2010年8月30日月曜日

いつの日か ~ 繋いでいくこと(完) ~




 「ありがとう」 そして 「ごめんなさい」



あなたはこの二つの言葉の共通点をご存じだろうか。



 漢字にするとわかり易いかもしない。



   「感謝」 そして 「謝罪」



そう、答えは 「謝」 の字にある。



 1999年、アメリカで修士号を取得した僕は、日本に帰って来て、かおるさんと一緒に Learning Community for Change (LCFC) という名の教育に関する勉強会を立ち上げた。ある日の勉強会で、話に出てきた謝罪という言葉が妙に気になった。



 「ごめんなさい」 を表す言葉なのに、どうして感謝の 「謝」 の字を使うのか。



 当時中国語を勉強していた友人に電話をしたり、自分で 「漢字源」 を使って調べたりした。その結果、非常に興味深いことがわかった。



 「謝」 は、分解すれば大きく二つの部分に分けられる。



   「言」 と 「射」 だ。



 なるほど、共通点は 「言葉」 を 「射る」 ことか、と思うかもしれないが、早とちりをしてはいけない。ただ単に言葉を射るのであったら、別に 「おはよう」 や 「さよなら」 など何でも良いということになってしまう。でもそれらの言葉には 「謝」 の字は使わない。




「ありがとう」 そして 「ごめんなさい」 

共通点や如何に。



 実は 「射」 という字の語源に大きなヒントが隠されている。



 「射る」 とは何を意味するのかと言えば、むろん弓で矢を射ることである。その証拠に 「射」 の字は左側が 「身」、右側が 「寸」 だが、これは元々、人間が矢を放とうと弓を構えた姿が字になった象形文字だそうだ。



 では、 「ありがとう」 「ごめんなさい」 と弓矢の間にどんな関係があるのか。

 

 あなたには、ずっと言いたくても言えていない 「ありがとう」 や 「ごめんなさい」 がないだろうか。



 もしあるのであれば、そのあなたの心こそが弓なのだ。



 ただその一言を放ちたくて、あなたの心の弓は時間が経てば経つほど張りつめていく。その緊張から解放される道はただ一つ。相手を想う気持ちをその相手に向かって解き放つしかない。








---------------------------------







 人生には何とも奇妙なタイミングというものがある。 『ルーツ ~繋いでいくこと 4~』 で僕の高校時代の恩師であるMr.Walkerに触れ、彼の写真をブログ上に掲載したまさにあの日、彼の脳に癌が再発し、今回は手術もできないほど末期であることを彼の愛妻から知らされた。



 ショックだった。Mr.Walkerは自分の人生における初めての恩師だった。彼に出会っていなくても僕は日本の教育に疑問を抱いていたかもしれない。でも彼に出会っていなければ、自分が日本の教育を良くしよう、できるんだ、などと大それたことは思ってもいなかっただろう。前にも書いたが、僕にとっては彼との出会いが第二の人生の始まりだった。



 幸せなことに、僕はそうして、自分の中に潜在する可能性を心底信じてくれる先生に出会えた。Mr.Walkerは、僕が大学の卒業式、大学院合格、教員としての船出、結婚、子どもの誕生など、人生の節目節目に報告をすると、それを自分のことのように喜んでくれた。



 自分なりに先生を大事にしてきたつもりだ。でも、一つやり残したことがあった。



彼のもとに家族を連れていくことだ。それが自分にとっての責任であり、けじめであり、何よりの 「ありがとう」 だということを、心のどこかでわかっていた。



 すぐに妻の了解を取り、同じくMr.Walkerにお世話になった僕にとっての妹分である幸恵を連れ、次の日の夜には彼のいるニューハンプシャー州に向かって車を走らせていた。



 ニューヨークから車で5時間。大したことはない。遥かかなたのように感じていた距離は、せわしない日常が僕に抱かせていた幻想だった。



 久しぶりに会ったMr.Walkerは相変わらず大きく、驚くほど元気だった。あの日は本当に調子が良かったのか、それとも教え子を前に張り切っていたのかはよくわからない。ただ、そんな夫を心配そうに見ていたPhyllisがどうにも痛々しかった。高校生の時からずっとMr.Walkerを陰で支えてきた女性だ。



