教員2年目、全校集会でのことだった。剣道部の地方大会優勝の表彰が全校の前で行われた。
「剣道部!」と司会の先生に呼ばれると、剣道部の子どもたちは「はい!!」と力いっぱい息の合った返事をし、すくっと立ち上がった。男子は全員丸坊主に「上げパン」、女子は「剣道部カット」にスカートひざ下10cmで揃えた子どもたちが、軍隊が行進するように壇上に上がっていった。全校が静かに見守る中、後ろの方でウケを狙った三年生の生徒がおどけて言った。
「出たっ、小関教!!」
ふざけたつもりのそのコメントは、ある意味的をえていた。流行に乗り、服装や髪形などで何とか自分の「個性」をアピールしようとする思春期の子どもたちにとって、剣道部のようにしっかりと「型」にはまった子どもたちは理解できないのだ。きっと洗脳されているようにしか見えないのだろう。
全校集会で生徒たちを観察してみる。どの生徒も自分のピーアールで必死だ。髪のゴムの色を人と変えてみたり、髪を立ててみたり、Yシャツのボタンを開けてみたり、上履きに色を塗ってみたり、名札に飾りをつけてみたり…。
でも不思議なことに、そんな中でひときわ目立つのは、型にはまっているはずの剣道部の子たちなのだ。服装がちゃんとしているだけでなく、顔つきも、話を聞く姿勢も、雰囲気も全然違う。校歌斉唱などでは、お経を唱えるように歌う周りの生徒たちに構わず大声で歌っている。思春期真っ盛りの子どもたちにとって、周りの目を気にしないということがどれだけ大変なことか想像つくだろうか。
剣道部の一年生の中には、仕方なくやっている子もいるかもしれない。だが、上級生になればなるほど、周りの生徒たちと同じことをしていては一流になれないと信じ切っている。流行や世間に流されない信念を持っているのだ。
個性とはいったい何なのだろう。少なくとも、剣道部の子どもたちの中には、確実に個性が芽生える土壌ができているように感じる。
あとがき
いつも剣道部の子どもたちを引き合いに出して話をするが、僕は自分が指導させてもらった野球部の子どもたちも誇りに思っている。まだまだ教師として未熟だった自分に良くついて来てくれたと思う。野球を通して出会った素晴らしい子どもたちが、教師としての自分を成長させてくれたことは間違いない。
ただ、自分の指導に満足していないのも事実だ。決して手を抜いたわけではない。胸を張って自分のベストを尽くしたと言いきることができるし、実際に数多くのチームの顧問の先生方に選手たちの元気の良さ、礼儀正しさや、丹念に整備されているグランドを褒めて頂いた。
でも、自分が理想とする指導ができたかと言うと、そうではない。自分が成長すればするほど、今まで見えなかった新しい問題が見えてきてしまうのだ。小関先生の指導を常に目の当たりにしていた自分にとって、これは当然なことだったのだと思う。
僕にとって、小関先生はつまずきの石だった。そしてそれは幸運なことだった。
2009年10月9日金曜日
2009年10月7日水曜日
自分を持つということ② ~「守」「破」「離」~
自分を持つということは、自分を捨てるということでもある。
ある時、剣道場の控室で、小関先生が剣道における「守(しゅ)」「破(は)」「離(り)」という概念について教えてくれた。
「守」は守る
「破」は破る
「離」は離れる
つまり剣の道を究めるための精進の過程を表しているのだそうだ。(これは最近知ったことだが、この概念は剣道以外の他の武道や、茶、能など日本古来の伝統芸能の世界でも使われるそうだ。)揆奮館という武道塾のサイト(http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/syu_ha_ri.htm)には次のように書いてある。
そして、
はたして、何もない所から自分の「型」を見つけることは可能なのだろうか。スポーツにしても芸能にしても、他に習い、他を徹底的に真似ることから自分の型ができていく。それは、人生においても言えることなのではないだろうか。人生における「型」とは先生に他ならない。誰かを信じ、自分を完全に委ねることから唯一無二の「自分」が生まれるのではないかと思う。
小関先生は剣道部の子どもたちに「守」の大切さを説く。剣道には「基本は極意である」という言葉もある。基本を「最初に習う簡単な技術」と捉えてはいけない。基本は己の剣道の根幹となるもっとも大事な技術だ。それは、人としての基本も同じことだ。
小関先生は言う。3流4流の剣道人である私は一生「守」の段階だ。
