2010年1月30日土曜日

愛音と母乳パッド

 

愛音の最近のブーム…
それはママの真似をして、胸に母乳漏れ防止パッドを入れることだ。



あれ、写真を撮ろうとしたら泣いてしまった。



気と取り直してもう一度…。


本人かなりその気になっている。
どう?このポーズ…。

「こなす」のではなく

セントラルパークの south edge にある銅像



冬休みが終わり、1月20日から春学期が始まった。
ただ、最初の2週間はクラスの 「ショッピング期間」 だ。この2週間で興味のある様々なクラスに顔を出し、どのクラスを取るのかを最終的に決める。自分も、さんざん迷ったあげく、期限ぎりぎりで最終決定をした。そして、今週から本格的に授業が始まったのだが、最初の週だというのに300ページほどのリーディングが宿題として出された。



それらのリーディングに埋もれながら気付いたことがある。
去年の自分とのメンタリティーの違いだ。



博士課程1年目だった去年、10年ぶりの大学院、英語での学びに慣れようと必死だった。読むのも書くのも遅いし、特に読むことに関しては、出された宿題を「こなす」ことで精いっぱいだった。



だが今は違う。このリーディングから何が学べるのだろうか、教授はここから何を教えてくれようとしているのだろうか、などと考えながらページをめくる。宿題は宿題とは思わず、教授たちが与えてくれている学びの機会だと思えるようになったのだ。



これはおそらく去年からできていたと思うが、授業での発表も余計な計算はしていない。特にマスターの頃は、成績のために発表をしていたように思う。今でも緊張をしたり、 「アピール」 という余計な意識が頭をよぎることがあるが、自分が本当に訊きたいことを質問し、試してみたい意見を放つように心がけている。



「自分は今、何を学べているのか」 という本質的な問いを前に、成績など何の意味も持たない。なにせ、自分はこの勉強に人生を懸けているのだ。スポンジのように学ぼう、そう思っている。





さて、ここらで今学期の授業ラインアップでも紹介しておこうか。

最初のクラスは Educational Policy Making and the Courts (教育政策と司法) というクラス。先学期も取った Professor Michael Rebell 先生の授業で、 Teachers College と Columbia Law School のジョイントクラスだ。 Rebell 先生は我が Teachers College の教授でもあり、現役の弁護士でもある。それもただの弁護士ではない。数年前には Campaign for Fiscal Equity (CFE) v. New York というニューヨークの裁判で、NY市の貧困地区のあまりにも乏しい教育資金の状況を訴え、NY州を相手取り $5.6 billion (1ドル100円としても5600億円) というお金を勝ち取った敏腕弁護士だ。このクラスでは、アメリカで近年目立っている、司法の政策への介入の是非を吟味する。州政府による政策がその州の憲法に違反する時、司法はどこまで介入すべきなのか。また、司法には政策に効果的に介入するキャパシティーがあるのか…、とそのような問題を討議していく。



二つ目は Educational Policy Analysis (教育政策分析) というクラス。 Professor Luis Huerta という、なかなか気合の入った教授が担当する。授業の申し込みが始まって15分で全ての席が埋まってしまうという人気のクラスだ。「かなり厳しい」という評判にもかかわらずそこまで人気が高いところから、 Professor Huerta の教授としての質の高さがうかがえる。このクラスでは様々な教育政策を分析し、自ら政策をシュミレーションしていく。特に policy writing のノウハウを教えてもらえるそうで楽しみだ。



三つ目は Living Justice, Teaching Justice: Studies of World Leaders as Visionary Teachers (正義を生きる、正義を教える: 明日を見据える世界のリーダーに学ぶ) という授業だ。マザーテレサ、ガンジー、ダライ・ラマ等、そうそうたるリーダーたちの視点から明日の教育を考える授業だ。教員時代の学びを振り返り、自分の哲学を深める機会にしたいと思っている。



最後に、 Professor Jay Heubert との independent study (個人授業) だ。1年前から何度も何度もやり取りを繰り返し、やっと実現にこぎつけた。 Professor Heubert も Professor Rebell 同様、 Teachers College の教授であると共に現役の弁護士でもある。話し合いの結果、 Legal Efforts to Promote School Reform (教育改革のための法的試み) というテーマで教えてもらえることになった。同じお金を払うのにこんなに贅沢な授業はない。きっとこの授業から何かが芽生えると確信している。



どのクラスも魅力的で、新しい学びを前に今、ワクワクしている。

2010年1月28日木曜日

祝!! 投稿100件     One

昨夜は見事な満月だった。

驚いたことに、ニューヨークでも

月面ではうさぎが餅をついていた。

ちょっと角度が違うだけで、見ているのはおんなじ月だった。


                 

                                      大裕  

2010年1月25日月曜日

Julie, Scott, & Littlefield



Littlefield のバーセクションには多くの
若手アーティストたちの作品が飾られている



  先週の土曜日、あるライブハウスで自分が所属する Curriculum & Teaching (C&T) のドクターの生徒たちと Teachers College の日本人学生の合同パーティーを行った。今回は友人やパートナー、家族も参加OKということにして、25人が集まってくれた。場所はブルックリンにある Littlefield (リトルフィールド)。マンハッタンから多少離れていることもあり、 C&T のデパートメントからお金を出してもらって、2台のバンで行くことにした。




 実はこの Littlefield というライブハウス、オーナーの二人は自分の結婚式にも来てくれた Julie と Scott だ。この二人がなかなか面白い。


Scott、Julie と。2009年のオープニングパーティーで。


 せっかくの宣伝の機会なので、パーティーも盛り上がってきたところで Julie に少し語ってもらった。



 Julie も Scott も元は環境エンジニア (civil engineer) だ。修士号まで持ち、この Littlefield を始める前はニューヨーク市の水源にかかわる仕事をしていた。 Julie は家計を支えるため今でもその仕事をパートタイムで続けている。

Littlefield の話をするオーナーの Julie


 数年前、 Scott は料理を作りたいという自分の情熱に気付き、環境エンジニアの仕事を続けながらフランス料理の学校に通った。そこを首席で卒業、 WD-50 というNYで最もおしゃれと呼ばれる創作料理のレストランに引き抜かれた。


