2018年6月20日水曜日

土佐町で日本の教育の未来を考え、飲んで語り合う合宿!!

今年1月、口コミだけで北海道から九州まで、21都道府県から教員、教育学者、大学生、その他市民などが集まった土佐町での合宿。7月に更にパワーアップして帰って来ます ^^ 今回は既に沖縄からの参加申し込みも頂いているので楽しみ。先着100名ですので申し込みはお早めに!





2017年10月9日月曜日

丸(第1話〜第10話)

8年の歳月を越えて ~ 1

 思い返せば、去年の夏もかつての教え子から大きな学びの機会をもらった。2008年に教員を辞めて早3年の月日が経過したが、今になってようやくわかること、今だからできることがたくさんある。教えにも学びにも完璧はない。

 前回再投稿した 『不登校から日本一』 に出てくる卓球の福原愛ちゃんの話、読んで頂けただろうか。

 あれを書いた僕の理解は不完全だった。小関先生が若手にあの話をする度に、僕はわかったつもりでいた。若手があきらかに間違った答えを返すと、小関先生は決まって僕に模範解答を求めた。僕はいつも、先輩らしく若手に正解を提示した。でも、今考えると、先生に振られる度に、模範解答と理由を記憶の中から掘り起こしている頼りない自分にどこかで気付いていた。

 おそらく、僕にとってこの夏最大の気付きは、「福原愛ちゃん」が実は自分のクラスにいたということだった。それは「丸」という8年前、僕のクラスにいた一人の女の子だった。


 8年。この時間をどう理解したらよいのだろうか。


 僕にとってそれは、丸に会いたいと思えるようになるのに要した時間だった。今だったら、自分の至らなさを心から謝れる、今だったら「大人」の余計な見栄を張らずに素直に彼女から学べる。初めてそう思えたのだった。

 今年の夏、丸と何年かぶりに再会し、飲みに行った。僕の方から連絡を取り、実現したものだった。丸と会った夜、小関先生から一通のメールを頂いた。


   「心洗われたか? -^_^-


いろいろ考えたあげく、一行の短い返事を出すことにした。


   「今日、初めて丸と会話をしました。」


どのような目線で ~ 2

卓球の福原愛ちゃんを担任した中学校の先生は、きっとやり辛かったのではないかと思う。

彼女は遠征等で学校を休むことも少なくなかっただろうし、帰ってきたと思ったら疲れていることもあっただろう。14歳の小さな世界の人間関係に葛藤する 「普通」 の子たちを30人以上抱えながら、世界の重圧と闘うスーパー中学生を受け持った担任は、どんな風に彼女に接したのだろうか。どこまで彼女と会話をし、どんな話を他の子たちにして、どんな居場所を彼女に提供し、どのように彼女を生かし、どこまで先生らしいことをできただろうか。

「先生らしいこと」 と言っても、その形は一つではない。それが一つに決まりがちな環境では、子どもの心はつかめない。「先生たちはみんなこう言う」  子どもたちがそう愚痴るのは、教員たちが子どもたちの心に寄り添えていない証拠だ。

近年、「上から目線ではなく、生徒と同じ目線で生徒と接する」 のが 「良い先生」 と思われる傾向がある。

これは間違っている。

どういう目線で接するのかは、目の前の生徒によって変わってくる。それを、生徒を観察せずに自分の目線を決定するのは愚かというものだ。

多くの場合、先生という者は高いたかい所から、親の愛情をもって導かなければならないのだと僕は思う。

今年の夏、目線の話をしていた時に、小関先生が面白いことを言っていた。

以前書いた Hannah Arendt のことを引き合いに出し、親が赤ん坊にやる 「高いたかい」 という行為が象徴的だと言うのだ。大人が子どもを引き上げ、大人の高い目線から見える世界を見せてあげる。そういうことだと僕は解釈した。

ただ、それは多くの場合であって、それだけではない。生徒と同じ目線で物事を見つめなければならない時も必ずある。

しかし、もっと大事なのは、それだけでもないということだ。生徒によっては、下から見上げなくてはならない子も中にはいるのだ。小関先生いわく、それは 「教員を越えてしまっている子」 だ。そして、この最後のケースが一番難しい。
丸という14歳の女の子は、僕にとって、まさにこれに当てはまるケースだった。


