まで自分が歩んできた人生としか言いようがない。今までめぐり会った素晴らしい書物の数々、一本一本真剣に向き合って書いてきた無数の論文、そのプロセスから得た技術や内在化してきた自分の価値観は、今の自分に大いに関係ある。ただ、自分の最大の強みはと訊かれれば、躊躇することなく、様々な経験や人との出会いだと答えるだろう。そして、それらの経験や出会いの多くは、「関係のないもの」 を通して得たものだ。



 もう迷いはない。無駄になったことは一つもなかった。全ては、世界中で自分だけにしかない感性の源だったのだ。







 意見を述べるにしても、主張を書くにしても、大事なのは自分を隠さないことだと思う。

 自分の感性に心を傾け、恐れずに自分にしかない主観性を表現するのだ。

 それが人生の恩恵に対する恩返しであり、そうしないことは自分の人生、そしてそこで出会った全ての優しさを否定することだ。





 『世界に一つ』 を読んで、同じTeachers Collegeで頑張っているさきちゃんがすてきなQuoteを紹介してくれた。



"The precious, intangible gems like happiness, satisfaction, self-respect,
and pride―they are the thanks to the people who come into your life.
Life is not what you alone make it. Life is the input of everyone
who touched your life and every experience that entered it.
We are all a part of one."

- Yuri Kochiyama -

2010年10月21日木曜日

世界に一つ




 先日、ある決意をした。

    僕は、人生を 「感性」 で生きていく。

 体を動かすのは好きだし、逆に動かしていないと気が済まない性格だが、自分の身体能力で生きていくことはまずないだろう。かといって、今は教育学の理解を深めるためにひたすら勉強しているが、知性のみで生きていくつもりもさらさらない。知性というのは、その人のある一つの側面に過ぎないと思う。







 当たり前のことなのだが、日々の勉強の中、人と同じ物を読んでも、同じ講義を聴いても、同じテーマについて書いても、話しても、自分がどう感じどう表現するかに 「自分」 というものが表れる。もし、純粋な 「知性」 というものが存在するのなら、自分がどう感じどう表現するかということに関しては、知性だけでは割り切れないものがある。自分の生い立ち、育った環境、自分の肌の色、性格、様々な経験や出会い、それら全てが影響してくる。






 
僕は昔から、「勉強」をしながら、一見勉強とは全く関係のないことに没頭することが日常茶飯事の生活を送ってきた。今でも Teachers College にいる日本人のネットワーク作りをしたり、イベントを企画したり、お父さんサークルを作ったり、このブログを書いたり、新たなブログを立ち上げたり…。でも、これらのことが無駄だと思ったことはなかったし、自分の学びとどこかで繋がっていることにも気付いていた。でも、どこで繋がっているのかがわからなかったのだ。



でも、この前気付いたのだ。自分の最大の強みは、今まで読んできた数々の本から得た知識でも、書いてきた無数の論文で練り上げた技術でもない。様々な経験や人との出会いこそが僕の最大の強みなのだと思う。たった37年の人生だが、本当に良い想いをたくさんさせてもらってきた。様々な物事や人からもらってきた優しさの数では誰にも負けない。(もしかしたらみんなそう思っているのかもしれない。だとしたら、そんないいことはないだろう。)そして、それらの優しさが一瞬一瞬自分にどう囁きかけているのかに耳を傾け、対話し、表現していくのだ。 「客観性」 の名の下に聞こえないフリをするのではなく。










 人の一挙一動を統合しているのが感性。






 そしてそれは間違いなく、世界に一つしかない。




Posted by Picasa

2010年10月15日金曜日

答えのない問い

 このブログにもう何度も登場しているマキシン・グリーン(Maxine Greene)という一人の女史がいる。現在93歳でありながら自宅で授業を教え続ける教育界の巨匠だ。93歳と聞いてピンとこない人も、昔彼女がジョン・デューイ(John Dewey)の隣人だったと聞けばセンスがつかめるかもしれない。



 コロンビア大学Teachers Collegeで彼女ほど重要な人物はいないのではないだろうか。1年に一度か二度、何かのスペシャルオケージョンの時のみ大学に姿を現すが、その時は必ずそのイベントの主催者から、「今日は我らがマキシン・グリーンも会場に来てくれている」 と紹介を受ける。



 その彼女の自宅で、先日ミニコンサートがあった。彼女の授業を受けたミュージシャンの学生が発起人となって、ある晴れた日曜日の午後に行われた。



 僕も娘二人を連れて参加させてもらった。マキシンは、自宅にやってきた子どもたちを見てことのほか嬉しそうだった。



 ミュージシャンたちをソファーやイスで大人たちが囲む中、うちの子たちは最前列の床に陣取り、踊ったり手を叩いたり。下の美風は途中から熱くなって上半身裸になる始末。そんな子どもたちにマキシンはずっと暖かい視線を送っていた。



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 2008年、僕が彼女の授業を受けていた際、彼女が繰り返し言っていた言葉がある。



“The most important questions are
those that are unanswerable.”