今回参加してくれた同じ Teachers College のりえちゃんとゆりちゃん。



 そして、今度は Julie の長年の夢だったライブハウス立ち上げに二人で乗り出したのだ。これが軌道に乗れば、 Scott は料理の道に戻るのだという。



 この Littlefield 、環境エンジニアの二人が立ち上げただけに、しっかりとしたエコの哲学に基づいている。

 

 このライブハウスがあるのはブルックリンの中心地の外れにある Gowanus という倉庫街だ。昔は工業地帯として栄えていたが、今では使われていない倉庫が軒並んでいる。その工業地帯としての過去とサステイナブルな未来を融合したのが Littlefield だ。

Littlefield のある Degraw ストリート


 廃墟への入り口としか思えないメインエントランスを通ると、突然生きた緑が目に飛び込んでくる。青空の下、木があり、植物が茂っている。外とはまるで別世界だ。



 ああ、だから Littlefield というのだな、とゲストは名前の由来をここで悟るのだ。



 その中庭を抜けるとバーセクションがあり、ゲストたちは中庭を見ながら都会の疲れを癒せるようになっている。



 他にも様々な工夫がされている。例えばバーカウンターとテーブルは、使われなくなったボーリングアレーをリサイクルしたものだし、防音加工の壁は車の使用済みタイヤで作られ、電力は風力発電で賄われている。


オープニングパーティー

奥がライブスペースになっていて、なかなかの広さだ。
 

 

 Littlefield 立ち上げには、二人の家族や友人たちも深く関わっている。スタテン島で小さなコンビニを営む Julie の両親はなけなしの金を出し、 Scott の方ではテキサス州で建設業を営む彼の父親が直属の部下たちを引き連れて Littlefield の建設にあたった。多くの友人たちも彼らの夢を追う姿に賛同して出資している。



 僕が今回のパーティーを Littlefield で企画したのにもそんな理由がある。自分たちのキャリアもお金も親や友人の期待や信頼も全てを懸けて夢を追う二人を是非とも応援したかった。彼らの勇気は尊敬に値するし、成功して欲しいのだ。



同じデパートメントの仲間と
(おぶ紐に入っているはずの美風は友人に預けて…)


 最後に、このブログに何度も登場している Maxine Greene (マキシン・グリーン)教授は言う。本当の自由とは、誰にも左右されぬ自らの意志で己の人生を懸ける者のみが経験できるものである。

Littlefield NYC
http://www.littlefieldnyc.com/info/

ちなみに、Greenzの広美がやっているブログでも紹介されています。
http://greenz.jp/hiromi/tag/green-stores/

2010年1月24日日曜日

千城台北駅から世界へ ~てるみさんから~


 今日、国際関係学の先生が世界は小さいと言ったのです。 「地球の裏側で何が起こっているかさへわかる時代」 だって。でも私は、世界はやっぱり大きくて遠いと思うのです。例えば今、世界中で空がどんな色をしてるかさへ分からない。NYの寒さも、砂漠に吹く風の音も知らない。世界の仕組みを、各国の社会体制を分析してみても、そこに生きる人の顔が一人も思い浮かばない事の方が多いのですよ。世界は繋がっているようで、あんまり繋がってないのかもしれない。でもね、世界が小さいと感じたら、それほど退屈な事はないと思うのです。飛行機見るだけでワクワク楽しくなるなんて、絶対人生得してるもの。だから、大きいままでも良いかなって思うのです。




   あなたから見える世界は、大きいですか?



             てるみ

2010年1月20日水曜日

「叱るとは愛すること」




1. 背負わせること

   「あいつ背負うもの持ってないもんな。」


自分が中学校教員時代、良く聞かされてきた小関先生の口癖だ。力はあるのにどこか煮えきらず、何となく生活している他学年の生徒を指して、よくこう言っていたのを覚えている。小関先生に言わせれば、そういう生徒は周りの大人に育ててもらっていないのだ。



 では、小関先生にとって 「育てる」 ということはどういうことか。それは 「責任」 を与えることと深く関係しているように思う。



 一番分かりやすいのが、体育祭応援団の指導だ。



 自分がいた中学校の体育祭、一つの目玉は紅白両応援団による応援合戦だった。だから、体育祭の時期になると、人前に出るのが嫌いじゃない生徒たちがこぞって応援団に志願した。組が決まり両組の団長選出が終わるとすぐに応援団が動き出す。CDを持ち寄ってテーマソングを決め、立ち位置や振り付け等を練習するのだ。放課後はもちろん、時期が迫ると朝練まで行う。



 そして、体育祭数週間前になると、全校生徒が紅白の2チームに分かれ、応援団主導による全体練習が行われるのだ。



 体育科の教員でもある小関先生は、毎年どちらかの組の顧問を任される。では、応援団顧問としてどんな仕事をするのかと言えば、何もしないのだ。何もしないことが仕事だと言っても過言ではない。



 教員にとって、生徒を前に何もしないということがどれだけ難しいかお分かりだろうか。教員は皆、教えたがる生き物だ。その意欲は必要だ。でも、手を取り足を取り教えることが生徒のためになるとは限らない。



 応援団の全体練習。基本的には生徒による生徒のための練習だ。団長がマイクを握り、200~300人の中学生たちを団員達の協力を得ながら指揮する。体育館では生徒たちのおしゃべりする声がうるさく、校庭では団長の声が全生徒に届かない。全生徒の注意を促すのに時間はどんどんなくなり、団長も団員もパニック状態に陥る。



 周りで見ている教員として、いったい何をすべきか。頑張ろうとしている団員たちを助けようと、「静かにしろーっ!!」 と大声を出すのが普通の教員だ。そういう柄じゃない教員は、生徒の間に入り、「静かにしなさい」 と言って回る。



 小関先生はというと、ただ体育館のステージに座って静観するだけだ。にやにやしながら。



年輩の教員になればなるほど文句を言う。



   小関先生は応援団顧問のくせに何もしない。



だが、小関先生に言わせれば、無責任なのはそこでほいほいと手伝ってしまう教員たちの方なのだ。大人の協力を得て他の生徒たちを静めたところで、それはその子たちの真の力にはならない。転んだ子どもには自ら立ち上がることを教えなくてはいけないのだ。また、大人の協力なしには不可能なのに「できた」と勘違いさせるのも良くない。むしろ、人前で話したり人を動かしたりすることの大変さをしっかりと学ばせた方がよっぽど良い。