「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 3

「正直言ってあの時は辛かった。」 僕が丸にそう言うと、彼女は何も言わずに頷いた。

僕は彼女に全部話した。当時、自分が小関先生という新たな兄貴分の言うことに耳を貸しながら、彼を信じ切っていなかったために、理解できていなかったこと。同時に、それぞれ違った価値観を持つ周りの先生たちからも、「一人前」 として認められようとしていたこと。その結果、自分の言動の一貫性を失い、生徒たちを戸惑わせてしまったこと。自分の口から発される言葉が、次第に重みを失っていったあの感覚は、今でも忘れることができないということ。

ひとことで言うと、当時の僕には  というものがなかった。

中学生というのは、子どもが大人になるにおいて、特に中途半端で、不安定で、難しい時期だ。だからこそ、信じられる大人を子どもはこの時期特に必要とするのだと僕は思う。『伝えるのは人と信念』 でも書いたように、子どもにとって本当に必要なのは明確なルールなどではなく、いつも変わらぬ不動の人格と信念であり、それを持っている親や大人が、子どもにとっての安らぎ、そして自信を与えるのだと今だからわかる。だが、残念ながら、当時の自分にはそういう視点はなかった。

「当時の丸の目に、俺はどう映っていた?」 と彼女に質問した。

う~んと考えたあげく、彼女は言った。

小関先生から僕のことをいろいろ聞かされ、あの時もっと話を聞いておけばよかったなと思うようになったけど、正直言ってあの時は聴く耳を持っていなかった。

そうだよな、と僕は言った。

正直言って、丸は当時の僕にとって、非常に嫌な存在だった。今だからわかるが、それは彼女が僕を越えていたという何よりの証拠だった。

丸は、小関先生の指導の下、中学1年生の時から熱心に剣道の練習に取り組み、2年生にして強豪チームのレギュラーを張り、3年生になってからは部長及び不動の大将を務めていた。

「あいつが俺のことを一番良くわかっている」 と小関先生に言わしめたのが丸だった。

そんな丸が自分のクラスにいて、僕がやり辛いと感じないわけもなかった。

いろいろ考え、何か 「ためになる」 話をクラスにしても、丸には全てを見透かされている気がしていた。自分の弱さ、浅はかさ、そして偽り

今考えれば、丸は何よりも、既に 「先生」 を持っている人間に教えようとすることの愚かさを教えてくれていたのだった。


したたかに、逞しく ~ 4

 何年か振りに再会した丸は、22歳にして大手マッサージチェーン店の店長をしていた。その晩は、小関先生の取り計らいで、飲みに行く前に彼女に足のマッサージをしてもらうことになっていた。

 入ってすぐのカウンターの所に3人ほどいて、そのうちの一人が丸だった。

    「7時から店長使命で予約を入れてあるんですけど。」

 僕がそう言うと、他のスタッフの手前、恥ずかしそうに 「お久しぶりです」 と会釈をし、「担任の先生です」 と仲間に僕のことを紹介した。職業柄、丸はおしとやかになっていた。というか、そう振舞っていた。

 その時店には5人くらいのスタッフがいたのだろうか。丸よりも年上と思われる女性も多かった。

 僕がイスに座って待っていると間もなく丸が来て、普通のお客様と接するかのように、とても丁寧な応対をしてくれた。幾つか選ぶものがあるらしかったが、僕は、全て任せると丸に伝えた。

 マッサージの間中、僕は丸の仕事についていろいろな質問をした。

 彼女が始めたのはそんなに前のことではないそうだ。ただ、始めるとすぐに指名が絶えなくなり、半年そこらで店長に任命されたという。そして、今では指名件数が全国の従業員中5位だそうだ。

 さすが小関先生の愛弟子。小関先生の師匠である奥村先生から、話術に関して 「免許皆伝」 をもらっただけはある。施術ももちろん上手いが、誰とでも合わせて相手を楽しませられる彼女と会話したいために通う客も少なくないのだろう。



 丸が、一つ印象深い話をしてくれた。先日のこと、店に入って来て間もない若い子が、客の男性にメールアドレスを訊かれてショックを受けたと丸に泣きついてきたそうだ。

 「私をそんな対象として見ていたなんて。私はそんなためにマッサージ師になったんじゃありません!!」

そう主張する彼女に丸は言ったそうだ。

 「あんたね、だったら施術だけで客があんたの所に通うだけの腕があるの?第一お金を払ってまで会いたいと思われるなんて、女として光栄なことじゃない!」

さすが小関先生の教え子。したたかで、逞しい。

小関先生の言う、「生きる力」 を目の前で見せてもらった気がした。

救世主 5
丸がいたのは3年B組。そう、昨夏この場で紹介した  のクラスだ。

丸の学年は、2年生の時にいろいろな問題があったため、3年生に上がる時にもクラス替えをすることになった。僕は教員1年目に当時2年生だった丸の学年に副担任として入り、3学期には病欠となった学年主任の代わりにA組の担任をし、次の年はそのまま同じ学年で3年生の担任をやらせてもらえることになった。

