2010年3月30日火曜日

Re: 目的と手段の一致(仕事と人生) ~小林美恵子さんから~

「仕事」は人生においてどのようなものか、


それは、人それぞれなのだと感じます。

みほさんやてるみさんのコメントを読んで、

本当に色々な捉え方があるものだなぁと思いました。







「仕事の目的は夢や自己実現じゃない」って、

私にはよく理解できます。

以前の職場で、定年を間近に控えた上司が

たった4年のキャリア経験で退職を選んだ私に話してくれたことを

印象的に覚えているのです。





若気の至りで「私、自分が望めば何者にでもなれるような気がしています」

と言った私に、上司は笑って





「若いっていいね、小林さんは望めばきっと何者にでもなれるよ」と。

そして「私なんて同じ仕事続けて40年、仕事が生きがいってわけでも

ないけど守りたい家族がいるからね。平凡だよね」って。

私はそんな上司をカッコいいなと思いました。

上司にとっては仕事は夢や自己実現じゃなかったけど、

働くことの目的ははっきりしていて、

例えば家族が幸せであることとか、そういうことかなって。





仕事において「求められている道をいくこと」それも幸せな

ことだと私は思いました。

自分ひとりでは「個性」というものが存在しえない世の中で、

他者が私に求めてくれる役割というのは、

「期待」や「信頼」と同様の意味を持つものではないかと思います。



「あなたにならできる」「あなたにやって欲しい」

そのような他者からの客観的評価は、

何かに熱中すると周りが見えなくなりがちな私にとっては

非常にありがたく、私は求められた仕事を可能な限り受け続けてきました。



これは本当に自分のやりたいと思っていたことなのか?

渦中にいる時には疑心暗鬼になる事もありましたが、

振り返ると何一つ無駄なことはなく、経験として価値観を広げてくれました。





数年前、いのち教育のフォーラムに参加した時のこと。

私たちの「生きる力」とは何かということがテーマになりました。

私はその日の日記に







  私たちの“生きる力”って何だろう

 

  「会いたい人がいる」

  「自分を待ってくれている人がいる」



  そういうことが、私たちをいかしてくれている目には見えない力。

 

  会いたい人がいる、

  私は、誰かのために何かができているかな?

  でも、誰かに必要とされる人間でありたい、そう思った。



  自分の人生は、自分が決める。

  まずは目標を持つこと。



  どんな人と一緒に生活したい?

  どんな仕事をしたい?



  目に見えない繋がりに、ありがとう。

  今日も生きています。

  生きる力に支えられています。









という感想を書いていました。

この日の想いは今でも大切にしていて、時々日記を読み返します。



誰かを必要とすること、誰かに必要とされること。

私自身はたくさんの人の支えを必要としていて、実際に支えられています。

だからこそ私を必要としてくれている人の役に立てるように、

今の自分にできることを続け、前進しているところです。

Re: 目的と手段の一致(仕事と人生) ~てるみさんから~

大裕さんへ




まずはみほちゃんありがとう!

(中略)
″どんな人生を送るためにどんな仕事をするのか。大事なのは目的と手段を一致させることなのではないだろうか″



 どうだろう。私にはまだ、この言葉を自信を持って言える自信がありません。人生の夢や目標を果たす方法は、やっぱり「仕事」なのですか?それとも大裕さんの言う仕事とは、私が描いているjobとは少し違うのかな。



 先日俳優の哀川翔さんにインタビューする機会がありました。彼の話を聞いていると、自分の望んでいる手段(仕事)とは違った選択をしても、人生を輝いて生きている人はいるのだと感じます。彼は仕事に対して、「求められている道を行け」と言います。自分のやりたいことと、人から求められていることは必ずしも一致しない。そんな時は自分を欲してくれる場に行くのが一番だと。例え一番に望んだ環境でなくても、精一杯自分の力を注ぐ努力をすれば、そこで最高の達成感と喜びが得られる。そんな話をしてくれました。人生の喜びと、仕事から得られる喜びが重ならない人もいる。手段が目的と一致しなくても、仕事だからと割り切る人がいる。「仕事の目的は夢や自己実現では無い」と言い切る人にも出会いました。それは悲しいことなのですか?もしも私がそんな風になったら、大裕さんはがっかりするかな?



 哀川さんの話を聞いた時、それは何かを諦めたり妥協することになるんじゃないかって、納得できないようにも感じました。「現実」や「仕事」という言葉を発する表情も、どこかポジティブではない雰囲気だった。でも大裕さんの言葉を聞いても少し不安になる。目的と手段が一致出来なかった時、大裕さんに同情されるなんて絶対にごめんです。



 自分にとって何が幸せなのか、まだよくわからないけれど、でも自分がやりたいと思っていることを、周りも私に求めてくれる人になりたい。大裕さんのメッセージや、出会った人たちの話を聞いて余計にそう思うようになりました。



                          てるみ

Re: 目的と手段の一致(仕事と人生) ~美帆さんから~

大裕さん、



こんにちは。

今日、てるみちゃんと初デートしました!!!笑



(中略)