 『不自由していないことの不自由さ』 でも書いたが、大事なのはまず失敗を経験させることだし、「困らせること」なのだ。Maxine Greene(マキシン・グリーン)が言うように、自分の前に立ちはだかる「壁」はそれを乗り越えたいと思うから障害と感じるわけであって、そう思わない人間にとってはただの背もたれでしかない(Dialectic of Freedomから)。

 乗り越えたい壁を見つけた時、人は変わり始めるのだ。





2. 教育ではなく、大量虐殺

 「先生、どうしたらいいですか?」



小関先生が待っているのはその言葉だ。本気で学ぼうと思っている子どもは、スポンジのように教えを吸収する。真の学びはそこから始まるのだ。



 それに、小関先生に言わせれば、すぐに力を貸してしまう教員は、子どもの力を侮(あなど)っているのだ。子どもたちは大人の想像をはるかに上回る可能性を持っていると彼は心から信じている。だからこそ、彼らの可能性を大人が決めつけてしまうのはあまりにもむごい。信じて見守ってあげさえすれば、子どもはできるのだ。



 『勝って己の愚かさを知る Part II ~可能性無限~』 でも書いたように、今回教え子が全国制覇をしたことによって、自らのモットーとしてきた「可能性無限」の真意を改めて学んだ小関先生である。だからこそ、教員たちに対する目は厳しい。特に厳しいのは、自分の教え子で教員になった若者に対してだ。



彼らに対して小関先生は平気で言う。



  「お前がやっているのは教育ではなく、大量虐殺だ。」







3. 「どれだけ子どもに持たせてやるかが勝負」

 
 自分の組の生徒たちを静めるだけでパニック状態の応援団を、「さあどうする?」と言わんばかりに小関先生はにやにや見守る。



 彼らがお手上げ状態で助けを求めに来ても、小関先生は役に立つアドバイスを与えるだけで自分が前に出ていくことは決してない。教員はあくまでも黒子であって、主役は応援団の生徒たちなのだ。大事なのは、本当に自分たちだけでやるのだ、と彼らが自覚を持つこと。成功するも失敗するも全て自分たちの肩にかかっている…、そう自覚することから彼らの動きは変わってくる。



 生徒たちが自らの責任を自覚し始めると、小関先生は多少の無理を聞いてあげるのだ。



 生徒が「…が必要なんですけど」 と言えば、「何とかしよう」とリクエストに応じ、「~したいんですけど、やってもいいですか?」と訊けば、「怪我するなよ」と答える。



 こうして生徒たちは感謝の気持ちを持ち始め、自分たちを信じて見守ってくれる先生の期待に応えようとするのだ。彼は言う、




   「どれだけ子どもに持たせてやるかが勝負だ。」






4. 「臨機応変」


 もう一つ分かりやすい例がある。修学旅行だ。小関先生は学年主任も務めてきたが、小関学年の修学旅行、メインテーマは「背負わせること」と言っても過言ではない。だが、そのやり方も一味違う。細案(さいあん)を作らないのだ。



 細案とは、いつ、どこで、誰が何をしなければいけないのかが一目瞭然でわかる分刻みのスケジュールのことだ。僕が過去に見てきた細案は、誰がどこに立たなければいけないのか、ペンが何本必要なのか、係一人ひとりのセリフまで綿密に書かれていた。ちなみに、これは修学旅行に限ったことではない。3年生を送る会や、文化祭などの行事でも同様の細案が用意される。



 いったい何のためなのか、誰のためなのか。はっきり言って、生徒のためと言うより教員のためだ。生徒が失敗して自分たちが責められないように。



 そのようにして作り上げられた修学旅行や自然教室に僕自身同行したことがあるが、係の生徒たちは、まるでとりつかれた様に細案ばかり見ている。そして、多くの教員たちは、決められた通りに動けるようになった子どもを褒めるのだ。大人になった、と。



 はたして、スケジュールを見ないと動けない人間は「大人」なのか。



 小関学年が目指すのは、「臨機応変」だ。



事前から実行委員会、班長会、係会を何度も行い、生徒たちは当日の流れを頭の中でイメージする。さあ、バスが学校を出発する。その前に自分たちは何をしなくてはいけないのか。誰か乗っていない者がいないか。忘れ物はないか。気分が悪いものはいないか。各自が任された係の仕事を責任もって考えれば、為すべきことは自ずと分かるはずだ。大事なのは、一人ひとりが瞬間しゅんかんで自分がすべきことを考えることだ。本当の大人は、流れていく時間を不自然に分刻みにしたりはしない。



 では、小関学年では教員たちは何をするのか。応援団指導の時の小関先生と全く同じである。何もしないのだ。ただ信じて、生徒たちを見守るだけだ。
「さあ、次はどうする?」



5.「叱るとは愛すること」


 人が背負う物の中で一番嬉しくもあり、大変でもあるものは人の想いであることを小関先生は知っている。だからこそ、小関先生は時間をかけて、人の想いを背負うことの喜びと、背負えるだけの強さを育てようとする。それは、自分の想いの他に、友達の想いであったり、学年の先生だったり、共に汗を流してくれる部活の顧問だったり、親の想いだったりする。

  

 特に、朝も放課後も週末も、年がら年中自分と係る剣道部の子たちにおいては、小関先生は「この人に捨てられたら自分は終わりだ」というだけの人間関係をつくりあげる。だからこそ、叱り方も独特だ。



 教員時代、僕は生徒を叱る時には必ず怒鳴ったり、威圧的な態度を取ったりする教員を多く見てきた。自分自身そうすることも多かった。



 小関先生を良く知らない教員は、おそらく彼もそうしているのだろう。だから、剣道部の子たちも彼に対してあそこまで従順なのだろう、と勘違いする。だが実際はそうじゃない。僕は、彼と共に働かせてもらった6年半の間、一度も彼が剣道部員を怒鳴りつける所を見たことがない。



 小関先生が叱る時は、たった一言だ。



   「もういい。お前勝手にしろ。」



その一言で生徒は泣き崩れる。



 小関先生は言う、



拠り所となる人間関係があってこそ、子どもを叱れるんだ。


    「叱るとは愛することだ。」








6.終わりに ~僕が背負わせてもらったもの~

 「背負わせること」というテーマについては、いつか書かなければと思ってきた。頭の中で構想を練りながら、蘇ってきたのは自分の高校留学時代のことだ。今考えれば、高校二年生の夏に単身渡米した自分もまた、親からたくさんの想いを背負わせてもらっていた。