他の学校の先生は決まって、「お前の学校はとんでもない人事をするな」 と僕に言った。普通、問題のあったクラスや、受験を伴う大事な3年生を新採に任せるようなことはしないからだ。僕が期待されていたのもあるかもしれないが、学年に人材がいなかったのも確かだ。

クラス編成。おそらく教員をしたことのない多くの人にとっては、子どもたちのクラスがどのように決められるのかは、未知なることの一つなのではないだろうか。もはや教員ではない自分の立場を活かして、遠慮なく書くことにする。

基本的には、生徒の性別に加え、学力が中心となる。学力が明らかに偏っていると、授業の進む速度が変わってきてしまうからだ。前の学年で行われた最後の学力テストか何かの点で一列に並べられた生徒の情報カードを、クラスの数だけ一気に振り分けていく。「A, B, C, D, E, E, D, C, B, A… といった感じだ。

大変なのはそれからだ。「公平」 なクラス編成にするためには、考慮しなくてはならない点が幾つもある。

それらの項目には例えば、ピアノ、欠損/生活保護、リーダー、不登校などがある。

最初の、「ピアノ」 というのは、多くの読者にとって意外かもしれない。たいていの中学校では、合唱コンクールのような音楽的な行事を行う。その時、クラスにピアノを弾ける子がいないと困ってしまうからだ。

欠損/生活保護というのは、字の通りだ。親が離婚していたり、どちらかが亡くなっている家庭、また生活保護を受けている家庭の子は、ニーズが高かったり、事務手続きが大変だったりする。だから偏りがないように各クラスに分散させる傾向がある。「不登校」 も同じ理由で分けられることが多い。

どのクラスにもリーダー格の生徒は必要だ。普通は男子1、女子1を各クラスに保障する。ただこれは、あてにならないことが多い。教員の価値観によっても誰を 「リーダー」 と見なすかは変わってくるし、多くの教員は、既に出来上がっている 「優等生」 を欲しがるからだ。優等生についてはさんざん書いてきたからここでは書かない。でも、小関先生にとっては、いわゆる 「優等生」 はリーダーにはあてはまらない。だから小関先生のクラスには、傍から見れば扱いにくい、癖のある子が多く集まり、「リーダー」 はいないことが多い。ただ、小関先生本人からしてみれば、それはダイヤモンドの原石の集まりだったりする。

そこまで振り分けたところで初めてクラス編成の土台ができるといっても良いかもしれない。本当の駆け引きが始まるのはそこからだ。たいていは一番最後の項目として、特別枠が設けられている。いわゆる 「問題児」 だ。

丸の代の3年時クラス編成には、当時学校の生徒指導主任だった小関先生も参加することになった。それによって、クラス分けは皆の予想以上のスピードで進むことになった。

簡単に言えば、小関先生がそれら特別枠の多くを容赦なく僕に振ったからだ。

「こいつはおまえ。こいつやこいつもおまえ といった感じだ。

そして最後に、「その代わりにこいつもおまえ。」

そう言って僕の救世主としてあてがわれたのが丸だった。


愛ではなく ~丸6
せっかく 「救世主」 としてクラスにもらった丸を、僕は使おうとしなかった。

勢いと情熱だけでやっていた自分にとって、生徒の力を借りようなどという頭は最初からなかったのだ。また、仮に丸を使おうと思ったところで、当時の僕には丸を扱うことさえできなかっただろう。

「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 3  でも書いたが、当時の自分は、鈴木大裕としての本音、小関先生の教え、そして教員の建前の狭間でもがいていた。

そのような教師の価値観と自信のぐらつきに、子どもというものは驚くほど敏感だ。それまでは生徒の前で 「語る」 ことを大切にしてきた自分だったが、段々と語れなくなっていく自分に気付いていた。

小関先生が僕の目の前に丸を呼んで、「どうだ、丸。大裕先生は語ってるか?」 と探りを入れるのがどれほど嫌だったことか

そして、僕は彼らに勝つことだけを意識するようになっていった。

毎日が勝負だった。僕と特に男子生徒たちとの間には明らかなラインが引かれ、毎日ジワジワと自分たちの縄張りを広げようとする彼らと、それを食い止めようとする僕の攻防戦。