今回の記事と、今日照美ちゃんと過ごした時間の中で少し似た話をしました。

それは、「忙しさ」のこと。

忙しい、時間がない、大変、これってきっと、自分自身が勝手に作ったものさしで決めていることなんですよね。

しかも、そんなことを口にしているときほど、時間を無駄に過ごしていたり、暇を持て余したりしがち。

少し前の私もそうだった…。



でも、最近出会った人で、素敵な言葉をくれた人がいるんです。

それが、「神様は、どんな状況や環境にいても、あらゆる試練と成功を平等に与えてくださっているもの、だから自分のペースで、できることをしていれば大丈夫よ」と。



この言葉を聞いた時、実は家でとてもsensitiveなことが起こっていて、現実をつきつけられて辛かったのですが、なんだかこの言葉に救われた気がして、涙が止まらなかったんです。



目的と手段についても、ここ数日のつながりの中で、少し高みに近づけるかも!と思う出来事があったんです!

だからまた頑張れそう!!照美ちゃんもいることだし!笑



今いる自分の環境が、幸せすぎて、言葉では感謝しきれそうにありません。だからあとは、行動で示すのみ!やるしかない!!というのが最近の私の近況です。

ある意味、境地に立たされて、今さらのことのようにも思えるけど、でも、楽しみでしかたないのです。



長々と書いてしまってごめんなさい。

照美ちゃんと会えたことを報告したかっただけなのですが・・・。笑





美帆

2010年3月27日土曜日

「去る時に惜しまれる人であれ」

 今年も離任式の季節がやって来てしまった。
自分が教員としてお世話になった中学校からも、それなりの人数の教員が去って行かれる。中でも、自分が特にお世話になった先生方が3人、思い出の詰まった校舎を後にする。



 小関先生、事務の田仲先生、そして養護の山本先生だ。
 このブログを読んでくれている人の中で、小関先生のことを知らない人はいないだろう。(考えてみればそれもすごい話だ。)でも、後の二人の先生は初登場だ。初登場とは言っても、小関先生を影で支え続け、僕の教育観にも影響を及ぼして下さった先生方なので、既に何度もブログに登場して頂いた錯覚まで覚えてしまう。



 事務の田仲先生は、教員となった僕が出会った人たちの中で、教育を熱く語れる数少ない人物だった。学校の事務員という立場から、常に学校運営を冷静に見つめ、我々教員が子どもの教育という仕事に専念できるよう、影の仕事を全て引き受けて下さっていた。



 それだけではない。以前はテニス部の顧問を務め、県大会まで経験した熱血事務員だ。だから、教員の評価の基準となりがちな、教育とは関係のない事務仕事よりも、自分が受け持つクラスや部活の子どもたちを見て、僕を評価して下さった。



 穏やかな反面、頑固で筋を通さずにいられない性格でもあり、職員会議で立ち上がって職員たちを叱りつけることもあった。(そんな時、小関先生は必ずにやにやと田仲先生を見ているのだった。心の中では 「お~、もっとやれやれ~ -^o^-」 と思っていたに違いない。)僕が野球部を指導するところを、いつも2階の窓に肘をついて見ていた田仲さんの姿が自分の目には焼き付いている。



 養護の山本先生はと言えば、僕は彼女のような養護教諭とは出会ったことがない。優しさの中に厳しさを併せ持つ、素晴らしい日本の女性だ。



 「女性らしい」 なんて言うと一部のフェミニストに怒られてしまうが、山本先生には間違いなく男性にはない何かがある。曖昧だが、彼女の優しさも、厳しさも、謙虚さも、心遣いも、立ち振る舞いも、子どもとの接し方も、何もかもが女性的に見えるのだ。男には真似のできない女性の強さがそこにはある。

 

 田仲先生同様、穏やかな半面、筋の通らないことは許せない性格だ。だから若い教員はもちろん、ベテラン教師も甘やかさない。あんなにとびきりの笑顔で男性教員にダメ出しをできるのは、僕が知る限りでは彼女だけだ。そうそう、近年男の子にありがちな母親依存症(逆もまた然り)に気付けば、母親を保健室に呼んで生徒指導ならぬ母親指導することもあった。



 もちろん、生徒に対しても同じだ。山本先生は優しく、厳しい。心や体のケアを必要としている生徒に寄り添い、少しでも甘えの見える生徒はすぐさま教室に突き返す。 「ショック~!」 と言いながら帰る子たちも、皆山本先生が大好きだ。子どもたちとの信頼関係を通して、彼女は子どもたちのあらゆる情報をつかんでいた。



 処置をしつつも、常にその子が独り立ちできるように支援する…、生徒と接する彼女の姿にはそんな母親の愛があった。おかげさまで山本先生がいらして以来、我が中学校の保健室利用者は激減した。保健室に入り浸る子どもたちが全国的な増加にある中、これこそ学校の健康の度合いをを示すバロメーターだと思う。



 話し始めたら止まらなくなってしまった。ただ、これだけは言っておきたい。自分は教員時代、この二人の先生方にどれだけ救われたことか。もしこれで現在は教務の関先生まで抜けてしまっていたら、我が中学校の縁の下の力持ちは壊滅してしまうところだった。皆、本当に子どもを愛し、小関先生を影で支えてきた素晴らしい教育者だ。