 日本では、親がお金のことを子どもに心配させないことが美徳とされるところがある。でも、うちの場合は違っていた。留学について親からGoサインをもらい、浮かれていた僕に親が教えてくれた。



 あなたが留学するために一年で170万円かかる。家計は苦しくなるけど私たちは我慢するから、あなたは勉強をがんばりなさい。



 170万といえば、16歳の自分にとっては未知数の金額だ。その時初めて気付いたのだ。自分は大変なことを言いだしてしまった…。





 高校留学時代、僕はいつもひもじい想いをしていた。
ニューイングランドの全寮制プレップスクールには、全米だけでなく、世界各国から裕福な家庭の子どもが集まって来る。周りは皆、高そうな服を着て、長期休みには必ず親とどこかのリゾートに行くようなボンボンばかりだった。



 一番きつかったのは食べ物だ。外にはもっと広い世界があり、中には 「一度でいいからお腹いっぱい食べることが夢だ」 と語る子どもたちがたくさんいることを知った今、なんて甘ったれた話なのかと恥ずかしくさえ思う。しかし、その頃の自分にとっては深刻な話だった。



 育ち盛りの年齢の子どもたちにとって、学校の給食でお腹が満たされるはずもない。6時半に夕食を食べても、9時までにお腹はぺこぺこだ。そこで、周りの友人たちは夜、スタディーホール(決められた勉強の時間)が終わると寮にピザを頼んでいた。皆、悪気なく僕にも声をかけてくれた。Daiyuも一緒に頼むか?



そんな時、決まって僕はこう答えた。



「いや、今は腹減ってないからいいや。」



 明らかな階級の違いに劣等感を感じていた自分は、 「お金がないから」 とは口が裂けても言いたくなかった。その頃の自分は一カ月1ドルの小遣いでやっていた。毎月決まって、1ドルでたくさん入ってる飴の袋を買うのだ。長い間口の中に残る飴は、口寂しさを紛らわせてくれたし、それを友達に振舞うことで自分の劣等感を埋めようとしていたのかもしれない。



 そんなことを知らない友人たちは、決まって訊くのだ。



この部屋で食べてもいいか?

ああ、いいよ。どうせ外に行こうと思ってたところだ。



 1時間ほどしてから帰ると、僕の部屋はいつもピザのいい香りに満ちていた。すると、我慢できない僕は、先生に内緒で隠し持っていた電気クッカーを取りだし、親に送ってもらったカワハギの干物をそれで炙(あぶ)るのだ。壁に向かい、しゃがみながらカワハギを炙るその絵が、なんともみすぼらしく思え、僕のひもじさを倍増させた。そして、部屋に立ちこめるカワハギの匂いは、ピザの匂いと比べてなんと品がないのかと、罰当たりなことを考えるのだった。



 でも、そのひもじくて悔しい想いが、自分を強くしてくれたのだと思う。こんな奴らに負けるもんか。自分を留学させてくれている親のためにも、何時間かかっても絶対負けない。そういう想いで勉強することができた。そして人生の師となる先生にも出会い、世界中の全ての知識を吸収しようと思った。



振り返って初めて分かることだが、その時に経験したハングリー精神が今の自分を支えている。もしあそこで、親が教えてくれなかったら、残された家族にかけている迷惑も苦労も知らなかったら、自分は同じように頑張れただろうか。



自分たちの想いを託し、それをしっかり背負うことを、親は教えてくれていたのだ。



 二人の子どもの親となった今、心に誓うことがある。
いつになるか分からないが、彼女たちが本気で何かをしたいと望んだ時、妻と共にできる限りの無理をして、我々の想いを託してやろう。

2010年1月17日日曜日

勝って己の愚かさを知る Part III ~人々の想いを背負って~

小関先生の剣道部


「私はこの中で一番弱い」

 全国大会を振り返って、小関先生がおかしなことを言った。

「あいつは、もし団体で全中(全国中学校剣道大会)に出ていたら自分の力は発揮できなかっただろう。」



 驚くことに、女子個人の部で全国制覇を成し遂げたその子に直接話を聞いたら、本人も同じことを言うのだ。みんなと出ていたらきっと甘えが出ていた、と本人は言う。



 彼女を大きく変えたのは、県大会の団体の部で優勝できなかったことだという。ずっと一緒にやってきたチームメイトと全国大会に出られなかった。しかも、チームが負けたのは自分のせいだったと彼女は今でも感じている。



 『不登校から日本一』でも書いたが、小学校では不登校になり、中学一年生の頃も学校を休みがちだった。彼女にとっては、放課後の剣道部が唯一の救いだった。



 剣道の素質には、部の中でも特に光るものがあった。だが、小関先生はあえて彼女を大将にはしなかった。前に行く4人(先鋒、次鋒、中堅、副将)で勝負がつかない場合は、全ての重圧が最後の大将にかかる。チーム全員の気持ちを背負えるほどメンタルの強い子ではない。小関先生はそう読んだ。



 代わりに、先生は中堅のポジションを彼女に与えた。ただ、強い彼女が中堅を務めることには特別な意味があった。あえて「勝って当たり前」という位置に彼女を置いたのだ。それは、逆に言えば、自分が負けてチームも負けたら全部自分のせい、ということになる。小関先生が彼女に身に付けさせたかったのは、人の想いを背負う強さ、器の大きさだった。







 県大会でその目標を達成できなかった彼女には、別の試練が待っていた。県大会の女子個人の部で優勝し、全国大会への切符をチームでただ一人手にしたのだ。



 熊本県で行われた全国大会には、チームメイトを含め、多くの人が地元である千葉県から応援に駆けつけた。今まで全部チームメイトのみんなとやってきたのに自分だけ…という申し訳ない気持ちと、自分一人のために多くの人たちが熊本まで来てくれたことに対する感謝の気持ちが混ざり、複雑な心境だった。もう、逃げることも、甘えることもできなかった。



 大会初日、自分の試合がいよいよ始まる前、彼女は周りの選手たちを見てこう小関先生に言った。

 