あとがき
人生の先生が学校の教員である必要はない。それに、教員は自分がクラスや部活の生徒全員の「先生」にならなくても良いのだ。もちろん、教員がそこまで教えに没頭できる環境があれば、そんな理想的なことはないし、それこそ我々が目指すべき道だと思う。だがそれは並大抵なことではないし、『不登校から日本一』でも書いたように、学校に来る前から既に自分の先生を持っている子も中にはいる。親が先生である子もいるし、習い事を通して師匠を見つける生徒もいる。自分ではなく、その子に合った「先生」を探してあげることも教員の大事な仕事だと思う。
ある時、剣道場の控室で、小関先生が剣道における「守(しゅ)」「破(は)」「離(り)」という概念について教えてくれた。
「守」は守る
「破」は破る
「離」は離れる
つまり剣の道を究めるための精進の過程を表しているのだそうだ。(これは最近知ったことだが、この概念は剣道以外の他の武道や、茶、能など日本古来の伝統芸能の世界でも使われるそうだ。)揆奮館という武道塾のサイト(http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/syu_ha_ri.htm)には次のように書いてある。
「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、それをしっかりと身につけることをいう。
「破」とは、師に教えられしっかり身につけたことを自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。
「離」とは、それらの段階を通過し、何物にもとらわれない境地をいう。
修行をする上で、心・技・気の進むべき各段階を示した教えといえる。
[参照]全日本剣道連盟居合道学科試験出題模範解答例、月刊剣道日本編集部
そして、
武道における修行が人生に深く関わっている以上その修行には限りがない。すなわち限りなき修行に没入することを最終的には求めている言葉である。
[参照]武道論十五講、不味堂出版
はたして、何もない所から自分の「型」を見つけることは可能なのだろうか。スポーツにしても芸能にしても、他に習い、他を徹底的に真似ることから自分の型ができていく。それは、人生においても言えることなのではないだろうか。人生における「型」とは先生に他ならない。誰かを信じ、自分を完全に委ねることから唯一無二の「自分」が生まれるのではないかと思う。
小関先生は剣道部の子どもたちに「守」の大切さを説く。剣道には「基本は極意である」という言葉もある。基本を「最初に習う簡単な技術」と捉えてはいけない。基本は己の剣道の根幹となるもっとも大事な技術だ。それは、人としての基本も同じことだ。
小関先生は言う。3流4流の剣道人である私は一生「守」の段階だ。
あとがき
人生の先生が学校の教員である必要はない。それに、教員は自分がクラスや部活の生徒全員の「先生」にならなくても良いのだ。もちろん、教員がそこまで教えに没頭できる環境があれば、そんな理想的なことはないし、それこそ我々が目指すべき道だと思う。だがそれは並大抵なことではないし、『不登校から日本一』でも書いたように、学校に来る前から既に自分の先生を持っている子も中にはいる。親が先生である子もいるし、習い事を通して師匠を見つける生徒もいる。自分ではなく、その子に合った「先生」を探してあげることも教員の大事な仕事だと思う。
2009年10月6日火曜日
自分を持つということ① ~信じること~
以前『優等生を考える』で、「自分」を持たない八方美人の優等生ではなく、最終的には自分の心で感じ、頭で考えて判断できる自主性のある子どもを育てなくてはいけないと書いた。その続きを考えてみたい。
1.自信
子どもはどうすれば自信がつくんだと思う? 答えを考えている僕に、小関先生がこう言った。
「信じることだ。」
それは自分を信じるということではない。自分がない子にいくら「自分の可能性を信じろ」と言ったところで、その子が急に自信を持てるようになるわけではない。自信をつけたいのだったら、まずは人を信じることだ。
何かを達成したという成果なんて脆いものだ。それはまぐれかもしれないし、誰かに軽々と抜かれるかもしれない。でも、もし自分が心から尊敬している先生に褒められたらどうだろう。「よくやった」という師の一言が、生徒に魔法をかける。