 小関先生が毎年3年生に言い続ける言葉がある。



「去る時に惜しまれる人であれ」



 皆、この言葉を自分たちの生き方で実践してきた先生方だ。
小関先生、田仲先生、山本先生 - あなたたちがなさった尊い仕事に敬服し、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。



平成22年3月27日 

鈴木大裕

Revisiting 『今こそが未来』



 目的と手段、仕事と人生…。
このテーマの根底にあるのは最終到達点という幻想に思えてならない。

 考えれば考える程、今まで書いた数多くのテーマとの繋がりが見えてくる。既に終わったものと思われているかもしれないが、「(信)守・破・離」のシリーズも、 「消費資本主義と教育の商品化」 のシリーズも、まだ僕の中では終わっていない。でも、この 「目的と手段」 を考えることによって前に進めそうな気がしている。

 さて、前回書いた 『目的と手段 Part II ~仕事と人生~』 と深く関係していると思うので、今一度、既に紹介したエッセイを振り返ってみたい。 『君たちに伝えたいこと』 というシリーズで、自分の教え子たちに宛てて書いたエッセイの一つだ。






 自分は高校でアメリカに行ってから、第二の人生が始まったと思っている。毎日が未知の連続だったし、分からない英語で、どうやって自分という人間を表現しようかと必死だった。慣れてきてからも、幸福なことに、自分の才能を本気で信じてくれる数多くの素晴らしい先生に出会い、常に新たな課題を与えられ、自分の可能性に挑戦させられた。何かとてつもないことに挑戦することの楽しさを知り、自(みずか)らの無限の可能性を信じられるようになった今も、挑戦は続いている。だから毎日が失敗、反省の連続だし、自分が日々進化しているように思う。普通、社会に出て職を持った時が「将来」と言うのだと思うが、30歳を超(こ)えた今も、自分の将来にワクワクしているし、「将来の夢」もある。今、こうして今までのことを振り返ってみて言えること ―― それはいつの時も自分が懸命に生きてきたということ。無駄なこともたくさんしたし、遠回りもいっぱいした。でもいつもがむしゃらだった。

 人は、現在からはまったく創造もつかないような生活を思い浮かべ、自分の「未来」に期待を膨(ふく)らませる。でも、今日なしに明日はない。何が起こるか分からない未来に期待を膨らませる前に、何が起こるか分からない今日という新たな一日に胸を躍(おど)らせるべきだと思う。「未来」なんていつまで待ってもやって来やしない。やってくるのは「今日」だけだ。 

 じゃあ未来とは何なのか。それは灼熱(しゃくねつ)の砂漠の向こうに突如現れ、一人で旅する少年を誘惑する湖の蜃気楼(しんきろう)のようなものだと思う。追っても追っても辿(たど)り着けない幻(まぼろし)。来る日も来る日も懸命に歩き続けた少年はふと立ち止まる。自分自身を見つめた時、少年はいつしか知恵も勇気もある、たくましい男に成長している。そして、鏡を見つめる自分が、小さい頃夢に現れた旅人であることに気付く・・・。未来とはそんなものなのだと思う。あるのは「今」だけであって、その現在とは過去の自分にとっての未来なのだ。

 将来自分は何をしたい?どんな人間になっていたい?もしそれを本気で考えて、本気で実現しようとしたら、そのために自分は「今」というこの瞬間に何をすべきなのか、きっと分かるはず。ある朝、目が覚めたら急に自分が強くなっていた、なんてことある訳(わけ)がない。ふと起きたら自分が大人になっていた、なんてあり得ない。だから結局は、一日一日を自分がどう過ごすか、何を学んでどう成長していくかが、その人の未来を決定するのだと思う。今日という一日を精いっぱい、命いっぱい生きよう。今こそが未来。


1 / 1 / 2005  鈴木 大裕



2010年3月25日木曜日

目的と手段の一致 Part II ~仕事と人生~

我が家の毎晩の風景。2歳3カ月になる愛音が寝る横で勉強する。
とりあえず8:30頃には子どもと寝てしまうことにしている。
そして、小一時間ほど寝ると、集中力も復活するので、
誰に邪魔されることもなく、自分の気が済むまで勉強ができる。




この頃、僕に二人の娘がいることを初めて知ったクラスメイトに、 「大変だねぇ」 と言われることがよくある。僕は決まって



「全然大変じゃないよ。」



と返すことにしている。そして、そう口にする度に、小関先生が同じ言葉を言っていたのを思い出す。









小関先生はいつも忙しい人だ。
たくさんの大事な仕事を請け負うために、それらが重なることも日常茶飯事だ。例えば、3学年の学年主任をすると同時に担任として受験生を受け持ち、全国クラスの剣道部顧問(男女)として朝練・午後練の他毎週末のように県外へ遠征、その上小中学校体育連盟の事務局を務めていたこともある。



大変だねえ、と他の教員や保護者から寄せられる同情に小関先生はケロッと答える。



全然大変じゃないっすよ。



一つには、相手に気を遣わせないという彼の器の大きさがある。

受験を控えた3年生の生徒たちにもいつも言っていた。



受験生だからと言って親や周りに気を遣わせてるようじゃ勝負には勝てない。



もう一つは、きっと小関先生にとっては、大変だけど大変じゃなかったのだ。小関先生を見ていて常に思っていたのは、彼にとっては教えるという仕事と人生の境が存在しないのだ。だから、体は大変だけど心は全然大変じゃない。