 「私はこの中で一番弱い。でも私を応援してくれる全ての人たちの想いを背負って精一杯がんばってこようと思う。」



 彼女が全てを一人で背負った瞬間だった。







「先生、わたし大丈夫」

 試合が始まると、かつてないほど緊張しつつも、自分の剣道である「攻め崩して打つ!」を課題に1、2回戦と順調に勝ち進んだ。

 3回戦ともなると、さすがに敵も強い。1、2回戦同様に1本目は取ったが、すぐに同じ技で返された。だが、小関先生の読み通り、最後は彼女らしいストレートの面を取ってきた。本人はどうやって打ったのか覚えていないそうだ。

 4回戦はベスト8を懸けた試合で、最終日に駒を進められる大事な試合だった。相手は福岡チャンピオンだ。この時、ハプニングが起こった。運営サイドの伝達ミスで、彼女の入場が大幅に遅れたのだ。応援に来たチームメイトが慌てて呼びに来るまで、小関先生も試合のことを知らず、急いで入場ゲートに向かった。小関先生はどんな言葉をかけるべきか迷ったそうだ。絶対に焦るなと言えば逆に集中できないのではないか、お前のせいではないから心配するなと言ったところでただの気休めにしかならないのではないか…。

 その時、彼女が控室の方から歩いて来た。慌てている様子はない。むしろ落ち着いているように見えた。そして彼女はまるで先生の心の内を悟ったかのように、こう言った。





 「先生、わたし大丈夫。」





 あの場面で普通の中学生にそんなことが言えるのだろうか。
先生は少女の成長に驚いた。このことを、後に小関先生は、
「一生忘れられない瞬間」 と振り返った。

 彼女は冷静だった。以前同じようなことがあった時、心を乱した
先輩たちが先生に叱られていたのを覚えていたのだ。







「だって先生笑ってたから…」

 試合場に行った時には、会場は非常事態にざわつき、審判も相手も相当苛ついていた。これはよほどしっかり打たないと旗が揚がらないという小関先生の読み通り、良い所で技が出ても審判の旗はピクリともしない。それでも、緊張が解けた後は、彼女らしい攻めの剣道を全うしている。攻め続け、死力を尽くしている。相手も強い。そして、延長戦でも決着はつかず、10分を超える試合に審判主任の判断で今大会初の「水入り」が入った。





 その時、小関先生は、勝っても負けても全てを気持ちよく受け入れようという、自分が今まで味わったことのない境地を感じたそうだ。後に、彼の姿を見た他校の先生に、その時の監督席に座る彼の姿が何とも美しかったと言われたそうだ。



 彼女はと言うと、休憩の間も一瞬小関先生の方を向いただけで、あとは相手から目を離さなかったそうだ。だが、彼女に言わせると、その一瞬が彼女を勝利に導いたという。



 休憩終了後、「はじめ!」の合図の直後だった。彼女のストレートの面で死闘は終わったのだ。



 戻ってきた彼女に小関先生が、お前よく打ったなと言うと、彼女は答えた。



    「だって先生笑ってたから…。自分の感覚信じろって言ったじゃない。
   先生が笑ってたから自信持って打てた。」



 ここのところは、小関先生の師匠である奥村先生をもって「究極のコミュニケーション」と言わしめたそうだ。








応援してくれる全ての人たちの想いを背負って


 最終日も彼女は勝ち進んだ。
決勝戦の前、入場ゲートで彼女が小関先生にこう言ったそうだ。



   「この試合、勝手も負けても終わったら、応援席に一礼をしようと思うんですけど…。」



 この場に及んでそこまで考えているのか…。小関先生は心打たれたそうだ。



 名前が呼ばれ、何千の観衆が見守る会場に入る二人の心は澄んでいた。



 決勝戦の相手は地元熊本代表の選手。会場は完全アウェーの状態だ。先に一本取ったのは相手だった。湧き起こる大歓声。でも彼女は動じなかった。すぐに彼女らしい見事な面で取り返した。





そして最後は引き面で勝利を掴んだのだった。



 彼女は、ある剣道雑誌の取材でこう話している。



   「最終日は面を着ける前からずっと泣きそうだったんです。
  なんでかは自分でもよくわからないんですけど。もちろん、勝ちたい、
  けど、負けたとしても応援してくれたみんなが納得できる試合をしよう
  と思って。そうしたら、試合が終わったときに自然と涙が出てしまって…。」



 小関先生の所に戻ってきた彼女は涙でボロボロだったそうだ。
ただ、驚いたことに、試合開始前に自分が言ったことも忘れてはいなかった。そうして二人は、応援席に向かって二度、深々と礼をしたのだった。








終わりに

 全国大会後も彼女は毎日練習に励んでいる。
小関先生にはずっと「日本一になったことに負けるな!」と言われ続けている。



 高校では部の寮に入って剣道に打ち込むという。茨城県のインターハイ常連校だ。



 剣道を通して、感謝の心と人々の想いをしっかりと背負える大きな器を手にした彼女は、いつの日かきっと日本を代表する大将へと成長することだろう。 

2010年1月16日土曜日

成人一年生としての今の想い ~寺澤美帆さんから~

大裕さん&大裕さんのブログをご覧のみなさん へ


  みなさま、こんにちは。大学2年の寺澤と申します。

 なぜ今回、私が、このような形でみなさんと繋がることができたのか・・・

 それはもちろん、このブログの主であり、

 毎回とっても素敵なメッセージを私たちに届けてくださる

 大裕さんから、10日程前にいただいたメールがきっかけでした。



 大裕さんのブログには、大裕さんの奥さまの知り合いの方の

ブログから昨年、たどり着きました。

  そして、しばらくして、「夢」についての投稿を募集されていたので

 勇気をだしてメールしてみたところ、大裕さんが紹介してくださり、

 それから、いろいろと素敵な時間をシェアさせていただいています。

 (私が以前投稿した時の記事はこちら↓

  http://daiyusuzuki.blogspot.com/2009/11/blog-post_1216.html

 実は、今月9日に都内で開催された分かち合いたいことの集いに、

私も参加させていただく予定でした。

 しかし、(私事で恐縮なのですが) 今年、成人を迎えた私は

地元の成人式典の準備のために、参加できなくなっていました。

 そしてその後、大裕さんから、小林さんの新年のあいさつに

つづいて、「成人一年生として何か一言、どう?」と声をかけて

いただいていました。


 声をかけていただいたこともとても嬉しくて、そしてちょうど、

ひとりでも多くの方と共有したいなぁ、と思っていた私のここ

最近のいくつかの出来事があったので、

 今日は少し長くなってしまうかもしれませんが、

この場をお借りして紹介させていただきたいと思います。



  少し時間を巻き戻して、まずは年の初めの出来事から。

ところでみなさん、年賀状、書きましたか?

