2013年12月5日木曜日

公教育の末期的症状 〜アメリカからの警告〜


昨日、ペンシルバニア州フィラデルフィア市で、大模な教育予算削の穴埋めに市内の公立学校の壁面を民間広告に使うという信じられないニュが流れた。(ちなみに、実現さえしなかったものの、2004年には、市内の高校の命名権を売りに出すという法案までもが検討されたというから笑ってしまう。)

フィラデルフィア市は、今、おそらく全米で最も公教育の存続が危ぶまれている所であり、ある新聞紙は、「末期的症状にある教育システム」と呼ぶほどだ。

オバマ政権に対する反動で共和党が全米各地で支持を伸ばした2010年の中間選挙。ペンシルバニア州では右翼のTom Corbett(トム・コルベット)新知事が誕生した。

2011年、コルベット知事が教育で最初に手がけたのは、約1000億円という前代未聞の規模の教育予算削減だった。

それによりフィラデルフィア市は約629億円の予算不足。借金により何とかしのいだが、市の財政は火の車となった。

ただ、大事なのは、この「財政危機」が作り上げられたものだという点だ。証拠に、限られた公教育予算から実に約675億円もが、民間経営のチャータースクールにあてがわれ、新たな刑務所を作るために約700億円もの税金が注がれている。Al Sharpton牧師はこのように言っている。

「聖書には、種をまいたものを刈り取るのだと書いてある。もし刑務所に投資をして学校の予算を削減するのなら、それは人間の教育ではなく監禁に投資していることになる。」

今年、新年度を前に市の教育長は約304億円の予算不足を報告。予定通り9月に新学期を始めるために、市は4000人近くの教員や職員を解雇、24校もの市内の公立学校を閉鎖した。

9月には12歳の女の子が学校で喘息の発作を起こし、帰宅後に搬送された救急病院で息を引き取ったことがニュースとなった。財政削減のため、その学校には看護婦(日本における養護教諭)が木曜日と金曜日にしか来校せず、その女の子が亡くなったのは水曜日だった。

これを機に、今度は養護教諭の仕事を民間にアウトソーシングでもするのだろうか。

架空の政危機をショックドクトリンの絶好の機会とし、公共予算を削減し、更なる公共事業の民化を促すという悪しき流れが、フィラデルフィアだけでなく、全米各地で起こっている。(ちなみに、オバマ政権の教育政策最大の目玉であったRace to the Topも、2008年のリーマンショックによる財政危機を見事に悪用し、結果的に公教育の民営化と組合潰しを全米規模で促進した、ショックドクトリンのお手本とも言える国家教育政策だったように思う。これについてはまた別の機会に書きたいと思う。)


来年、奇しくも、全米最大の教育学界であるアメリカ教育学界がフィラデルフィアで行われる。前回のサンフランシスコに続き、今回も自分が主催するEdu4で、学界従来の発表形式であるプレゼンではなく、学者が教員や親、その他地元のアクティビスト達と一緒になって教育運動を起こすためのシンポジウムを行うことになっている。どんなアクションが生まれるか、今から楽しみだ。

2013年12月1日日曜日

企業の企業による企業のためのアメリカ教育「改革」 〜アメリカからの警告〜



2013年4月19日、ニューヨーク州アルバニー。
「ニューヨーク州教育庁は、大幅な教育予算削減への対応策として、何億もの資金を生み出す可能性を持った公立学校の新たなプログラムを発表した。(中略)ニューヨーク州教育庁舎で金曜日に行われた記者会見で、教育長官のジョン・キング博士は満面の笑みで説明した。「多くの学区が貧窮する中、ニューヨーク州では映画業界にならい、州や地区の学力テストを用いて企業が年間を通して宣伝活動を行えるよう許可することにしました。」キング教育長官の説明によれば、ハリウッド映画の仕組みと同じように、企業は会社名及び商品名をテストの中にて演出する権利を買えるようになるという。」[i]

今年の4月、こんな記事がネット上を駆け巡った。「アメリカの公教育の民営化はここまで進んでいるのか」とあなたは驚いただろうか。それとも、「どうせデマだろ」と見事に見抜いただろうか。だが、実はこれ、単なるデマではない。脚色してあるものの、ある事実に基づいた巧妙なデマだからだ。その前日、ワシントンポスト[ii]、ニューヨーク(以下NY と省略)ポスト[iii]等の新聞社が、NY 州統一学力テストの8年生の英語の試験で、IBM、レゴ(LEGO)、MUG ルートビア、など、少なくとも6社程の会社名またはブランド名が不必要に問題に盛り込まれていたというニュースを報じた。州教育庁は、テストの傾向対策を防ぐという理由で、これらの学力テストの公表を拒否しているが、取材を受けた生徒たちによると、問題とは全く関係のない特定の商品や企業名がトレードマーク付きで載っており、欄外には、「○○はルートビアの大手ブランドです」など、商品の説明文まで添えられていたという。テストを作成したピアソン・エデュケーション(Pearson Education)は、これは州が新たに取り入れた全米共通学力基準4に対応した初めてのテストで、日常的に使われる文章を分析する能力をテストするため、ブランド名などが出てくることは避けられないと釈明した