現に、小関先生はいつも言っていた。



子どもといる時が一番心が休まる。



そんな小関先生を見ていると、 「仕事」 というものについて考えさせられる。



仕事を生きていく上でのoccupationと考えるのか、missionと考えるのか…。

仕事は生きるための 「手段」 と受け入れるのか、

仕事こそ自らの生きる 「目的」 と信じるのか…。



教えることは、小関先生にとって生きることそのものなのだ。









僕が、 「大変だねぇ」 、と人に言われ、 「全然大変じゃないよ」 と返すのも、決して嘘ではない。同じ学生をやってても、成績のために勉強している人はいつも 「大変!」 と言っているように思う。でも、以前、 『こなすのではなく』 でも書いたように、学びたいから学生をやっている人間にとっては、全然大変なんかじゃない。子どもが寝ている夜中に勉強したり、勉強以外の自由な時間がないという点では、家族をもっていない学生よりは確かに大変かもしれない。でも、それが苦になったりはしない。自分に与えられた環境に感謝しつつ、自分にできる精いっぱいのことをやるだけだ。それに、子どもの存在こそが妻との絆を強め、僕の情熱と勉強の懸け橋となってくれているのだ。



このブログに関しても同じように思っている。大変だけど大変ではない。だからこうして続けられているのだと思う。いつも宿題や睡眠の時間に食い込んでくるが、こうして書くことそのものが自分の学びになっていると信じている。その意味ではこのブログと、目の前の勉強と、自分の人生の境目は感じない。小銭を稼ぐためや、何かその他の目的のためにやっている人はどれだけ大変かと同情してしまう。



どんな人生を送るためにどんな仕事をするのか。大事なのは目的と手段を一致させることなのではないだろうか。



もちろん、全ての人が自分のライフミッションを見つけられるわけではないし、見つけたとしてもそれに従事できない理由がある人もいるだろう。でも、もしそうすることが可能な環境に恵まれたなら、その人にできることは、自分の恵まれた環境に感謝しつつ、自分の目指すべき生き方を謳歌することなのではないだろうか。それが、自分の人生に責任をもつことであり、自分に与えられた命に対しての恩返しなのだと僕は思う。

2010年3月24日水曜日

目的と手段の一致 Part I


今学期取っている授業の一つに、Living Justice, Teaching Justice: Studies of World Leaders as Visionary Teachersという異色のクラスがある。教育哲学のクラスで、ガンジー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師、マザー・テレサ、ダライ・ラマといった世界のスピリチュアルリーダー達の哲学を教育学の観点から考えるといった内容だ。あまりにも大ざっぱで抽象的なフレームだが、彼らの思想がstandards (基準) 、テスト、 「学力」 に支配されている現代の教育に示唆するものに惹かれ、受けることにした。

おかげさまで、たくさん考える材料をもらっている。この場でも徐々にシェアしていきたいと思う。

一つ、この前から頭を離れない言葉がある。Martin Luther King Jr.の言葉だ。

彼が何故nonviolence (非暴力) にこだわるのか、その理由をこう説明していた。 

"to secure moral ends through moral means"
「倫理的な目的を倫理的な手段を通して確立するため」

キング牧師がガンジーに受けた影響を物語る言葉だ。

根底にあるのは次のような問いであるように思う。

武力で真の平和を達成することはできるのだろうか?
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2010年3月20日土曜日

大切にしたい




 今週の木曜日、大学の春休みということもあり、久しぶりにTeachers College (TC) の日本人で集まることになった。場所はTCから徒歩2分、BroadwayにあるAmsterdam Caféというバーレストラン。コロンビア大学の生徒にとっては馴染み深い店だ。

 サマータイムが始まったばかりでまだ日の暮れない5:30から飲み始めた。本当は 「Happy Hour (飲み物半額の早い時間帯) をしよう!!」 との号令で始まった企画だったが、終わった頃には既に日付が変わろうとしていた。

 この日 (ビールに誘われ) やってきたのは、教育経済学、比較国際教育学、国際開発教育学、教育社会学、教育哲学、カリキュラムスタディーズの計8人。年齢も専門分野もバラバラだが、 「日本」 と 「教育」 という傘の下に集まった仲間たちだ。

 自分には一つのセオリーがある。

    教育を志す人に悪い人はいない。

 教育は一般的に理解されているよりはるかに複雑で、お金にもならない職業だ。僕なんかは、頑張れば頑張るほど、世間的な価値観でいうと 「損をする」 職業だと思っている。にもかかわらず、教育という領域に、他にはない価値や意味を見つけて人生を懸ける人たちに、悪い人間がいるはずがない。

 この日も、それぞれの分野で情熱を燃やす同志が集まり、教育だけでなく、実に様々なことについてについて熱く語り合った。自分とは全く違う分野を追及している人の意見を聴くのは本当に刺激的だ。なるほど、そんな見方もあるのか、と考えさせられることが多々あった。