 私は、便利なメールも好きですが、一人ひとりの顔と

その人との1年の思い出を、目をつぶって回想しながら

いろんなことを考える時間がとっても楽しくて、郵便で届ける

年賀状が大好きです。



 新年早々に、しばらく会えなかった知り合いからも素敵な声を

届けてもらえる年賀状ですが、今年はその中に、私にとって

特別な一枚がありました。



 それは、高校の時の担任の先生からの一通でした。



暑中お見舞いをもらっていた私は返信が書けずに、また、

そのタイミングを失っていたので、今年は真っ先に必ず

先生に送ると決めていました。



 先生が私のことをどれだけ覚えていてくれているかは分から

ないけれど、 私にとっては とーーーーーーーーーーーーーっても、

大切な存在です。



 あの時の先生のあの言葉がなかったら、 今の私はこんなに

幸せを感じることはできなかったのではないかなぁ

と、いつもいつも思っています。



 そんな大好きな先生からの年賀状に書いてあったメッセージ...




 ***************

 相変わらず

 “今”を一生懸命に生きていますね

 やはり あなたには

 「勇気」と「やる気」が 備わっています。

 これからもその調子で

 自分の夢に向かって頑張ってください。

 *****************



 言葉だけみると、なんてことない文章ですが、

ある意味、友達よりも濃い時間を共有していた

先生との日々を思い出すと、とても感慨深いです。



 恩師と呼べる人の言葉にはいつも、 心のわだかまりが

「すっ」と消えてなくなるようなとても不思議な力があります。



  高校生の頃、ずばぬけて得意なことがあるわけでもなく、

進路適性テストみたいなものでも、いつだって、

どれも平均の少し上をうろちょろしているような私は、

この先、一体自分に何ができるのか、途方に暮れていました。



 そんな時、先生は、わたしの診断結果を覗き込みながら

「てらちゃんは、きっと 何をやっても、成功するんだね。」

「だから、どちらに、 どんなふうに転んでも、あなたなら大丈夫。」

そう言って励ましてくれました。 



 あの時この言葉が、どれだけ今の私を支えてくれていることか。

友達には相談できない身内の話を、真剣に、親身になって

聞いてくれて、時には一緒に泣いてくれたこともありました。



 今でもまだ、思い出すと目頭が熱くなってしまいます。

そして、年賀状の喜びが冷めやらぬまま、先日1月11日、

私は成人式を迎えました。実はこの日は、私の誕生日でした。

 

 式典当日が自分の誕生日と一緒だということを知った時は、

運命のようなものを感じて、当日は絶対に、式典の主催者側の

一員となって、一人でも多くの人が、喜びと感謝の気持ちを

みんなで分かち合える空間を作り上げよう、と決心しました。



 当日、あっという間に過ぎていった本番、

どれだけの人の心に届いたかはわかりませんが、

式典での新成人代表の挨拶の中で、今ある思いを

伝え共有することができ、とても幸せでした。



 式典後の同窓会などでも、たくさんの友人にお祝いの言葉と

「すごく良かったよ」「お疲れ」「ありがとう」の言葉を何度も

かけてもらいました。



 そこで私は、感謝の言葉が持つ、人と人を分かち合わせて

くれる魔法のような引力に、改めて感動していました。



 そして、同窓会に集まった約150人の中学校の同級生に

歌ってもらった「Happy Birthday♪」はこれまでもこれからも、

最高の誕生日プレゼントであり、一番の宝物だと思います。



 最後に、二十歳、そして成人という、人生の大きな節目の年を

迎えた私ですが、正直なところ、まだまだ大人というものが

どんな姿であるべきなのか、そして、どうすれば大人になれる

のかまったくわかりません。



 ただ一つ、今考えていることは

『自分が変われば、世界を変えることができるということを

信じ続けてみよう』 ということです。



 わたしが今、学校で環境問題について学んでいるからかも

しれませんが、自分にできることが、どんなにささいなことで

あったとしても、その方法が今ある世界や地球にとって正しい

のならば、恥じることもないし、大きなことができないからといって、

落ち込むこともないのだと確信することができました。



 とても幸福なことに、私の身の回りには家族や先生、ブログを

通して出会った方々も含める本当にたくさんの出会いの中に

「あぁ、私もこんな人になりたいなぁ」と思える方々がたくさんいます。



 年齢や性別に関係なく、そんな素敵な方たちとの出会いから

学んだこと、それは、私なりにですが、“感謝の気持ちを忘れずに

いること”だと思いました。



 誰か何かに感謝をしている時、それはとても幸せな気持ちで

いる時です。そして、誰か何かに感謝したいと思う時、それは

誰か何かのために、なんの疑いもなく頑張れる時だと思うのです。  



 きっと、このブログを読んでいらっしゃる皆さんは、

ほとんどの方が私よりも人生の先輩だと思うのですが、

みなさんは、ご自身が二十歳を迎えられたとき、どのような

気持ちでいましたか。



 もしくは、これから成人を迎えられる方もいるかもしれません。

これからを、どんな思いでいるのでしょうか。



 よかったら、みなさんの当時の思い、

そして、今ある思いも共有させて頂けたら嬉しいです。



 長くなってしまいました・・・ 

最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

残すところ、350日となった2010年も、皆様にとって

至福の1年でありますように。


                    2010.1.15 てらさわ みほ



同じ中学校を卒業した式典実行委員のメンバーです。
ピンクの着物が私です。

2010年1月15日金曜日

勝って己の愚かさを知る Part II ~可能性無限~




 前回書いた「勝って己の愚かさを知る」をもう少し深めてみたいと思う。

 もしかしたら、読者の中に、「勝ったのはその生徒であって小関先生ではないだろ」と疑問をもった人もいるかもしれない。確かにその通りで、小関先生自身も、 「その通りだ」 と即答するだろう。

 でも、小中高レベルのスポーツにおいて、勝負の命運は指導者一人の力によって大きく左右されることも確かだ。それは、試合における決定的瞬間の采配ということだけではなく、選手たちがどのような練習をするか、どのような生活を送るか、どのように力を伸ばすかなど、全てにおいてだ。だから、それなりの指導者が指揮を取るチームは常勝チームとなるが、良い選手が揃っているチームが必ず勝つとは限らない。弱小と呼ばれていたチームが、新しい指導者によって急に強くなることがあるのと同時に、常勝とされたチームが指導者の交代によって音を立てて崩れることも少なくない。