 話したいこと、分かち合いたいものはたくさんあったが、どうやったって時間が足りないのも事実だった。



 40分程して、僕たちは先生に別れを告げた。








-------------------------------








教えるという行為はリレーのようなものなのだと僕は思う。



一人の努力で完結できるものではない。教える側が渡したバトンを教えられる側はしっかりと受け止めるのだ。



師に感謝の気持ちを伝えたいのなら、自分の生き様を見せるしかない。先生の想いが詰まったバトンを持って走り続けるのだ。



そして自分もまた、いつの日か、そのバトンを後から来る者に繋げるのだ。








心から「先生」と呼べる人間に出会った人は幸せだ。背負うもの、繋ぐべきものを持っているのだから。

そんな教えを育むことこそが 「教育」 なのであり、我々に与えられた責任なのではないだろうか。



(終わり)
 
左から愛音、Mr.Walker、美風。
 
 
 
右から2番目が幸恵とその愛娘ハナちゃん。その隣がPhyllis。

2010年8月29日日曜日

再投稿: 君たちに伝えたいこと3 ~Responsibility~

 

 昨日、KAPLAN[1]で生徒にTOEFLを教えていた時、responsibilityという単語に出くわした。

 生徒に、 「この単語の意味知ってる?」 と聞くと、知らないと言う。 「責任」 という意味なのだが、何か良い教え方はないものかと思い、いつものようにこの単語を分解してみることにした。

 Responsibility は単純に大きく分けると、 response と ability に分解することが出来る。 Response は「応答」 、 「反応」 等の意味を持つ。いずれにせよ、漢字の 「応」 という字がその意味に最もふさわしいイメージを持つように思う。そして ability は 「能力」 という意味。

 おや? Responsibility… 応える、能力?それが 「責任」? 予想外の発見に僕は驚くと同時に不思議な説得力を感じていた。その場は responsibility の持つ、 「責任」 という意味、そしてそれを構成する要素を教え、それらの関連性については僕と生徒の次回までの宿題とした。

 家に帰った僕は早速、自分の持つ一番大きな英英辞典を開いた。それによると、 responsibility の元となる respond (応える) という単語はラテン語の respondere という単語に語源を持つ。

Re は 「返す。」
Spondere は 「約束する」 という意味をそれぞれ持つ。

つまり、 respond は元々、 "to promise in return" (約束をもってお返しをする) という意味なのだ。よって、 responsible は 「約束をもってお返しをすることが出来る」 という意味を持ち、その能力を持つ者を描き出す。

そして、論理的には responsibility の持つ 「責任」 とは、 「約束をもってお返しをする、その能力」 ということになるのだが、これがそうではないのだ。面白いことに、それは 「能力」 自体を指すのではなく、その能力を持つ者に 「課せられるもの」 を指すのである。

僕の持つ辞典には responsibility の説明の一つとして次のようなものがある

“a particular burden of obligation upon one who is responsible”
(Random House Webster’s College Dictionary,
1997, NY: Random House, Inc.. p.1107). 

Responsibleの意味を踏まえて訳すと、このようになる。

「約束をもってお返しをする能力を持つ者に課せられる、ある種の義務の負担。」

 能力を持つからこそ義務を背負う。こうして語源を考えると、それは世間一般に考えられている、 「責任がある」 という意味が持つ、外部から強制的に背負わされるイメージとはかなり異質なものであることが分かる。それは本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであるように思う。





 教育を受ける機会を得た者として、親や友人に恵まれた者として、人や大地の温もりに触れた者として、学生として、教育者として、大人として、母親として、父親として、女として、男として、人間として、そして一つの生命として、僕達が持つ 「責任」 とは何なのだろうか。僕達はどんな素晴らしいことを約束し、お返しすることが出来るのだろうか?そこには、しばしば 「責任」 とは遠いところに位置付けられる 「自由」 が顔を覗かせているように思う。