それには、3年の教員としての、周りからの重圧も大きく関係していたように思う。

3年生というのは、中学校の最上学年だ。下級生は皆、上を見て育つし、上がだらしなければ下の学年の先生たちも生徒指導し辛くなってしまう。だから、問題の多い上級生を抑えつけられる先生が、「生徒指導のできる先生」 と思われる節が学校文化にはある。職員会議などで自分のクラスの生徒の問題行動が議題として浮上するたびに、僕はとても惨めな想いをするようになった。そして、クラス編成時は、「大丈夫。みんなでサポートするから」 と言っていた学年の先生たちは、いつの間にかそっぽを向くようになっていた。

生徒をコントロールすることばかり考えていた僕は、いつしか生徒たちを愛せなくなっていた。


全てデタラメだった ~丸 7
その頃の丸はと言えば、派手でちょっと危なっかしい女の子たちが集まったグループに入り、その子たちを中心にクラスの女子をまとめていた。

それは、僕の手伝いをしようというわけではなく、ただ小関先生の方だけを向き、自分の意志で勝手にやっていたのだと思う。丸にすれば、僕が邪魔だったに違いない。あのまま僕が手放しで丸のやりたいようにやらせていれば、きっとかかあ天下のクラスを作っていたのではないだろうか。実際、剣道で関東レベルの活躍し、クラスでは女子から信頼され、胆の据わった丸に男子も一目置いていた。2008年、僕が留学のために退職する時に、クラスだけじゃなく学校の番長格だった大山を引き連れ、花束を持って挨拶に来たのも丸だった。

今考えれば良くわかることだが、あの時の僕は自分が男子と勝負することによって、逆に彼らを勢いづかせていたに違いない。

もし、今、僕があの3B組をやり直せるとしたら、きっと僕は丸に全てを任せていただろう。

「丸、全ておまえに任せたぞ。やりたいようにやってくれ!」

きっとそんな感じだ。そうしたら僕は一匹狼だった  や不登校の子、元気の良い子たちの影に隠れて日頃目立つことのなかった子たちに集中できたことだろう。

自分はなんてバカだったのだろうか。

今考えれば、3Bは本当に面白いクラスだった。卒業間近になって、僕が親しみを込めて「暴れん坊3B と呼ぶようになったそのクラスは、こう言っちゃ悪いがバカを寄せ集めたクラスだった。ただ、その分他にはないバイタリティーと勢いがあった。お祭りごとが好きで、実は熱く、センチメンタルで、一生懸命何かをやりたい子が揃っていたように思う。彼らのエネルギーを抑えることではなく、生かすことに集中していれば、きっとものすごいクラスになっていたことだろう。

3B
のみんな、申し訳ない! 一生懸命やったつもりだが、全てデタラメだった!!



一流の子が抱える孤独 ~丸 8
あの晩、僕と丸は、8年の歳月を越えて、色々な話をした。焼酎を飲みながら。

入ったのは丸が馴染みの焼き鳥屋。22歳になった丸の渋いチョイスが妙に嬉しかった。

話しながら、僕は初めて丸と会話しているような気がしていた。なんでもっと早くこういう風に会話できなかったのか。苦笑いをするしかなかった。

あの晩一つ、気付かされたこと。それは丸の抱えていた孤独だった。

丸は、2年生のある日、ふと気付いたそうだ。

       
「一人ぼっちだな。」

丸の孤独は、ある意味必然だった。それは、自分だけの世界を持った一流の子、そうでない子の違いから生まれるものであって、きっと中学生の福原愛ちゃんやイチローも経験した孤独なのだと思う。

丸は、周りの中学生には理解できないプレッシャーや悩みと一人で闘っていた。

それは、2年生にしながら関東でも強豪の剣道部のレギュラーを張り、そのチームを間もなく任されるアスリートとしての重圧に加え、友達にも言えぬほどの貧困の中で生きる彼女の家庭環境があった。

丸の家は、母に兄一人という母子家庭だった。もちろん僕もそれは知っていたが、丸の家がどこまで貧しかったかは知らなかった。

家には食べ物もろくになかったという。その頃から、夜遅くまで働く母親に代わって、丸が料理も洗濯もしていた。ただ、運動会の日などのお弁当は、お母さんが自分で作ると言って聞かなかったそうだ。