 僕は、最後に世界を変えるのは人と人との繋がりだと信じている。
だから、このようなdynamicな輪を、これからも大切にしていきたいと思っている。
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2010年3月16日火曜日

「消費資本主義と教育の商品化」Part II

自由主義と民主主義の緊張、そして教育


 実はこの 「消費資本主義と教育の商品化」 というテーマは、自分がマスターで追求したテーマの延長線上にあると自分では思っている。マスターで扱ったのは、 『アメリカの自由民主主義と道徳教育』というテーマで、公立学校での道徳教育の可能性を追求する時に浮き彫りになる自由主義と民主主義の対立を、Yoder v. Wisconsin (1972)とMozert v. Hawkins County (1987)という二つの裁判に焦点を当て、哲学とpolitical theoryの観点から考えた。




  日本もアメリカと同様、自由民主主義国家という分類に入るが、この国家体制の根本となっている自由民主主義は、自由主義と民主主義という二つの全く異なる社会理念の融合から成り立っている。そして、この融合は決して平穏なものではないのだ。




 自由の国アメリカが誇る自由主義とは、簡単に言えば、ありとあらゆる言語、文化、人種、政治理念、信仰などの個人の自由を受け入れ包み込もうとする、外へ外へと肥大化する力。



 それに対して民主主義は、自由主義によって多様化された人々を集めて一つの社会を運営していこうとする、内へ内へと向かう力だ。



 表面的に教育を考える時はさほど気にならない内外へ引っ張り合う緊張だが、これが公立学校での道徳教育の設定を考えると、もろに表面化する。



 道徳教育が他の教科と大きく違うのは、その内容が必然的に 「何が良い、何が悪い、何が正しい、何が間違っている」 の定義を迫り、価値観を序列化するところだ。(ここでは深く言及しないが、他の教科も本来は道徳の要素を排除できるわけはなく、奥深い所ではその内容選考に当然権力の問題がつきまとう。歴史教育が良い例だ。)



 例えば、誰がどのアイスクリームのフレーバーを好きであっても問題にはならないし、バニラよりチョコレート味の方が正しいなんてことにはならないだろう。ただそれが、中絶などのcontroversialなテーマになるとそうはいかない。同じ 「自由」 であっても、女性の産む自由なのか、子どもの生きる自由なのかを考えるだけで、意見は真っ二つに分かれてしまう。更に、多くの人にとっては、反対側の意見はただ自分の意見と 「異なる」 だけでなく、明らかに 「間違っている」 のだ。



 もっと言えば、自由、正義、誠実さなど、人間の最もベーシックな理念でさえ、人それぞれの道徳的、倫理的、宗教的視点によっては全く異なった解釈をもたらすため、学校で扱うのは決して容易なことではないのだ。ただ、容易でないから教えなくて良いのかと言えば、それ自体がまた新たな議論を呼ぶのだ。



 ちなみに、驚く人も多いかもしれないが、アメリカの最高裁で、公立学校にて進化論を教えてはいけないという州の法律が違憲と判定されたのは1968年、つい最近の話である。こうして教育法の歴史を振り返ると、アメリカがいかに法廷において個人の自由を尊重しながら国の将来を担う市民としての一般教育を追求してきたかが分かる。このことからも分かるように、アメリカの教育史は、個人の自由と国の教育義務のバランス維持追及の歴史でもある。そしてそれは、自由主義と民主主義のバランス維持に他ならないのだ。


  ただ、社会の多様化、そしてそれに伴う自由個人主義 (liberal individualism) に歯止めがかからないアメリカでは、このバランスは壊れつつある。もはやアメリカでは、バラバラになった、価値観を一つにまとめる市民教育を放棄しているように思えてならない。道徳教育のようなホットなトピックには触れない方が、政治的にスマートであるため、あからさまな道徳教育は回避されるのだ。




 ただ、容易でないから教えなくて良いのかと言えば、それ自体がまた新たな議論を呼ぶのだ。いや、少なくとも一昔前までは大いに議論を呼んでいた。1983年のアメリカ政府による教育レポート、A Nation at Riskとそれに伴った標準学力をベースにした教育改革 (standards-based reforms) の到来までは…。



 2002年のNo Child Left Behind Act施行後は、学力統一試験を主軸にした 「改革」 に拍車がかかり、 「学力」 の名の下に議論を呼ばない当たり障りのない内容での教育が今日の教育現場を支配している。



 ふと考える。これは日本でも同じことなのではないだろうか。

「消費資本主義と教育の商品化」 Part I

 前回のトピックからの展開として、Teachers Collegeで共に学ぶhoshinoさん、そしてフルブライト同期のmasaさんが最適な材料を提供してくれた。また、Teachers Collegeに来る前は塾に勤めていたsakiちゃんもわざわざ電話をくれた。こうして、自分の書いたものを誰かがキャッチしてくれて、そこからダイアローグが始まれば、そんなに嬉しいことはない。前回の投稿では言葉足らずな部分が多々あったので、少し膨らませて行きたいと思う。



hoshinoさんがコメントに次のように書いてくれた。



やはり教育の問題として決定的に重要なのは「学力、所得の差が、人間のwell-beingの差を決める物ではない」ということを、教育の中で大人が真剣に教える覚悟がない、ということではないでしょうか。いきなりアナログな話になりましたが、結局は個人個人の人生に対する考え方が最後に物を言う、そして、それは教育の重要な機能の一つであると言うことをなくして、政策を考えるのは非常に大きな間違いだと思います。世間の塾に対する意見を聞いていると、この点が抜けていることが多く、失望することが多いです。