1999年作

[1] KAPLANとは自分が教員になる前に努めていた留学予備校。留学を希望する社会人や学生に英語(TOEFLやTOEICなど)を教えていました。

2010年8月28日土曜日

脈々と流れる教え ~繋いでいくこと 6~



学校が核となって人と人とを繋げていく。



奥村先生がおっしゃったまさにこの一言を僕は帰国2日目のあの日、目の当たりにした。剣道場を訪れ、そこで小関先生の教え子である岩井君と師匠である奥村先生にお会いしたことは既に書いた。その後、毎週水曜日の夜に行われている稽古会に参加するために続々と人が集まってきたのだ。県内に散らばった奥村先生のお弟子さんたちだ。その中には小関先生の姿もあった。以前、このブログに真摯な コメント を送ってくれた新任校の教え子たちを伴って。



 前日、成田に到着してすぐ小関先生には挨拶の電話を入れてあったが、まさかそんなにすぐにお会いできると思っていなかったので嬉しかった。



 それにしても、弟子、孫弟子たちが、それぞれの教え子たちを従えて師匠の下、一堂に会したその光景には強く心を打たれた。そこで見たのは、3代の教育者が何世代、何百年にも渡って脈々と流れてきた教えをしっかりと繋いでいこうとする姿だった。



 その光景に心震わせていた時、後ろで、 「大裕先生!」 と呼ぶ声がした。振り向いたら、立っていたのは僕が初めて担任として送り出した代の女の子だった。この前紹介した の世代だ。今、教育実習生として母校でお世話になっているのだと教えてくれた。そして、もう一人後から挨拶に来た。二人とも親の匂いがする活発な子たちだったので良く覚えていた。



彼女たちは言った。



    教員になりたい。



僕は心から嬉しかった。



    「おまえもしっかり繋いでいくのだ」



きっと、僕にそう伝えようとした神様のいたずらだったのだろう。
(続く…)

「そうか」 ~繋いでいくこと 5~

     「はい。昨日帰って参りました。」



あの日、孫弟子にあたる岩井君の剣道部の指導にいらした奥村先生にそう答えると、先生は、 「そうか」 とだけ言ってすたすたと控室に入って行かれた。



 僕がついて行くと、竹刀を壁に立て掛け、まあ座れとおっしゃった。失礼しますと正座する僕に、いいから足をくずせ、と奥村先生。そうは言われてもこの先生の前ではなかなかそうする気になれない。



 どんなお話が聴けるのだろう、と期待していた矢先、いきなり面が飛んできた。



    「(日本で)教員をやっててなにかアメリカで役に立ったことはあるか。」



 予期せぬ質問に、 8年前の光景 がフラッシュバックとして蘇った。



 2002年3月下旬のある日曜日、同じ部屋、同じように暑い日の昼下がりだった。出会ったばかりの小関先生に開口一番訊かれたのだった。

   

   「なんで教員になったの?」



 あの時と同じ面だと思った。







 奥村先生にアメリカで何が役に立ったと訊かれた僕は無意識に答えていた。



    「先生をもったことです。」



 とっさに出た言葉だったが、嘘ではなかった。博士課程1年目を終えた時に感じたことだが、 『自分を持つということ① ~信じること~』 でも書いたように、小関先生の存在が再留学をした自分に芯を与えてくれ、新たな学びに自信を持って身を委ねることを可能にしてくれたのだ。



 奥村先生はおっしゃった。



    「そうか」


奥村先生は納得されたのだろうか。それとも失望させてしまったのだろうか。余韻だけが狭い剣道場の控室を支配した。



 答えを得られないまま、僕は、自分の恩師のルーツを辿るという今年の夏のテーマを説明し、しいては小関先生の師匠である奥村先生のお話を是非お伺いしたいとお願いした。既に小関先生から話があったらしく、わかった、と了解して頂けた。