 おそらく、子どもの成長という視点で語るならば、これはスポーツに限らず全ての分野に通じることだろう。子どもがどれだけ伸びるかは、指導者の器によって大きく左右される。

 もし小関先生に、「今回勝ったのは誰か?」と質問したら、「その生徒だ」と答えるだけではなく、こう付け加えるだろう。
 
  
    「ただ、今まで負けてきたのは自分のせいだ。」

 
 今回日本で話を聴いた時、小関先生は勝たせてあげられなかったかつての教え子たちを振り返り、「あの子が日本一になれるのだったら…」、と本気で嘆いていた。何故今までこれが分からなかったのだろう、日本一はここにあったのか、と反省する彼の姿が印象的だった。







 今回の日本帰国で、僕は自分の目で日本一に輝いたその生徒の成長を見てみたいと思っていた。まだ一年生だった時に自分が英語を教えさせてもらった子だ。すると、その意向を聞いて小関先生が翌日彼女と会える機会を作ってくれた。その場で彼女に電話をして、翌朝には彼女の父親が、後輩の試合の応援をしに行く彼女を乗せて、僕を拾いに来て下さった。

 会場に行く車の中でも彼女にたくさん質問をして、様々なことを話したが、会場に着いた時、ある質問をぶつけてみた。



 小関先生は、「あいつに勝てるんだったら…」と言っていたけど、どう思う?



 かなりきわどい質問だと思ったのだが、驚いたことに彼女は、「小関先生によく言われますよ」と、自然な笑みを見せるのだった。

 続けて質問をした。

    「それはすごい褒め言葉なの分かる?」

すると、彼女は答えた。

    「なんとなくだけど、分かる気がする…。」



 ああ、大人だな。僕はうなりたくなった。

飲みながら小関先生が繰り返し言っていた言葉を思い出した。



    教育ってすごいよ



 子どもの可能性は限界を知らず、それを伸ばすのが教育の力であり、教育者に任された使命なのだ。

 「可能性無限」というモットーでチームを引っ張ってきた小関先生だが、今回の大会で身に染みて感じたのは、きっとこの言葉の意味なのだろう。

 「あいつに勝てるんだったら…」とおどける小関先生は、子どもの成長を心から喜ぶ父親の目をしている。

2010年1月14日木曜日

勝って己の愚かさを知る

小関先生の剣道部。保護者の方々も非常に熱心で、
先生と一緒になって子どもたちの心の教育に携わっている。



 約2週間の日本滞在を終え、今朝ニューヨークに帰ってきた。

おかげさまで家族全員、体調を崩すこともなく、日本の正月を堪能することができた。2歳になったばかりの愛音は日本で日本語が開花した。NYでは日本語が通じないことが多いので、いきなり周りのみんなが自分の言語を話す環境に行って、言葉でコミュニケーションを取れることが嬉しくて仕方なかったようだ。3か月になったばかりの美風は、妻の栄養がよっぽど良かったのか、この旅行中に体が一回り大きくなった。

 今回の一時帰国、日本一になった小関(こせき)先生の話を直に聴くことをとても楽しみにしていた。



 会ったのは手羽矢という馴染みの店だった。鳥インフルエンザが流行り冷えびえとしていた頃も、小関先生と共に鳥刺しを食べに通い続けた店だ。行くと必ず店長自ら挨拶に出て来られ、きっぷのいい名物姉ちゃんがもてなしてくれる。加えて、数年前からバイトに入っているのは、僕が教員になって2年目の代でキャプテンと副キャプテンを務めた野球部の教え子だったりする。



 だから、いつもタイムサービスの延長は当たり前、頼んでもいない物が出てきたり、小関先生が全国制覇した折には、店長がどこからか情報を聴きつけて一升瓶の日本酒が振舞われたりもした。何度あの場所で小関先生や彼の数少ない理解者の先生方と共に教育を語り合ったことだろう。半年振りの小関先生との再会は、鳥刺し、手羽先唐揚げ、手羽餃子、「すずきだいゆう」の名前でキープされている(というか更新され続けている)チープな焼酎のお湯割り、小関先生のお話、全てがパーフェクトだった。



 小関先生の全国制覇に関しては、以前も『不登校から日本一』で書いた。あれは、大会が終わり、まだ興奮冷めやらぬうちに国際電話で聴いた話を自分なりにまとめたものだ。あれから半年、先生の口から、今何を思うかを直に聴いてみたかった。



 その話に話題が移ると、開口一番小関先生が言った。





   「俺は勝って己の愚かさを知った。」





 鳥肌が立った。

先生の足元にも及ばない自分には、あまりにも重い言葉だった。





T.S.エリオットの言葉が僕の頭をよぎった。

 



“What we call the beginning is often the end

And to make an end is to make a beginning.

The end is where we start from…



We shall not cease from exploration

And the end of all of our exploring

Will be to arrive where we started

And know the place for the first time.”



Little Gidding by T. S. Eliot



「我々が始まりと呼ぶものは大抵終わりであって

終えるという行為は始めるということに他ならない。

終わりとは我々が出発する場所である…



探検を続ける我々は

全ての探検の終わりに

出発した所に辿り着き

その場所を初めて理解するのだ。」



リトル ギディング by T.S.エリオット

(訳責: 鈴木大裕)





 「勝って己の愚かさを知る」というのは、今までも「勝って反省、負けて感謝」と言い続けてきた小関先生らしい言葉なのだが、監督として全国の頂点に立った時、彼が学んだのはそれまでの自分の愚かさだったというのだ。これには見事な面を食らった。ちっぽけな自分に気付かされるのと同時に、残ったのは感謝の念だった。自分なんてまだまだだ、と苦笑いに首を振るしかなかった。

2010年1月11日月曜日

バーチャルからリアルへ



 先日、初の『分かち合いたいこと』の会を開きました。

 四万十川YHのさっちゃん、新吾さん、和宏さん、穴澤さん、てるみさん、そして自分という、職種も年齢もバラバラな6名が集まりました。僕以外は全員が初対面。話しているうちに、「あ、あれを書いていたAさん?」などと、バーチャルの世界がリアルな世界へと融合していくのが感じられました。他にも、「これが網棚に忘れた例のリュック??」なんていうのもありました…。



 でも、写真を撮るのも忘れ、2時間半は本当にあっという間に
過ぎてしまいました。もっともっと話したいことはあったのに…。



 「分かち合いたいこと」の会、また夏にやりたいと思います。
どうしてもブログ上で出会うのと、実際に出会うのとは違うから。
もっと言えば、書くこととやることは絶対に違うから。
書くことだけで満足したくない。語る言葉を実際に生きること、
大事にしたい。



 このブログを訪れてくれる多くの人が、自身のポジティブな
エネルギーを活字にしてくれています。それを読み、ずっと
ワクワクしながら想いを馳せていることがあります。
ここから何が産まれるのだろう?