この12月から4回に渡ってアメリカ公教育の崩について、季刊誌と教育民主教育研究所にて連載させて頂くことになった上記の文は、その第1回人間と教育80号の企による企のためのアメリカ教育改革」 〜アメリカからの警告12月10日発売予定)からの抜粋で、元はといえば今年の夏、『2030 ビジョン 教育フォーラム』に呼んで頂いた際に行った講演の一部を掘り下げたもの。世界最大のテスト会社ピアソンによる子どものテストを使った営業活動や政治との癒着からえてくる、企業の営利目的に動かされるアメリカの公教育政策を描いた。

実は、そのピアソンが、2015年から経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA—ピサ)のテスト作成を担当する。もはやピアソン帝国はアメリカだけでなく、世界をも飲み込もうとしている。近年、ピサの日本における影響力が強まってきていると感じている人も少なくはないと思うが、ピアソン参入後の影響力の拡大は、きっと桁違いになるだろう。

幾つかのことが予測できる。一つは、ピアソンが様々な手で国際的な競争を煽ること。政治との癒着を通し、参加国も確実に増やしてくるだろう。また、「ピサ型学力」に合わせた教材、模擬試験、カリキュラム、データシステム等の開発を徹底的に行い、国レベルでの販売攻勢をしかけるだろう。そして、各国の教育省や経団連のような団体とタイアップして、各国の教育政策のコンサルティングや、全国学力テストや国の指導要領さえもピサ 型学力に準ずるよう圧力をかけてくるかもしれない。

この悪しき流れが日本に来るかどうかは、日本がいかに腰を据えてPISA に対応できるかにかかっている。ちょうど今日から2日後の12月3日、OECDPISA2012 の結果を発表する予定になっている。結果が悪かった場合、一番危ないのは、一部の政治家がメディアを煽って、ショックドクトリン(クライン, 2007)の絶好の機会とし、その結果を「PISA ショック」に作り上げ、社会的麻痺を機に理不尽な教育「改革」を実行することだろう。日本では、日経新聞がピアソンと提携している。数日後に発表されるピサの結果を日経新聞がどのように報道するかも、注意して見ておく必要がある。また、日本の結果が良いにせよ悪いにせよ、様々なアジェンダをもつ団体が、自分たちに都合の良いように解釈するであろうことも、念頭に置いておく必要があるだろう。

今、我々に求められているのは、より根源的な問いと向き合うことであるように思う。どんな力が教育を動かしているのか。誰のための、何のための教育なのか。




[i] Students Last, 2013. http://studentslast.blogspot.com/2013/04/this-test-brought-to-you-by.html

[ii] http://www.washingtonpost.com/blogs/answer-sheet/wp/2013/04/20/new-standardized-tests-feature-plugs-for-commercial-products/
[iii] http://nypost.com/2013/04/18/learn-abcs-ibms/
[iiii] ナオミ・クライン、2007、『ショックドクトリン』

2013年8月31日土曜日

やりかけ


 中学校教員時代の教え子がNYの自宅に泊まりにきた。顧問をしていた野球部で、副キャプテンをやっていた子だ。一年生から卒業まで、初めて全部係わらせてもらった学年の子だった。大学4年の21歳。立派に就職も決めてきた。中学卒業以来だったので、7年ぶりの再開だった。

「教え子」とは言うけども、この言葉は使う度に疑問がつきまとう。前にも書いたが、「先生」にもいろいろある。学校の先生の中で、真の恩師になるような人間は、そうはいないし、なるかならないかは生徒が決めることだから、本人にはわからない場合も多い。

NYの友人達に紹介する時、わざわざ会いにきてくれたという率直な嬉しさから、ついつい、「昔の教え子」という言葉が出てきてしまう。

「こう紹介されて嫌な想いしてないだろうか」そんな不安がないとは言えない。

それにしても、昔の生徒に会えるのはありがたいことだ。やりかけで気になっていた仕事に戻れる感じだ。

もちろん、それは覚悟のいることでもある。

生徒の前に立つということについては、『どれだけ真っ直ぐでいられるか 〜繋いでいくこと2〜』でも書いたように、自分の生き様が問われるものだ。昔の生徒に会う度に、当時からの自分の生き方と、今の自分を見つめ直す貴重な機会となる。