 後日、同じ部屋で話をお聞きすることができた。



 まずは、どうして教育の道を志したのかということ。



 奥村先生が教員になってから出会った安藤先生という師匠の話は既にお話しして頂いていたが、今回はもっと以前のお話を聞けた。体が弱く病院ばかり通っていた小、中学生時代。やりたかった剣道をやっとまともにやれるようになった高校生。高校最後の年に経験した一人の強烈な先生との出会い。そこから開けた剣の道。行けと言われるがままに先生の母校である国士舘大学に進み、気がつけば国体選手として千葉県に引き抜かれ、教員の道を歩んでいた。熊本の師匠との関係は今でも続いているという。



 その他にも、教育について実に様々な質問に率直にお答え下さった。資本主義が教育にもたらす影響。歯止めのかからないこの個人主義の時代にいかにしてパブリック ― 「公」 ― の部分を考えていけばいいのか。教員の社会的地位を高めるにはどうしたらいいのか…。



 特に心に残ったことが幾つかある。自分なりに解釈すると、まずは、これからは学校が地域の核となってばらばらになった人と人とを繋げる役割を果たしていくのだということ。そして、家庭の教育力が低下し続ける今、子どもをつかむことが教員の生きる道だということ。奥村先生らしい、非常に複雑な社会問題の真理を貫いた答えだった。







 1時間半ほどお話し頂いたのだろうか。僕とのかかり稽古を終えた奥村先生は一言こうおっしゃった。



    「先生をもったこと…。小関もえらくなったな。」

(続く…)

2010年8月23日月曜日

ルーツ ~繋いでいくこと 4~

 この夏の僕のテーマは、自分の恩師である小関先生のルーツを学ぶことだった。自分の信仰が深まれば深まるほど、その教えの出処を知りたいと思うのは当然のことであり、僕にとっては巡礼のようなものだった。



 思えば2002年、教員として4月からの正規採用が決まった時も、自分にとっての聖地とも言える、アメリカのニューハンプシャー州にある Holderness School を訪れた。その高校は、僕にとって初めての留学先であり、第二の人生が始まった場所であり、教育を生涯の仕事にしようと志した場所であり、僕を発見してくれた Mr. Walker と出会った場所であった。教員としてのスタートを切るにあたって、今一度そこを訪れることが必然のように思われた。


僕が過ごした寮

Dininghallへの道


秋は紅葉が美しい


お土産にプレゼントしたじんべいを着るMr.Walker



 今回の巡礼も似たような位置づけだったのかもしれない。博士課程2年目を終え、必修単位もほぼ履修した今、いよいよ博士論文へと突入していく。大勝負を前にして自分の原点を探ろうと思ったのもまた必然だったのだろう。







 話を帰国2日目に戻そう。あの日、岩井君の次に僕が出会ったのは、前回再投稿した 『自由を捨てて自らを解き放つ Part V ~信仰と自由の関係~』 でも紹介した小関先生の師匠である奥村先生だった。自分の孫弟子にあたる岩井君の剣道部の指導にいらしたのだ。



   「おう。帰って来たのか。」



 Tシャツに短パン姿の奥村先生がその大きな目を少し細めて微笑みかけて下さった。今年退官されたとは思えないほど若く見える。良い指導者になればなるほど、体と言葉にミスマッチが生じるような気がしてならない。見た目は若いが、放たれる言葉はまるで仙人のようだ。ちなみに、もはやこのブログの主人公のようになっている小関先生も若い。どうやら多くの読者が相当ご年配の老人を想像しているようだが、実はまだ47歳、見た目は40いくかいかないかといったところだろう。



 奥村先生を象徴する面白い逸話がある。



 小関先生は、自分の空き時間中によく校舎をぶらぶらする。授業中のクラスを廊下から覗いては生徒の様子を見て楽しむのだ。ある年、もし剣道をやっていなければ極悪人になっていただろうと思われる男子生徒が剣道部の主将を務めていたことがある。その彼は、どんな授業でも、自分が下を向いてノートをとっている時でさえ、廊下側の後ろの窓から覗く小関先生の気配を感じ、バッと振り向くのだった。