そんなある日、お弁当のふたを開けた丸は、中を見て驚いたという。すぐに閉めたその弁当箱の中には、パンの耳だけがきれいに敷き詰められていたのだ。

その晩、丸に問い詰められたお母さんは、笑って答えたという。

    「しょうがないじゃないの。あれしかなかったんだから。」

その、あっけらかんと答えるお母さんの姿を見て、丸は子どもながらに思ったそうだ。

「この人には勝てない。」

丸は、その時のことを振り返りながら僕に言った。

「だってあんな風に子どもに言われたら、ごめんねとか言うのが普通じゃないですか。それをあの人は笑って開き直れるんですからね。」

皮肉でも何でもなく、母の逞しさを心底尊敬する丸の姿を見て、僕は逆に丸のすごさを知った気がした。貧しくても、常に母親の愛情を感じながら育った丸の逞しさに、僕は唸らされる想いがした。



パンの耳がきれいに敷き詰められたあのお弁当。丸は友達に見られないように、隠れて食べたという。


たった一言 ~ 9
学校では、小関先生がいたし、寂しいとは思わなかったが、一人ぼっちということは丸にとって紛れもない事実だった。

僕は今更ながら自分を恥ずかしく思った。

「丸にもっとこうして欲しい」 という担任としての自分のニーズはあっても、14歳の丸のニーズについては考えたこともなかった。

ただ、たとえ考えたとしても、当時の僕に彼女のニーズに応える力が無かったことを、丸は見抜いていた。

丸は、自分にお父さんがいないことを、人には言わないようにしていたそうだ。

「だって、そこで同情でもされたら、私、本当に可哀想な子になっちゃうじゃないですか。」

だから僕にも言わなかったのだと、彼女は正直に教えてくれた。

逆に、丸がいつから小関先生のことを慕うようになったかというと、一年生の時にその秘密を打ち明けた時だったそうだ。きっと、中一の彼女なりに、何か小関先生に感じるところがあったのだろう。



ちなみに、小関先生自身もお父さんのいない家庭で育ち、丸がそのことを知ったのはつい最近のことだ。

ある日、お父さんのことを訊かれた彼女は、思い切って言ったそうだ。

    「私、お父さんいないんです。」

でも大丈夫です、との内容を伝える彼女を見て小関先生は、ただ笑って「オーケー!!」 と答えたそうだ。小関先生を丸が信頼した瞬間だった。

    「己をもって和とする」

小関先生の言葉を思い出した。

4
持っている子には教員が6を出す。代わりに9持っている子には、教員は1しか出さなくて良い。どんな時も、生徒の備え持った力を見極めて、教員は足りない分だけを出せばよい。

ただ、今回学ばされたのは、どれだけ生徒が力を持っていても、教員側の提示分が決して0にはならないということ。どのような意図をもって、己を介入するか。時にそれは、「オーケー!!」 というたった一言だったりする。

その一言すら与えられなかった自分が心から悔やまれた。




ごめんなさい ~ (完)

あなたは、大人である自分を遥かに越える子に会ったことがあるだろうか。

それは、教えながら、何かの拍子に生徒から教えられるのとはわけが違う。

今夏の最大の気付き、それは 「自分を越える子」 が、実は8年前の自分のクラスにいたということだった。

当時はなぜ気付かなかったのか。

今だからわかるが、それは当時の自分に子どもを見る目がなかったからだ。僕には丸という14歳の少女のすごささえもわからなかった。

以前、『不登校から日本一』 にこんなことを書いた。

小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいない。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていくのだと思う。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。

それを読んで下さった小関先生は、「そこまで繋げられるようになったか」 と驚いたと言う。

しかし、今回、改めてわかったのは、自分が何もわかっていなかったということだ。

10回に渡って書いてきた今回のシリーズの最初を飾った小関先生の問い

    「もし自分の教えるクラスに中学生の福原愛ちゃんがいたら

今だからわかる。

あの問いは、自分を越える生徒に出会ったことのある者にしか答えられない。

そして、多くの者は、そういう子に出会っていることすら気付かない。

だから 『8年の歳月を越えて ~ 1 ~』 で僕が、「実は福原愛ちゃんが自分のクラスにいた」 と書いた時、小関先生は笑って言った。

    「おまえそんなこともわかってなかったのか?」

先生のそんなお叱りに、僕は 「はい!!」 と元気良く答えた。



ほんの些細なその一歩が、僕にとってはとてつもなく大きな飛躍だった。


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あの晩、一通り話した後で僕は丸に訊いてみた。

今だから言えることって何?

ケチョンケチョンに言われる覚悟をしていた僕に、丸は意外なことを言った。



    「ごめんなさい。」



あの時は生意気で。自分が働いて初めてわかる苦労がたくさんありました。丸はそう付け加えた。

僕は、丸に完全に降伏した。


(完)