たいていは、胸を張って昔の生徒に「会いたい」と思えるかどうかがバロメーターなのではないかと思う。それは生徒にとっても同じなのかもしれない。

ニューヨーカーが知る地元の良さを案内し、夜、行きつけのビールバーで酒を飲んだ。何でも来いという気持ちでさんざん昔のことを訊いた。聞きながら、「サイテーだな」と反省することしきり。

そんな中、こんなことを言われた。

「失礼かもしれないですけど、先生の気合いだけは伝わってきてました。」

ナイーブな昔の自分だったら、「このヤロー、気合いだけかっ!!」と言っていたところだろうが、今の自分にとっては、妙に嬉しい一言だった。

教員3年目だった自分。下手クソなりに、こちらの本気だけは伝わった、と救われた気がした。

きっと小関先生が聞いたら、「オッケイ!!」と言って下さることだろう。

  

夜に二人で出かける前に、彼を家族に会わせたいと思い、夕食は自分でつくることにした。その間、彼に子どもの世話を任せた。

キッチンで野菜を切っていると、背中越しに、5歳と3歳のうちの娘達が、キャッキャキャッキャと楽しそうに彼と戯れる声が聞こえてきた。


胸が膨らむ想いだった。



2013年7月22日月曜日

Something Beautiful 9:「俺らはイスラム教徒だから」


マンハッタンにあるコロンビア大学から公園を隔てたハーレムに引っ越してきて、はや4年が経つ。僕はこのコミュニティーが大好きだ。

何よりも、人がいい。

主にアフリカ系アメリカ人主体のコミュニティーだが、セネガルを初めとした西アフリカからの移民も多く、日曜日になるとキラキラと色鮮やかなアフリカの民族衣装に身を包んだ人々が通りを賑わす。それに比べ、アジア人はまだほとんどいない。

僕は、「行きつけの店」を持つのが好きだ。ここら辺でもたくさんある。

ただ、飲食店とは限らない。

南米系のおばさんが営むクリーニング店、Fredrick Douglasと114丁目にあるアフリカ系移民のたまり場のセネガルの食堂、Manhattan116丁目のデリ(日本でいうコンビニ)、ドイツ人とセネガル人が共同経営するビールの店Bier InternationalFredrick Douglass113丁目)、他にも何件かある。

置いている品物も勿論大事だが、たいていは、人の温かさで選ぶ。

お金を払う時や、料理を待つ時の、ちょっとした会話が嬉しい。コミュニティーの良さを感じるひと時だ。

こんな人間関係が、窮地を救ってくれる時もある。

以前、昼食を買いにセネガルの食堂に寄った時にクレジットカードが使えなかったことがある。ランニングの帰りだったために現金も無く、焦った。もう料理は包んでもらっていたし、困ってしまった。

セネガルおばさんの対応はシンプルだった。

「代金は今度でいいわ。」

そんなことが、他の店でも何回かあった。落とした財布がちゃんと自分の手元に戻ってくることで知られる日本でも、こんなことは珍しいんじゃないだろうか。ニューヨークのような世界有数の大都市にして、こんなにも情緒豊かなハーレムは、とてもスペシャルだ。

つい先ほどもこんなことがあった。

昨年に続き、今年も7月中はボストンで勉強する妻の所に、子ども達を連れて行った。高速バスでボストンからNYに着き、すぐタクシーを拾った。

いざカードで支払いをしようとしたら、またしても何らかの理由でカードが使えなかった。運転手さんに頼んで、116丁目のデリまで行ってもらい、ATMで現金をおろすことにした。

カードが使えないのも当然だった。残額が足りなかったのだ。

カードも使えなければ現金も手元になく、タクシーの運転手さんは子ども達と外で待っているという信じられない状態。残された道は一つしかないように思えた。

一か八か、顔見知りのデリのおじさんに、事情を説明してみた。

これこれこういうことで、申し訳ないがお金を貸してくれないだろうか。

イエメン出身のそのおじさんは躊躇せずにこう言った。

“No problem. How much?”

こうして$40彼に借り、無事タクシーの運転手さんに払うことができたのだ。

客が逆に店から金を借りるなんてこと、前代未聞だ。借りておきながら、自分自身、びっくりした。

子ども達をおいて、すぐさま家にあった現金を持っておじさんの所に引き返した。

ついでにビールも買い、「ありがとう」と言って$10手渡そうとした。でもおじさんは頑として受け取らなかった。

そのおじさんの言葉が印象的だった。


“We are Muslims.”
「俺らはイスラム教徒だから。」


アラーの神に感謝したい。