小関先生の剣道部の子たちを見ていれば良くわかる。あの子たちは、自分を信じているというよりも、小関先生を信じている。小関先生の教えに自分を委ね、言われるように精進すれば、先輩たちのように強くなれると心底思っている。大きな大会でも、小関先生自身が「負けるわけがない」と言えば、子どもたちはどんな強豪相手でも臆さずに闘うことができる。小関先生に対する信頼こそが、あの子たちの自信そのものなのだ。
2.自分の中の「絶対」
そんな剣道部の子どもたちと比べ、優等生は自分の中の「絶対」を持たない。権力があると見なせば、いろんな人の意見を「はい、はい」と聞くので、自分自身の基準がないのだ。前にも言ったように、いくら正しいことでも、その子その場面において真実を貫いているとは限らない。対立する「正解」の狭間で、優等生は自由を失う。
ふと思い出すことがある。『プライド』でも書いた5000のことだ。博士課程一年目、大変な授業を受けながら、クラスメートは皆、成績に振り回されていた。自分の意見は教授にどう評価されるのか、提出した論文にはどんな成績がつけられて返されるのか、不安でしょうがないのだ。そんな彼らを見て、僕は自分自身の強さを知った。
以前、『無知の知』でも書いたように、自分の学びだけを気にしていた僕にとって、成績はさほど関係なかった。成績なんていうものは、所詮他人に押し付けられる基準でしかない。学びのスタイルも、進度も、表現方法も一人ひとり全く異なる学びの成果を、一様にしかも正確に評価できる基準など、もともと可能なのだろうか?
自分自身の基準を持っていれば、むやみに不安に駆られることもない。僕の中の「絶対」は常に小関先生だ。だから、僕が気にするのは、今自分が胸を張って小関先生に顔向けできるかということだけだ。恩師という存在は、頼りない自分に一本の「筋」を通してくれる。先生を持っている人間は強いのだ。
1.自信
子どもはどうすれば自信がつくんだと思う? 答えを考えている僕に、小関先生がこう言った。
「信じることだ。」
それは自分を信じるということではない。自分がない子にいくら「自分の可能性を信じろ」と言ったところで、その子が急に自信を持てるようになるわけではない。自信をつけたいのだったら、まずは人を信じることだ。
何かを達成したという成果なんて脆いものだ。それはまぐれかもしれないし、誰かに軽々と抜かれるかもしれない。でも、もし自分が心から尊敬している先生に褒められたらどうだろう。「よくやった」という師の一言が、生徒に魔法をかける。
小関先生の剣道部の子たちを見ていれば良くわかる。あの子たちは、自分を信じているというよりも、小関先生を信じている。小関先生の教えに自分を委ね、言われるように精進すれば、先輩たちのように強くなれると心底思っている。大きな大会でも、小関先生自身が「負けるわけがない」と言えば、子どもたちはどんな強豪相手でも臆さずに闘うことができる。小関先生に対する信頼こそが、あの子たちの自信そのものなのだ。
2.自分の中の「絶対」
そんな剣道部の子どもたちと比べ、優等生は自分の中の「絶対」を持たない。権力があると見なせば、いろんな人の意見を「はい、はい」と聞くので、自分自身の基準がないのだ。前にも言ったように、いくら正しいことでも、その子その場面において真実を貫いているとは限らない。対立する「正解」の狭間で、優等生は自由を失う。
ふと思い出すことがある。『プライド』でも書いた5000のことだ。博士課程一年目、大変な授業を受けながら、クラスメートは皆、成績に振り回されていた。自分の意見は教授にどう評価されるのか、提出した論文にはどんな成績がつけられて返されるのか、不安でしょうがないのだ。そんな彼らを見て、僕は自分自身の強さを知った。
以前、『無知の知』でも書いたように、自分の学びだけを気にしていた僕にとって、成績はさほど関係なかった。成績なんていうものは、所詮他人に押し付けられる基準でしかない。学びのスタイルも、進度も、表現方法も一人ひとり全く異なる学びの成果を、一様にしかも正確に評価できる基準など、もともと可能なのだろうか?
自分自身の基準を持っていれば、むやみに不安に駆られることもない。僕の中の「絶対」は常に小関先生だ。だから、僕が気にするのは、今自分が胸を張って小関先生に顔向けできるかということだけだ。恩師という存在は、頼りない自分に一本の「筋」を通してくれる。先生を持っている人間は強いのだ。
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