また、masaさんは、学校の先生はどれだけ幸せか、という問いを投げかけてくれた。



 全く同感だ。二人の考えは、今僕が考えていることと深く繋がっているように思う。



前回、紆余曲折を繰り返しながら博士論文のテーマを考え続けていると書いたが、これが今、自分の頭の中に今居座っているアイディアだ。



「消費資本主義と教育の商品化」



英語では



Consumer Capitalism and Commodification of Education



となる。

となる。このレンズを使ってアメリカと日本の教育を分析し、前回にも書いた教員の社会的地位の向上に繋げていきたい。

2010年3月15日月曜日

尊敬できない先生からは子どもは学べない

 こちらでは先週中間試験が終わったところだ。勉強にかまけて随分とご無沙汰してしまった。一週間という短い間だが、この春休み中に、書きたいと思ってきたことを一つでも多く書けたらと思っている。


 さて、最近の僕はといえば、博士課程2年目が終わりに近づくにつれて、自分が残りの数年間をかけて追い求めたい博士論文のテーマを考え続けている。



 紆余曲折を繰り返し現在に至っているが、一つだけ変わらないのは、教員の社会的地位の向上に関する興味だ。



 僕は、学校に通う子どもにとって最も幸せなことは、自分が心から尊敬する先生に教えてもらえることだと考えている。 「先生すごい!」 と思っている生徒は、その先生からスポンジのように吸収するだろうし、尊敬できない先生からは子どもは学ぶことはないだろう。間違っているだろうか。



 こう考えると、少なくとも今の日本の初等、中等公立教育で教える教員は難しい立場にあると思う。難しくしている一つの大きな要因は塾の存在だ。



 平成20年度発表の文部科学省 「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査」 によると、平成19年の通塾率は小学生25.9%、中学生は53.5%に達している。小学生4人に1人、中学生は2人に1人が塾に通っている計算になる。



 僕が教えていた東京近郊の地域では、この通塾率は更に上がる。そして、高校受験が中学校における学びの集大成として位置付けられている現在のシステム、そして学歴主義が根強く存在する社会では、子どもや親にとっては、能力別で受験準備のためにカリキュラムを組んでくれる塾の勉強の方が、学校で学ぶことよりも遥かに価値がある。 「勉強は塾でやりなさい。」 と親が子どもに言うのも無理はない。学校の教員の悪口を子どもの前で平気で言う親も少なくない。



 このような塾への依存そして学校軽視の風潮がもたらす悪影響は計り知れない。学級崩壊 (多くのケースは優等生によって引き起こされる)、大人を尊敬しない子どもの増加、精神性疾患を理由に休職する教員の増加 (2009年の文科省の発表では16年連続。教員が鬱病になる確率は一般企業の2.5倍。)、教育機会の差によって生まれる格差の拡大(東大生の親の平均収入は年間1千万円。)…。



 しかし、教育の価値観が消費資本主義によって支配される中、塾が無くなることは考えにくい。そうだとしたら、塾を必要としない教育システム及び教育観の再構築を考えて行かなければならないと思う。



 『教員のモラル低下について』 でも紹介した大村はまさんの言葉を借りると、今求められているのは、尊敬され、教育に情熱を燃やす教員が教えに浸り、子どもが学びに浸れる教育の環境を整えることだと思う。



 「先生の言うことをしっかりと聴いてきなさい。」



そう自信を持って親が子どもを送り出せる教育環境の整備に、いつの日か携わることができたらと願っている。

2010年3月14日日曜日

卒業する君たちへ

熱く生き、感動に満ちた人生を!!

いつ、どこで再会しても、

胸を張って挨拶できるように

お互いに一生懸命生きて行きましょう。



君たちの卒業を遠くから祝福しています。

おめでとう。



鈴木 大裕





p.s. 中学3年生にとっては、先日行われた卒業式と同じメッセージになっちゃうけど許して下さい。結局伝えたいことはいつも同じだから。また、次に会える日まで。

いつかは 「プロフェッショナル」 ~ てるみさんから ~

 以下は、前にも何回か紹介したてるみさんからのメッセージです。
彼女は、よく日々の学びや感動をメールにて分かち合ってくれます。
でも、時には自分の大失敗を綴ったメールや懺悔のメールを送って
くる、ちょっとおかしな女の子です。

『あなたと分かち合いたいこと』 という、このブログのタイトルに
ふさわしいと思うので、ここでより多くの人とシェアしたいと思います。
きっと彼女のスキップしてる姿が目に浮かびますよ。

             大裕

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Sunshine!!