 生徒の意識をそこまでもっていくのは相当なことだ。僕などは逆に、自分の野球部の部員に気付いて欲しくとも気付いてもらえないことがほとんどだった。だから、そのことは小関先生も少し嬉しそうだった。



 後日、小関先生がその話を奥村先生に話したところ、奥村先生独特のゆっくりとした口調でこうこたえられたそうだ。



   「気配を消せないようじゃぁ 小関もまだまだだな。」



 あれには参ったと小関先生も大笑いをしていた。



 もう一つ、小関先生が全国制覇をした時の話も面白い。



 優勝直後、小関先生は会場にいらしていた奥村先生に挨拶をした。どんな言葉をかけてもらえるのだろう、そう期待した矢先の一言。



   「やっと勝ったか。」



 剣道6段の小関先生が蛇に睨まれた蛙のように奥村先生に打たれるのもそんなところなのだろうか。素人目から見ればいくらでもよけられそうな奥村先生のスローモーションの面に、小関先生は為す術もない。不思議な世界だ。


(続く…)

2010年8月21日土曜日

再投稿:「自由」 を捨てて自らを解き放つ Part V ~信仰と自由の関係~

   神を信じる人間はきっと自由なのだと思う。


 僕は、神の存在を信じているが、信仰する宗教はもっていない。そんな自分が宗教を語るのはおかしいかもしれないが、 「自由を捨てて自らを解き放つ」 というタイトルは、人が神を信仰するプロセスに通ずるのではないかと思う。神を信仰するということは、様々な欲望を抑え、厳しい神の教えに従うということだと思う。でも、それは自由を失うということではないように思う。


 宗教にはいろいろあるし、一概には言えないのは分かっているが、僕がイメージする宗教を語ってみたい。僕が思うに、宗教を信仰するということは神の教えを内在化させることであり、それによってもたらされるのは精神の自立だ。神の教えが自分の中の 「絶対」 となれば、それは周りに流されない信念を与えてくれるだろう。その信念は自分を神の教えに閉じ込めるのではなく、逆に新たな考えや世界へと踏み出す自信となるだろう。迷いは消え、自分の弱さとの葛藤のみが残るのではないだろうか。


 僕が言う 「先生を持つ」 という感覚は、きっと宗教家が 「神を信じる」 という感覚と似ているのだと思う。先生の教えを内在化させるということは、いつであろうがどこであろうが先生を意識して行動することに他ならない。アメリカにいる今でも自分に問いかける。 「今、小関先生がこの場に入って来られても、自分は胸を張っていられるだろうか。」 そう問い続けることが、自分を鼓舞し、正しい方向へと導いてくれるように思う。


 これを読んでくれている人たちの中でも、僕と小関先生の人間関係を理解できない人も少なくないのではないかと思う。そんな不安もあり、このブログで小関先生のことを書く時にはあえて敬語を使って来なかった。このブログの投稿記事数は今回で109になるが、少なくとも5回に1回は 『先生の教え』(計25本) について書いていることになる。


 『自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~』 で、剣道部の生徒たちがいかに小関先生に洗脳されているように周りに映るのかを書いたが、間違いなく自分も周りの教員からはそう見られていた。生徒の前であろうが呼ばれればダッシュで駆け付けたし、夜中だろうが何をやっていようが携帯で呼び出されればすっ飛んで行った。夏休み中、長野の山奥の山小屋に妻を一人残して、 「いざ鎌倉!!」 と言わんばかりに埼玉まで関東大会の応援に駆け付けたこともあった。


 もしその人が間違った方向に導いていたら、そこまで一人の人間を盲目に信じることは危険なのでは…、と思う人もいるかと思う。だが、僕にとってそんな不安はさらさらない。これはいつか書こうと思い続けてきたことだが、実は小関先生にも二人の先生がいるのだ。一人は大学時代の剣道部の先生である塩入先生。もう一人はまだ船橋市の教員だった頃から師弟関係のある奥村先生だ。二人とも超一流の教育者だ。


 小関先生は言う。


    「俺が言っている言葉は全て先生たちの言葉だ。」


 僕が小関先生に絶対の自信を持てるのは、小関先生自身が自分の先生に学び続け、自分を問い続けているからだ。自分はこれで良いのか。先生だったら何とおっしゃるだろう?