 いつの日か、ここに集った人たちのエネルギーを、
何かの形にできたらと思います。

 

 変化のためのコミュニティーづくり、一緒にやっていきませんか?

2010年1月4日月曜日

新年のごあいさつ ~ 小林美恵子さんから ~


私の愛車。
雪の中、愛車は私を乗せて学校や実習先まで走ってくれます。



「あなたと分かち合いたいこと」ブログをご覧のみなさん、

昨年「私の夢」を発信させてもらったMKです。



当初、恥ずかしさや照れもあり実名を公表せずに載せていただいていましたが、

続々と続くみなさんの夢発信に、私もきちんと名乗らなくては…

と思いつつ、新年を迎えました。



あらためまして、MKこと小林美恵子です。





今回、バーチャルではなくリアルな世界での分かち合いができればと

大裕さんが用意してくださった場に、残念ながら参加することができません。

そこで、この場をお借りしてみなさんにご挨拶をさせていただけたらと思います。



昨年は不思議な縁で、このブログに出会わせていただき、

導かれるように「夢」を語り、

たくさんの方の「夢」「おもい」に触れ、

勇気や、やる気をもらいました。



今年、2010年は私にとって区切りの1年になります。

夢を形にする初めの一歩、つまり、

これから先、職業人として歩んでいく場所を決める時です。





これまで4ヶ月間の実習の中で、

たくさんの出会いがありました。

「おもい」だけでは人は救えないこと、

知識がなければ専門職としての意味をなさないこと、

誰かにとっての「一番」は、

他の誰かにとってはそれほど大切に見えない場合もあること、

一人ひとりの「一番」大切なものを知る努力をすること。





そんな思いを抱えながら、

たくさんの人に支えられ、成長させてもらいました。



迷いも不安もあるけれど、絶対に揺るがない思いがあるとすれば

「生きること」の尊さを伝え、支えていく仕事をすることです。





また、夢の続きを報告する機会がありますように。







2010年も、みなさまにとって素晴らしい1年となりますように。





ありがとうございました。
 

2010年1月3日日曜日

1月9日に会いましょう




 1月9日(土)に三鷹で会いましょう。八王子方面や千葉方面から参加される人がいるので、一応アクセスの良い場所を選んだつもりです。今のところ、四万十川YHのさっちゃんを含め、6~7人の人たちが参加を希望してくれています。昨年ブログを通して出会った仲間たちと、バーチャルではなくリアルな世界での分かち合いができれば…、そう思っています。

詳細は以下。参加希望の方はメール又は電話にてお知らせください。



時: 1月9日(土) 18:00~

場所:三鷹駅(JR中央線・総武線、地下鉄東西線)付近の居酒屋

連絡:直接大裕までds2755@columbia.edu 又は 080-3464-9318(1月13日まで使用)



お会いできるのを楽しみにしています。



        大裕

2010年1月1日金曜日

人生最良の一年




みなさん、明けましておめでとうございます。

この場をもって2010年、新年のご挨拶をさせて頂きたいと思います。







 振り返れば、2009年も人生最良の年だった。2年目の生徒が受ける博士課程認定試験(Doctoral Certification Exam)の合格、引っ越し、初のヨーロッパ上陸初のTA(教授のティーチングアシスタント)、次女の誕生…。数多いハイライトの一つに、ブログとの出会いがあった。



 ブログを始めたのが8月中旬。4カ月が過ぎた。まだ4カ月か、といった感じだ。もっと古い付き合いのような気がする。僕にブログを始めるようにずっと勧めてきてくれたあきこさんや妻に今では感謝している。



 僕が思うに、ブログには教員の仕事と重なっている部分が多分にある。



 以前も言ったように、僕は教えることとは感動の分かち合いだと思ってきた。感動したら、それを人と分かち合い、生きることの喜びを共有する。人生から学んだり、恩恵を受けたりしたならば、それを今度は人に返す。分かち合いの媒体としては、教えもブログも変わりはない。


 
 僕は、離れた今でも、教職というのは素晴らしい仕事だと思っている。それは、尊いだけではない。僕が教職を愛する理由の一つ - 教員は常に自分自身を高めることができる。



 教員は教科を教えるだけではない。生徒との日々の係わりの中で、彼らの大人への成長の補助をすることが役目だ。そして、それは想像以上に難しい仕事だ。教員は、「大人」と「子ども」の違い、「善いこと」と「悪いこと」、「すべきこと」と「すべきでないこと」などの複雑な問題を問い続けなくてはならない。そして、子どもの生活において最も身近な他人の「大人」として、自分がその「大人」の見本とならなければならない。「夢を持て!」と生徒に語るのなら、自分自身が夢を持たなければいけないと思う。「自分に厳しく!」と言うのなら、自分が常に自身に厳しくいなくては嘘になる。だから、教員が教室や学校という公の場で、道徳や自分の学び、失敗、夢や決意を語ることは、自分を律するということでもあるのだ。



 人に語る言葉は全て言質として自分に跳ね返ってくる。その分、発した言葉は、自身の行動で命を吹き込んでやらなければならない。これはブログも一緒だ。想いを活字にすることは、僕自身の気持ちを引き締めてくれる。







 博士課程2年目に突入した去年は、「発信すること」を自らの課題として、しっかりと取り組むことができたように思う。今年は、その課題を引き継ぎつつ、「世界を広げること」を新たな課題としたい。どんな学びや出会いが待っているのか、今から楽しみだ。今年が終わる時、また、「人生最良の一年だった」と言えるようにしたい。





      最後に…。





今年もどうぞよろしくお願い致します。

2010年が皆さんにとって人生最良の一年となりますように。

 
                          鈴木 大裕    2010年 元旦