 土日はずっと雨で、今日は久しぶりの晴れです!曇りの日と、雨と、晴れの日では、世界が全然違って見えます。私は青い空が断然好きですよ。車のサイドミラーに、真っ白な雲が映っているのを発見するだけでワクワクできるもの:)



 先週は幕張メッセでのアルバイトがあって、それからTOEICの試験を受けてきました。途中でシャーペンが壊れて、試験官に借りたのですよ!あぁ焦った(笑)



 アルバイトは、「フードフェスタ」という世界各国の食品会社が集まる大きなイベントで、私は一週間USAブースでアシスタントスタッフとして働きました。雑用と力仕事が7割、後は通訳です。沢山の国が集まって、色んな言葉や音楽で溢れていて、千葉にいながら世界一周旅行が出来たのですよ!私にはピッタリのイベントです:)それから、自分の未熟さに驚かされました。英語の発音やうまさではなく、相手にちゃんと伝わる言葉が使える事、話を聞いてもらえる信頼をきずくことが大切なんだなって。相手の言ってる事が理解出来なかったり、あやふやな説明をして嫌な顔をされる時、不思議と自分の話す姿勢や、態度や、人間性まで見透かされている気分になります。英語力よりも、私自身が試されているように感じるのです。大裕さんもそんな風に感じる事がありますか?



 もう1つ。国際的な雰囲気にただ舞い上がってた去年とは違って、(去年はオーストラリアブースで同じ仕事をしたのですよ)今年は、大きなイベントを支えるプロフェッショナルな人たちの姿に、心から感動しました。ブースを設計する人、施工監督、海外出展者を取りまとめる営業、電気屋さんに水道屋さん、木材とゴミで溢れている会場内を、一夜にして完璧な状態にする清掃スタッフ・・。挙げてたらきりがないほど、沢山の職人さんを見ました。大人になったら当たり前かもしれないけれど、一人一人が、自分の仕事にプライドと責任を持って働いている様子に、妙に心を動かされたのです。私も、いつかちゃんと、彼らみたいになるのでしょうか?でもその「いつか」がくることが、楽しみなようで同時に少し怖くもあります。上手く説明出来ないけれど、そう思うのです。



 今日も楽しい事や、新しい発見がありますように!



              照美

2010年3月7日日曜日

「が(ん)ばった?」




 午後5:30。図書館での勉強を終えると、

僕はいつも走るように家に帰る。

アパートの下に着くと、鍵を使わず、

必ずインターホンでドアを開けてもらう。

 「お帰り~」 という妻の声の背景に、

愛音や美風の声が聞こえてくる。





階段を上がり、部屋に着くと、ドアがいつも半開きになっている。

そして開けると家族が出迎えてくれる。

この頃どんどん話せるようになっている愛音が言う。

 「おしごと?」

 そうだよ、と言うと続けて訊いてくる。

 「が(ん)ばった?」

 がんばったよ。

 そんなことを毎日のように訊かれると、

 お父さん、頑張らないわけにはいかないのだ。

 お父さん、今日もがんばっちゃうぞ~!!

2010年3月4日木曜日

僕は怒っている Part II

 昨日の5歳児餓死のニュースに続き、今日も虐待関連の記事が載っていた。



『食事与えず4歳児死亡…両親逮捕、虐待の疑いも』


『衰弱死の4歳児、児童相談所が強制保護断念』


『相次ぐ児童虐待、昨年は最多の335件』


 昨日、子どもの私物化について書いていて、ふと思ったことがある。子どもを 「自分のもの」 と考える親が増えている背景には、そのように考えさせる社会の風潮もあるのではないか。


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 論文に追われ、随分ごぶさたしてしまった。

さて、本題に戻ろう。僕はPart Iで、 「子どもの私物化」 について書いた。それは、全くその言葉の通りで、 「子どもは親のものだけでない」 という僕の考えを表している。僕は、子どもは社会の財産であると同時に、前回紹介したGibranの言葉のように、何にも属することのない、生きようとする命そのものだと考えたい。



 うちの二人の子どもたちが自分と妻から産まれてきたのではなく、僕らを通して生まれてきた、というGibranの考えが僕は好きだ。長女の愛音は2歳2カ月、次女の美風は5カ月になるが、いつになっても二人を見ていると不思議な感覚におそわれる。それは、二人とも、明らかに僕と妻に似ている所があるのと同時に、全く違う子ども一人ひとりのエネルギーを感じるからだ。この子は将来どんな人になるのだろう、いつも妻とそんなことを話しているが、正直全く分からないし、だからこそ面白い。



 先ほど、 「子どもは社会の財産」 とも書いた。そんな子どもの社会的な捉え方が、自由個人主義の歯止めが効かなくなっている今の時代こそ、大事なのではないかと思う。以前、 『人が育つ社会の在り方③』 でも書いた 「米百俵の精神」 と現代日本の 「年金問題」 を比べると、今の日本社会の、目先の事しか考えない小作農的なメンタリティーに愕然とする。