「最も大事な問いは答えのない問いだ。」



 教育政策、教育法と、様々な紆余曲折を経て哲学に戻ってきた今だから分かる気がする。マキシンは問いのない、一見安静な状態を恐れている。



 大切なのは答えを出すことではない。動き続けることだ。



 停滞の中から新しいものは生まれない。そして、進みゆく時代の中、止まることは死を意味している。


 人間は、時代から投げかけられる問いのみでなく、20世紀以上にも渡ってずっと格闘してきた問いと向かい合い、問い続けることによってのみ、人間であることを主張できる。


友人のSeungho、そしてMaxineと娘たち。



2010年10月12日火曜日

アメリカ教育最前線!!

皆さま、

 早速アメリカの教育最新情報を専門に発信するブログを創設しました。

その名も…


(上の文字をクリック。または以下のアドレスからどうぞ。)



 とにかく、「教育改革を志す人集まりましょう。そしてどんどん知識を共有していきましょう!」 ということをテーマにやっていこうと思うので、できるならば多くの同志と一緒に作っていければ良いなぁと思っています。

『分かち合いたいこと』 共々応援よろしくお願いします!!

2010年10月11日月曜日

時代のテーマ

 最後の更新から2週間以上が経ってしまった。

思えばこれほどすっぱりとブログから気持ちを切っていた期間も珍しい。今まではどこかで気になり、「何か発信せねば!」 という無駄な焦りがあった気がする。

でもこれは自分がやりたいからやっていること。無理にやるもんじゃない。焦りを感じつつやってしまうと、自然と書くもののクオリティーは低くなったり、小さいことが思いの他ドラマティックな表現になったりしてしまう。

だから決めたのだ。これからは、心から分かち合いたいと思うことだけ、せっかく読んでもらうのだから読むに値するものだけ書こう。

Google Analyticsを久しぶりにチェックしたら、ずっと更新されてなかった間も毎日チェックしてくれていた読者の方たちがいたことを知って心が痛んだ。
ごめんなさい。そしてありがとう。

新学期が始まってからというもの、自分は本業である教育の勉強に没頭している。今学期から授業数は半分に減り、少しずつだが確実に博士論文に向かいつつある。だから気持ちがそっちにフォーカスしてきているのも無理はない。今学期取っている授業はNarrative Inquiryの権威であるJanet Miller教授との個人授業、そして哲学科のSchool & Societyというイスラエルからのvisiting scholarによる教育哲学の授業だ。どちらも面白い。

教育の勉強に没頭すればするほど感じることがある。それはアメリカで教育を勉強させてもらっている自分の責任だ。



パウロ・フレイレ(Paulo Freire)はEducation for Critical Consciousnessという本の中でこう言っている。

“If men are unable to perceive critically the themes of their time, and thus to intervene actively in reality, they are carried along in the wake of change” (Freire, 1973, p. 6).


(もし人々が、自らの時代のテーマを批判的に捉え、現実に能動的に介入できないならば、彼らは変化の跡を追って流されるだけだ。)


自分が今ここにいる意味は何なのだろう?

フレイレが言う、「時代のテーマ」とは何なのだろう?

どんなことが時代のテーマとして設定され、「現実」として我々に提示されているのだろうか?自分はどのようにこの現実に介入していけば良いのだろうか?そんなことをずっと考えている。



先日、Twitterなるものを始め、そこにて自分の責任を追及し始めた。このブログの右端にもリンクされているが、自分が読んでいて感銘を受けたものや、日本が知るべきアメリカの教育最前線のニュースを発信し始めたのだ。

アメリカでは教育破壊が行われている。もはや教育を通してパブリックを語ることも難しい状況になっている。アメリカ主導の消費資本主義が加速する中、日本の社会、そして教育が受ける影響も必至だと僕は考える。日本の教育がアメリカの二の舞を踏まないためにも、今じっくりと、クリティカルにアメリカの教育動向を見つめることが必要だと思う。

とは言っても、Twitterでは字数の制限もあるし、かなり専門的な内容になってしまうので、これからはアメリカ最先端の教育情報を専門に発信する別のブログを作ろうと企んでいる。

ただし、『分かち合いたいこと』はこのままの形で続けていきたいと思う。人生の美しさを共有できるすてきな人たちが集まってくれている。もちろん僕自身も発信していくつもりだし、今まで通り、ゲスト投稿として誰でも発信できる分かち合いの場として使って頂けたら幸いだ。

これからもどうかよろしくお願い致します。

p.s. アメリカの教育最前線ブログの方はでき次第連絡いたします。


                  大裕

訳責:鈴木大裕
(10月12日に新設完了しました! http://us-education-today.blogspot.com/)