 また、奥村先生も同じことをおっしゃっていた。小関先生の道場の控室に飾ってある奥村先生の師匠の写真を見ながら、 「俺が語っているのは全部爺さんの言葉だ。」 そうおっしゃる先生の目は何とも優しかった。


 だから、こうして僕が崇拝している教えは、歴代の先生方によって、何十年、何百年と受け継がれ、磨き継がれてきた 約束のバトン だと思っている。それは決して完成されたものではない。でも、未完全で、満足されることなく追い求めてこられた教えだからこそ、自分は身を委ねることができるのだと思っている。


 小関先生は生徒にも平気で自分が打たれる姿を見せる。


 奥村先生は、よくうちの中学校の道場に顔を出される。大会前などになると、防具をまとい剣道部の生徒に稽古までつけて下さる。そんな時、小関先生は決まって自身も防具をつけ、真剣勝負を挑む。そして無惨に打たれる生身の姿を生徒に見せるのだ。


    「お前たちだけじゃない。自分だって修行中の身だ。」 


そんなメッセージを生徒に送り続ける小関先生の教えには、何にも勝る説得力がある。

2010年8月20日金曜日

先生の教え ~繋いでいくこと 3~

 野球部の部員たちと再会した後、僕は剣道場に向かった。誰かが道場の入り口に立っている僕を見つけて挨拶をすると、全員が元気な声で 「こんにちは!!」 と言ってくれた。小関先生が育てた剣道部らしい、形だけではなく心のこもった挨拶だ。



 大会前の練習の邪魔をしないように控室に行くと、今年から小関先生の後を任されている岩井君が防具をつけようとしていた。実は彼、小関先生の教え子だ。



 小関先生の指導の下、9年間で全国区として定着しただけでなく、個人ではあるが全国制覇まで果たした剣道部を誰に任せるかというのは、千葉市の剣道界にとっては非常に切実な問題だった。首脳陣がさんざん悩みぬいた果てに、彼しかいないだろうということで抜擢されたのが岩井君だった。子どもたちが全国レベルであれば、親もまた全国レベルだ。一家を挙げて子どもの剣道に懸けている親たちが勢揃いして待っている所へ、中途半端な指導者が来ようものならその指導者自身が潰れてしまうだろう。



 僕は以前何度か岩井君に会ったことがある。その時は会話は交わさなかったが、最初に会ったのは5年前に小関先生にとっての母校である、埼玉大学剣道部の寒稽古に参加させてもらった時のことだ。小関先生は毎年自分の剣道部を連れて参加していたが、お誘いを受け、僕も自分の野球部のリーダー達数人を連れて行った。岩井君は当時の埼玉大学エースにして主将を任されていた。



 一年生が 「大将」 やら 「大当たり」 やら、わけのわからない印をわざと防具につけて上級生やOBのしごきを受けていた。どうやら埼大剣道部の恒例らしい。



 そこはまさに修羅場だった。大体育館にて何百人という剣道家たちが剣を交えている。奇声が飛び交い、大学生たちがそこら中にのたうちまわっていた。馬乗りされて最後には面を剥がれている者も少なくなかった。そんな修羅場で君臨していたのが主将の岩井君だった。



 小関先生は数年前から、 「ここを任せられるのは岩井しかいないだろう」 と僕に漏らしていた。しかし、そのように小関先生にも認められた岩井君でさえ、この夏会った時には大学時代の自信に満ち満ちている面影は全くなかった。