「大人が年金年金と言っているような社会では
子どもは育たない。」



 小関先生の言う通りだと思う。社会全体で子どもの将来を本気で考える…、今の日本に欠けているのはそんな風潮なのではないかと思う。



親には、 「子育てを社会全体で行っている」 という認識はないだろうし、 「委ねられている」 という認識もないだろう。



「別に頼んで産んでもらったのではないのだから…」

「あなたが産みたくて産んだのだから…」



 親に伝わっているのはそんなメッセージなのではないだろうか。



「いつも社会のためにありがとう」



 もしそんなメッセージが親たちにひしひしと伝わっていたら、はたして児童虐待のような問題は今のように起こっていただろうか。



 子育ては社会の健康の基盤を支える尊い仕事。そしてそれを一次的に担うのが親なのだと思う。そんな大事な仕事を担っている親に対して、もっともっと社会的な敬愛の念があったら、そしてサポート体制があったら、親の責任感もついてくるのではないだろうか。



 親も子どもも、背負わせてないから育たないのだ。


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p.s. 今日の記事 

『相次ぐ児童虐待…動かぬ行政、希薄な人間関係』

2010年3月3日水曜日

僕は怒っている

 ランチブレークに何気なくインターネットを開けたら、 『5歳長男餓死、「愛情わかなかった」夫婦逮捕』 というニュースが目に飛び込んできた。リーディングに追われているのに、かれこれ2時間ほど何もできていない。これを読んでくれているあなたは、このニュースを見て何を思うのだろうか。心を落ち着けて夜にでも書きたいと思う。  
                          大裕


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 自分にも子どもが産まれてからというもの、ちまたに流れる子どものニュースが自分のことのように気になるようになった。今回のように、読みながら思わず首を振ってしまうもの、行き場のない怒りが込み上げてくる事件も少なくない。




 今回、虐待によって餓死した智樹ちゃんは、死亡当時、5歳にして6.2kgしかなかったそうだ。6.2kg…。どの位の軽さかといえば、生後5か月になった我が家の美風よりも軽い。そして2歳2カ月になった愛音の半分もないのだ。



 勉強を終えて夕食前に家に戻ると、いつも二人をいっぺんに抱っこする。だから、左腕には美風、右腕には愛音の体の重みがしみついている。会ったこともない智樹ちゃんを抱っこしている姿を想像してしまう自分がいる。愛音よりも体は大きく、美風よりも軽い智樹ちゃんを抱っこする感覚は、想像するだけで確かな違和感がある。



 日頃から、世の中で起きるどんな些細なことでも自分にとって何らかの意味があると信じているが、このような事件はいったい自分にとって何の意味があるのだろうか、と考えさせられてしまう。 「またか」 と言って流すのは罪だ。



 智樹ちゃんはどのような気持ちで家族の食事を見て、

 会話を聞いていたのだろう。

 逮捕された両親は、どのような心持ちでご飯を食べていたのだろう。

 「体調に問題はない」とされた3歳の妹は、どんな気持ちで衰弱していく

 お兄ちゃんを見ていたのだろう。両親もお兄ちゃんもなく、

 これからどんな人生を歩んでいくのだろう。



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 人の親として、なぜこのような仕打ちを子どもにできるのか、僕には到底理解できない。

今回の事件を聞いた時、レバノン出身の詩人、 Khalil Gibran (ハリール・ジブラーン) の言葉が頭をよぎった。15年も前、大学生時代に出会った言葉だ。



預言者は言う、

Your children are not your children.


They are the sons and daughters of Life’s longing for itself.


They come through you but not from you,


And though they are with you yet they belong not to you.


(あなた方の子どもはあなた方のものではない。

彼らは生きようとする生命の子どもたちだ。

彼らはあなた方を通して産まれて来るが、

あなた方から来るのではない。

そしてあなた方と一緒にいるが、

あなた方の所有物ではない。

    『The Prophet(預言者)』 より (訳責:鈴木大裕)



 子どもを虐待できる人は、きっと子どもを私物化しているのだと思う。 「自分のものだ」 と勘違いしているに違いない。これも時代の流れなのだろうか。自分の命、自分の人生に対しても同じことが言えるのではないだろうか。きっと、自分の人生は自分だけのもの、命は自分が決めるものと思っている人間も少なくないのではないだろうか。



 もし、そうだとしたら、そんなに可哀想なことはない。僕は小さい頃からずっと親に教えられてきた。



どんなに辛いことがあっても自殺だけはしてはいけない。

あなたを愛している人たちが悲しい想いをするから。

生きていれば必ずいいことがあるから。



 人生に関しては、自分が出会った恩師たちからこう教わった。



 お前はもう一人じゃない。

 私たちの想いも一緒に背負って生きていくのだ。



 また、妻や子どもたちからも同じようなメッセージを日々もらい続けている。今、目の前にある学びと自分がどう向き合うのかが家族の明日を左右する。だから中途半端なことはできないし、今を大切に生きられるのだと思っている。



 人の間で生かされているという気付きの根底にあるのは、愛なのだと思う。

2010年3月2日火曜日

「健全たる、非常識人であれ」



 これは小関先生が好きな言葉の一つだ。

どこか剣道の名門校に出向いた時、そこの道場の壁に貼ってあったそうだ。妙に共感したと言っていた。


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 今年の冬、日本に一時帰国した際に、小関先生とこんなやり取りを交わした。





大裕:   Aが言っていましたけど、あそこの顧問は結構まともらしいですよ。


小関先生: ばか。人に「まとも」と言われているうちはまともじゃねえんだ。



またしても見事な面を打たれた瞬間だった。