 僕が、 「大変だね。」 と言うと、



 「いや~。もう本当に何もわからなくて。昨日も女子にこてんぱんにやられてしまって…。」 と答えた。



 そう言う彼の表情からは、彼が心底悩んでいることがうかがわれた。



    無知の知ってやつだね、と僕は言った。



 「ほんとにもっと早く小関先生にいろいろ聴いておけば良かったです。」 と言う彼からは、ここ数年間、小関先生から距離を置いていた自分を悔やんでいるように感じられた。

 

 実は、小関先生は、彼のことを認めながらも、この数年間ずっと彼のことを心配していた。



    「あいつは俺に寄って来ない。」 そう言っていた。



 やはり大学の剣道部で主将をやるということは王様になるようなものだし、教員としては部活だけでなく生徒指導もできるだろうし、ちやほやされてわかった気になってしまってるのだろうとのことだった。



 その岩井君、今では毎日のように小関先生に電話しているそうだ。



 最初に小関先生の後釜が岩井君に正式に決まったと聞いた時、僕は全身に鳥肌が立ったのを覚えている。岩井君が小関先生から距離を置いていたことも、小関先生が彼を心配していたことも、いざ始まれば彼が相当苦労するであろうことも知っていた。



   これが俺が築き上げてきた財産だ。全部お前にやる。好きなようにやってみろ。



 小関先生から岩井君へと繋がれたバトンには、そのようなメッセージが込められていたように思う。



 ちなみに、これもまたすごいめぐり合わせなのだが、小関先生が新しく赴任した中学校の剣道部の前任顧問もまた、彼の直の教え子だ。俺は感謝の心を宮原から学んだ、と小関先生が言っていたことがあり、今でも彼の机には彼女の最後の試合の写真が飾られてある。



 自分の後釜に自分の恩師が来ると知った彼女はいったいどう思ったのだろうか。想像を絶するプレッシャーだったのではないかと思う。彼女にとってもまた、最高の教えの機会となったことは間違いない。現に、この夏彼女に会った時、小関先生に毎日のように叱られてあげくの果てに見放されていると嘆いていた。



 2010年7月下旬のある日、千葉市中学校総合体育大会剣道女子団体の決勝戦が行われた。勝ち上がってきたのは、小関先生の前任校と新任校の両校だった。そして、前年度関東大会出場を果たし、今年度は全国大会出場を狙う小関先生の前任校が優勝という結果となった。小関先生にしてみれば、市内大会は勝って当然というチームを作ってきたつもりだったし、それに最後の最後まで食らいついた新任校の子たちは良くやったと言える内容だった。



 数日後、千葉県大会があり、岩井君率いる小関先生の前任校は決勝まで駒を進め、勝てば全国大会という所まで行ったが、あと一歩及ばなかった。試合後、小関先生は岩井君に惜しみない賛辞を贈った。



    「ジュンは良くやった。」


(続く…)

どれだけ真っ直ぐでいられるか ~繋いでいくこと 2~

教員時代の写真


 今年の夏の学びは、日本帰国2日目のできごとに集約されていた気がする。何の前ぶれもなしに訪れた以前の勤務校。そこで見つけたのは世代を超えた人の繋がりだった。



 日本に帰国すると、たいていは家族4人で調布にある妻の実家でお世話になる。ただ、そうすると久しぶりに日本に帰っていながら僕自身の実家に挨拶することもできないので、長旅で疲れている子どもたちを連れまわさないように、自分だけ帰国した次の日には必ず千葉の実家に顔を出すことにしている。



 千葉に向かう電車の中、2年前まで勤めていた中学校にむしょうに行きたくなった。 「少しだけ顔を出そう。」 そう決めて進路を変更した。



 学校近くになって、教務主任の関先生に電話した。まだ僕や小関先生がその学校にいた頃、僕たちの仕事をさんざんバックアップして下さった先生だ。名を名乗ると、 「おおー!お帰りなさーい!!」 と大きな声で歓迎して下さった。 「今どこにいるの?」 という問いに、実は校門まであと20メートルくらいだと伝えると、 「しょうがないな~」 と大笑いして、わざわざ玄関口まで出迎えに来て下さった。



 校舎の中に入ると、懐かしい緊張感に包まれた。



 教員というのは、人に見られる職業だ。学区を歩くだけでもそうだが、学校の中では特に自分の一挙一動が見られていると思った方がよい。つま先から髪の毛、そしてTシャツの裾まで神経を行き届かせ、一つひとつの行動に意味を与えることが求められている。自然と背筋が伸び、気持ちが引き締められる。気持ちの良い緊張感だ。



 もう自分が知っている生徒は3年生だけになってしまったなと少し寂しく感じていた矢先、2階の廊下でその日偶然母校を訪れていた卒業生2人に出くわした。両方とも僕が良く知っている生徒たちだった。そのうちの一人は、一年生の時に僕が彼女にdyslexic (失読症という学習障害) の可能性があることを親に指摘した子だった。デリケートな問題なので、指摘するにあたっていろいろ悩んだが、彼女が小学生の時からバカ扱いを受けていたこと、彼女自身も自分のことを頭が悪いと思い込んでいたこと、以前彼女の姉を僕が担任させてもらっていて親御さんとも親しかったことなどを理由に思い切って母親に相談してみたのだった。



 ちょうど帰国するちょっと前に、 Like Stars on Earth という彼女と同じ障害を持つ子どもを主人公にした素晴らしい映画を観ていたので、彼女に会いたいと思っていたところだった。そのことを話すと、高校一年生になった彼女も興奮気味にいろいろなことを話してくれた。あの時僕に指摘されて良かったということ、僕が学校を去ってからいろいろ自分の障害のことについて調べて全部ノートにまとめたこと、そのノートをいつか僕に見せたいと思っていたこと、将来自分のような学習障害を持った子どもと係る仕事をしたいということ…。心から嬉しかった。



 次に、どこから聞きつけたか、僕が去った時に野球部を任せてきた後輩が挨拶に来てくれた。今野球部がどんな状態なのかなどを話しながら、筋トレをしている部員たちの所に案内してくれた。あの時一年生だった彼らは三年生となり、皆ひとまわり大きくなっていた。



 その三年生たちが僕を取り巻くように整列したので、一言二言話をした。僕の話を聴く部員たちを前にして、ああ確かにこんな感覚だったと懐かしく感じた。彼らの前で嘘は言えない。真っ直ぐでないものを子どもたちは信じないし、まやかしを言っても自分が惨めな想いをするだけだ。子どもを前にしてどれだけ真っ直ぐでいられるか - 問われるのは自分の生き様であり、子どもが鏡となって今の自分を映してくれる。

(続く…)

2010年8月19日木曜日

繋いでいくこと 1

 このブログを始めたのが2009年の8月9日。旅行中に一周年を迎えてしまった。その間、様々な感動体験や出会いに恵まれ、大学院の勉強の合間に180本の投稿をすることができた。

久しぶりに、 「最初に…」 というこのブログの一番初めの投稿を読み返してみた。一年経った今、伝えたくてたまらなかった当時の心境とあまり変わらない自分がいる。ありがたいことだ。

この夏たくさんの感動を経験して得た溢れんばかりの想い。それをこのブログに注いでいこうと思う。

(続く…)

2010年8月6日金曜日

答えは子どもが持っている

 教育のこと、社会のこと、考えれば考えるほど複雑になってしまう。でも本当はもっとシンプルなのかもしれない。




    大人になるということは想いを背負って生きるということ



 先日、7回に渡って書いた翼のシリーズを読んだ愛さんがこのように感じたとコメントしてくれた。その通りだと思う。子どもは背負うことによって大人になっていく。



 物、お金、経験、命…。背負うものはいろいろあるけれど、最後は人の想いだ。だから周りの大人たちにできることは自分の想いを背負わせるのに値する生き方をすることだと思う。



 子どもにどれだけ持たせることができるのか…、突き詰めると全部自分に返ってくる。子どもを大人にするのが大人であるのなら、「大人」を大人にするのもまた子どもなのだと思う。